2-4 人物伝 文官列女文化人

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2-4 人物伝 文官列女文化人

・文官 司馬亮(しばりょう) 八王の乱に絡んではくるものの司馬懿の息子である。人生のラストにまさかあのような馬鹿げた争いが起こるとは。南無。楊駿(ようしゅん)が権勢を振るっているときに排斥されかけたので、賈南風(かなんふう)が主導する楊駿抹殺の策謀に荷担、楊駿らを殺す。だが表向き司馬亮を尊重していた賈南風も、本音では司馬亮を退ける気満々であった。ポスト楊駿の座を巡り親戚の司馬瑋(しばい)と争っているところをつけ込まれ、賈南風に貶められた。斯くして権勢という鎧を失い、司馬瑋に殺されるのであった。ちなみにその司馬瑋も賈南風に殺されている。賈南風マジで怖い。 范長生(はんちょうせい) この人は普通に宰相枠でも良いのだが、こう、何というか、エピソードを読めば読むほど「内政の化け物」と言う印象が焼き付いてしまう。晋の支配を一族郎党で結束して振り切り、ようやく「成漢」を樹立した李雄(りゆう)が、まず求めたのがかれである。何度も士官を断りながらも、李雄の熱意に負け、成漢属となってみれば、あっと言う間に蜀の地を治めるのであった。 續咸(しょくかん) 劉琨(りゅうこん)に仕えていたが、劉琨滅亡後石勒幕下についた。いわゆる諫義大夫的な立ち位置のひとである。クソ喧しいジジイの言葉を如何に受け止め、政権運用の滋養とするかは、ある意味で君主の器を占うものであろう。かれを重んじ続けたところに石勒、そして石虎の懐の深さを感じ、また一方ではかれのスキルの高さに感服するのである。 劉弘(りゅうこう) 三国志末期を彩る名将羊祜(ようこ)の属官として活躍。その後荊州に派遣された。八王の乱~永嘉の乱で中原がぎゃんぎゃん喧しいのであるから、当然劉弘が治めていた荊州にも飛び火してくるわけである。文官枠として紹介しているが、これら飛び火を「ぉオン舐めとんかボケ」と武力で潰していたりする。一方では卓抜した内政手腕でもって荊州を経営している。こう言う文武両道の化け物がしれっと荊州でのほほんとしているのを見ると、いやお前もうちょい頑張ればあのクソ南朝貴族どもどうにか出来ただろ、と逆恨みにも近しき感慨を得てしまう。この手の化け物が荊州経営に専心してくれたのは喜ぶべき事なのやも知れぬが、彼の存在があったために西府軍、ひいては桓温の台頭が生まれた、とも言えるのである。 司馬穎(しばえい) 司馬衷の弟。しかし司馬炎(しばえん)の息子たちを眺めていると、早い段階で司馬乂(しばがい)を皇太子にしておけば……と思わぬでもない。ごく乱暴な因果関係から言えば「五胡十六国時代を招いた者」となる。八王の乱に殴り込みをかける際、かれが劉淵(りゅうえん)の機動力を大いに恃みとしたからである。結果八王の乱レースの勝者候補となった。が、司馬越の弟司馬騰(しばとう)が同じく機動力に長けた鮮卑を仲間に引き入れると一気に弱気となる。ジャンケンにおいてもグーとグーが戦えば、より強いグーが勝つのが摂理。つまり司馬穎は自らが飼う匈奴の精強さを舐めていたのであり、更には露骨に上に立つ者らしからぬ狼狽を示してもいた。劉淵より愛想も尽かされるはずである。中国史特有の「司馬穎お前ここで日和ったら終いやぞ」なる劉淵の事後演繹予言ビームをくらい、予言通りに終わった。そして劉淵は司馬穎より得た軍資を元手として漢を立ち上げるのである。 ※事後演繹予言ビーム:歴史著述者、即ち後の結果を知る者が、ある人物の見識高さを演出するために飾り付ける、後の結果を踏まえた提言。中には実際に言われたものも少なくなかろうが、あまりによく使われたため、二十一世紀日本にて「軍師の頭の良さアピールで事後演繹予言ビーム照射されると萎えるよねーwww」などと囁かれている。と言っても人間、自分よりも頭の良い人間の思考などそう簡単に想像できるものでもないのよなあ。おっと余談が長くなった。 陸機(りくき) 三國志、陸遜(りくそん)の孫。陸抗(りくこう)の息子。司馬氏を除けばほぼ唯一、と言っていい三國志ビッグネームの子孫である。八王の乱にて退場。陸遜の弟の家系であれば東晋末までその名を残してもいるのだが。呉が誇る名臣の一族と言うことで重んぜられた。