2-5 人物伝 翻弄佞臣逆賊

1/1
前へ
/22ページ
次へ

2-5 人物伝 翻弄佞臣逆賊

・翻弄 北宮純(ほくきゅうじゅん) 別名きたみや・じゅんである。激動の人生を歩んでいるので、恐らくタイムスリップ者である。ちなみに後世の北魏には司馬天助(しばてんじょ)という人物がいる。かれも恐らくタイムスリップしたのであろう。思った以上にタイムスリップ者はそこかしこに存在しておるな。 前涼は張軌(ちょうき)の配下武将として活躍、永嘉の乱の折には晋を守るための援軍として度々派遣された。そして洛陽を襲う王弥(おうび)を大いに打ち破る。また漢軍本隊の逆襲を受けるも一度は撃退、これによって洛陽防衛の英雄としてじゅん君は讃えられた。しかし度重なる戦いのダメージにより洛陽は疲弊しており、三度目の侵攻の前に、遂に陥落。じゅん君も降伏し、漢将としてのキャリアをスタートさせる。だが、主に恵まれていなかった。劉聡(りゅうそう)世子、劉粲(りゅうさん)。かれは暴政の末、宮中で権勢を握った佞臣の靳準(きんじゅん)に殺されている。そしてじゅん君も、その巻き添えとなっているのである。 まあ、恐らく二十一世紀日本に帰ったのであろうがな。 劉超(りゅうちょう) 東晋朝の近衛隊長。元帝そっくりの筆跡で字が書けるだとか、王敦(おうとん)の乱辺りで一人元帝を守ったとか、蘇峻租約の乱では流亡を強要された成帝にそのさ中講義をするとか、なにこの文武修身あらゆる面においてハイスペックなおじさんは、という印象である。ついでに元帝からの褒賞はだいたい固辞して私財を抱え込まないようにしていたとか、東晋の腐れ貴族どもを眺めていると、この人の存在が途轍もない清涼感を伴って際立ってくる。その最期が蘇峻の魔の手から成帝を助けようとした末の策謀失敗。報われない。美しい。  五胡十六国で初めて完結した小説が慕容沖であることから分かる通り、この手の志を果たせず斃れた人物が、非常に作者の好物なのである。 謝艾(しゃがい) この人ひとりの武名がずば抜けている印象があるのが前涼である。押し寄せてくる後趙の大軍を何度も跳ね返す大武功を上げている、が、大武功を妬むのは人の世の常なのか、讒言に遭い、君主に疎まれ、殺された。その後前涼の衰運が加速していくのを見ると、本当にご冗談でしょうと言うくらい美しき物語ができあがっているよう思う。 慕容桓(ぼようかん) 慕容皝の息子の一人である。前燕という国の末路はどうしても慕容暐(ぼようい)慕容評(ぼようひょう)慕容垂(ぼようすい)辺りにフォーカスが集まらざるを得ぬ。しかし慕容暐は燕という国そのものであるし