はじめ賈氏に、次いで司馬倫(しばりん)、そして司馬穎(しばえい)に取り立てられる。ババを引きすぎである。ただし文才こそ秀でていたものの将才はなかったため軍を率いれば負けた。無教養者の司馬穎は、取り立てこそしたものの教養の塊のような陸機を疎んじていたようで、敗績の咎として手早く陸機を処刑。合わせて息子らや、弟の陸雲(りくうん)らも殺した。なお司馬穎のこの動きについての評価は賛否両論真っ二つに分かれており、踏み込んでみると面白い。 樊坦(はんたん) 石勒の配下として清冽な存在感を示す。ある日石勒の召喚を受け、ぼろを着たままで参内した。「お前、この俺に会うのにその格好はどうよ」とさすがの石勒も突っ込んだが、ここで樊坦は「いやぁ、クソ羯どもにむしり取られましてね」と返した。この頃樊坦の任地は石勒の同族、羯族の収奪に遭っていたのだ(なお「クソ羯」については、うっかり口が滑っただけのもよう)。それを、服装という形で訴えに出た。この訴えに石勒は感心し、多大な褒賞を下している。樊坦が本当に窮状に晒されていたにせよ、儒者的演技の賜物にせよ、石勒の人物をどのように表現したいと考えているか、がよく分かるエピソードである。 なおこのエピソードは、石勒が目指した胡漢融合と言う境地から眺めることでより補強される。即ち、例え石勒の同族たる羯族であっても特別扱いはしない、と言うことだ。樊坦は、いわば石勒の胡漢融合政策の象徴的存在である、と言える。 温嶠(おんきょう) 官僚としての印象が強い人物であるが、劉琨に従い石勒と戦ったりもしている。劉琨は敗色濃厚を悟ると温嶠を使者として司馬睿の元へ派遣。劉琨の敗死や西晋の滅亡を受け、司馬睿に仕えることとなった。そして司馬睿を帝位に推戴。しかし東晋は琅邪王氏の権勢が非常に強く、王敦(おうとん)の乱に代表されるように、司馬氏と王氏の対立が生じていた。ここで温嶠は折衝役として振る舞っている。その後の蘇峻祖約の乱でも陶侃と結び平定の道筋を作るなど、東晋百年の真の功労者と呼ぶべきであろう。桓温の産声を聞いて「こいつすげえ奴になりそうだな」と「温」の名をプレゼントした、と言うエピソードが残っている。のだが、いやいや姓をわざわざ諱に被らせるってどう考えても敵対的行為でしょとしか思えぬので、こちらは後世の人間による捏造なのではないかと疑っている。 悦綰(えつかん) 前燕対後趙という図式を描けば、世代的に衰退王朝対成長王朝、となる。即ちしばしば後趙軍と渡り合った悦綰は、爾後の前燕の雄飛を占うが如き治績を上げた、と言っても過言ではあるまい。世代交代の象徴として、この能吏は深く民心に覚えを保たれるべきである。この人の活躍の舞台はまさに甲趙と前燕が衝突しまくっていた地域であり、当然荒廃していた。しかしそのような場にあってよく民を守り、一方では戸籍調査などを行って実態を確認、税収確保に努めた。晋書ではこれらの功績を疎んだ慕容評に殺されたことになっており、資治通鑑では病死となっている、と言う。慕容周りのこの…… 趙整(ちょうせい) 前秦に仕えた、苻堅にとっての諫義大夫。多くの苻堅を諫めるエピソードがあり、その信任の厚さたるや想像を絶するものがあるのだが、……ところでかれのエピソードの中に「苻堅が慕容垂の奥さん寝取ったのでおいバカやめろとツッコんだ」と言うものがある。斯様な真似をしでかし、何故苻堅は、慕容垂が自分に忠誠を尽くし続けてくれると思えたのであろうか。苻堅の死後は仏門に入り、東晋の郗恢(ちかい)に招かれた。任地の襄陽へ赴き、そこで死んだ。 郗超(ちちょう) 郗鍳の孫。桓温の参謀としての働きを見せた。京口に赴任するもいちいち腰の重い父の郗愔に業を煮やし、その名を偽って実質的な前線引退しますよ宣言をさせた。これによって桓温は北西両府の軍権を掌握するに到る。桓温にとっての比類なき功労者であり、また晋書観点では「元凶」とも呼ぶべき存在ともなる。桓温の簒奪謀議の立ち上げにも絡んでおり、また「枋頭」前夜には諫止の奏上をなし、後日桓温に「あの時超の言を容れておれば」とも言わしめた。郗愔よりも先に亡くなるが、全力で不仲であったためあまり悼まれなかった。行状よりすれば、やむなきことである。 桓沖(かんちゅう) ストレスがマッハな人、と言う総括である。桓温の弟。兄の死後には西府軍を継承。簒奪の意図をあきらかにしていた兄の後であるから、はじめに「いやいやさすがに俺らはそんな大それた野望持ってないですからね?」と、晋朝に行動で示さねばならなかった。つらい。淝水の戦いに際しては西府防衛を任じられ「おいおい謝安あんな小僧っこどもに任せるとかヤキ回ったんじゃネーノ」と愚痴を漏らしている。ちょっとかわいい。とは言えその顛末を知っていても、桓沖のぼやきには同意せずにおれぬ、それが淝水の恐ろしさであろう。そんな淝水の直後に病死。恥ずか死ではないかと疑っている。 燕鳳(えんほう) 北魏の誕生を支える名外交官。と言うよりこのただ事でない名前の厨二臭は何なのか。代の末期から北魏の建設に至る、いわゆる拓跋の雌伏期を繋いだ。なおこの時期はまるまる道武帝の幼年~少年時代に当たる。道武が立ち上がる時匈奴諸部よりの後見を得ているが、この影に燕鳳の仕事があるのは間違いがあるまい。とは言えそこまでは前説である。この人のエピソードの出色は「代が滅んだとき道武が前秦の都長安に人質として差し出されそうになったが、それを燕鳳が食い止めた」である。即ちこの人がいなかったら道武は慕容沖(ぼようちゅう)と同じように苻堅に美味しくいただかれていたのかもしれないのである。恐ろしい恐ろしい。 叱干阿利(しつかんあり) 赫連マジキチ勃勃の臣下であるから当然マジキチである。勃勃が遺した統万城は、発掘調査の結果、その威容堅牢たるを衆人に知らしめている。と言うのも建築責任者となった叱干阿利が、例えば城壁工事にて「錐を打って一寸以上壁に食い込めばその部分を築いた者を即座に殺して壁に埋めた」そうである。なるほど、職人の育成はこのように行えばよいのであるな。やれるか。勃勃も、どちらかと言うと城壁に職人を埋めているのを見て爆笑したので叱干阿利を信任したのではなかろうか。 ・列女 賈南風 恵帝司馬衷(しばちゅう)の始めの皇后。八王の乱のきっかけのところにいる恐い人。次々と政敵を抹殺し、己が権勢を築く様はかなりえげつない。但し、そうして政敵を排除した後に運営した政権は割と公平なものであり、むしろ彼女を殺した司馬倫がその後の八王の乱という愉快な事態を招いたことを考えれば、賈南風はむしろ案外まともな人間で、まともでない奴らを排除していった結果逆襲を喰らったという観点も導き出せるのやも知れぬ。 羊献容(ようけんよう) 賈南風が廃されたあとの、司馬衷二人目の皇后。あまりにも偏りが激しいが仕方がないのである。皇后位を七回廃された上で七回復位し、最終的には劉曜の皇后になるなど、ドラマチックにもほどがある。本人としては堪ったものでもなかろうが。激動の人生ではあったが、劉曜の皇后に収まってからは幸福であった、とされる。ただ劉曜とのやり取り「前の夫はろくろく家族も守れないダメ亭主でしたが、あなたは全然そんな事ないです! 最高!」のあの言わされてる感は割とヤバいようにも思う。 (りゅう)皇后 石勒の皇后。諱は残っていない。石勒の正妻兼参謀という装いの人物であり、女傑と呼ぶに相応しい。才色兼備で嫉妬しないという美徳を持ち合わせた、とされる。一夫多妻制の中で嫉妬しない、が美徳とされるのは、ある意味でやむなきことではある。しかし男側に基づいた観点であると思わずにはおれぬ。ところで前漢の創始者劉邦の皇后、呂雉の再来と呼ばれたそうである。いいのか、あれ割と簒奪者枠の気がしたのだが。 庾文君(ゆぶんくん) 東晋明帝の皇后。皇后にしてレイプ被害者。なんだこの地獄は。蘇峻の項で建康陥落、と書いたが、ともなれば当然建康に住まう人物は全員が被害者となり得るのである。また庾文君は姓が示すとおり、庾亮の親族である。反乱軍のフラストレーション及び性欲のはけ口になるのは当然の流れであった。五胡十六国時代は北の蛮族、南の貴族とカテゴライズされることが多い。だがご安心頂きたい。どう考えてもどちらも普通に蛮族である。ただしボスニアヘルツェコビナの例を持ち出せば、「紳士と思っていた隣人が獣と化した」例も決して少なくはない。庾文君の悲劇は、どう徳化を試みたところで、結局のところ人間はその獣性を簡単には捨て切れぬ、と示すエピソードなのやも知れぬ。 荀灌(じゅんかん) 田中芳樹氏が大好きで仕方ない人物、と言う印象である。三国志は魏の荀彧(じゅんいく)の子孫。永嘉の乱で大賑わいになっていたころの荊州にて、荀灌の父親の守る城が反乱軍に包囲されていた。そこに僅か十数名の決死隊を率いて突入、見事父を救出する。なお、この時荀灌は十三歳。おいおいご冗談ですよね、と疑うしかない伝説である。それにしても五胡十六国時代、本当に三国時代のビッグネームの子孫がいない。割と陸遜の子孫程度ではないのか、と思えてならぬ。その意味でも、三国志の勝者はつくづく司馬懿であるな、との思いを新たにするのである。 褚太后(ちょたいごう) 東晋康帝の皇后。本名は褚蒜子(ちょれいし)。ところでいきなり話がわき道に逸れるのだが、夭逝している皇帝に「康」の諡号は正直如何なものか。まぁ死後の長久を願う、となるのやも知れぬが。ともあれ皇后でいた期間が二年で、皇太后でいた期間が四十年である。この長い皇太后であった期間を、後の簡文帝司馬昱(しばいく)と共に乗り越えた。この期間は穆(1才~19才)哀(20才~24才)廃(24才~30才)帝と言った若年帝夭折廃位祭であった。そのためどう頑張っても皇帝の権威は失墜する。桓温の権勢拡大は不可避であった。ただしその際、必ずしも太后や簡文帝と桓温は対立しきっているわけでもない。東晋中後期の主役が桓温なのは間違いがないが、そこに褚太后、簡文帝の視座を加えることで、この時代をより立体的に捉えることが叶おう。 ・文化人 仏図澄(ぶっとちょう) 五胡十六国時代以前にも西方伝来の異教、即ち仏教はおらぬでもない。しかし存在感を増すのは間違いなく五胡十六国時代以後である。このひとは石勒、石虎の庇護を受けている。中原にのさばる儒と言うゲテモノに対し、恐らく漢族でない石勒は拒否感を得ていたのであろう。ところで思想史を辿ると、仏教的思想は道家、即ち老荘思想と非常に親和性が高かった。また東西両晋時代に渡って麻疹の如く蔓延した「清談」志向は老荘に準拠している。実を求めた後趙朝と、虚に耽溺した晋朝貴族層のナレッジベースに老荘という共通項を得ているのが、なかなかに皮肉が効いていてよろしい。 王羲之(おうぎし) 二十一世紀に到るまで「書聖」として書道界のレジェンドたる地位を確保しているひとである。琅邪王氏である。割と政治には興味がなく、隠遁生活を送っていたりする。この人を見ていると、つくづく文化とは余剰と保護と安穏の先に産み出される退廃の副産物であるな、と思わずにおれぬ。一方では文化とは平和の副産物であるとも言えるので、簡単には弾劾し切れぬところはあるのだが。ただし琅邪王氏の平和は間違いなく民庶の流す血涙の上にある。王羲之の筆が神がかっていることに異論を差し挟む余地はないが「ところで筆は矛より強いんですか?」とは詰問してみたくもある。 釈道安(しゃくどうあん) 仏図澄の弟子として仏門を修め、当時のナンバーワン仏徒としての名声を得た。どの国も釈道安を顧問として雇いたがったが、釈道安獲得レースは苻堅による拉致という形で決着を見る。苻堅お前。ただし誠意を以て仕えはしたようである。苻堅の淝水南征を懸命に諫止した内の一人として数えられている。「鳩摩羅什(くまらじゅう)とかいうやべえ僧侶がいるんですぜ」と苻堅に紹介したりもしている。 鳩摩羅什 法華経を漢訳した。ホケキョウ。サンスクリット語と漢語という死ぬほど相性が悪そうな言語の橋渡しをした労苦は、手放しで称賛されるべきであろう。はじめ呂光(りょこう)に招かれ、その後姚興(ようこう)に寄食する。当人の意図が何処にあろうとも、結局は当代のプロパガンダに利用され続けた、としか思えぬ。なお彼のことを伝記化した漫画が存在しているが、五胡十六国クラスタ的に一番欲しい「呂光や姚興に重んぜられた頃の物語」が概略的なること甚だしく、おい得度までの物語とか邪魔だよ何やってんの! と叫ばずにおれぬ。 陶潜(とうせん) 筆名は陶淵明(とうえんめい)。「かえりなんいざ」で中高の国語教科書に載ってくるレベルの漢詩界隈に於けるレジェンドである。宮仕えを嫌って田舎に隠遁したのはいいが、何故か隠遁先にわざわざ王弘(おうこう)檀道済(だんどうさい)、つまり劉裕政権のトップネームが訪れたりしている。それでいて劉裕政権批判の詩も書いていたりするのが面白い。
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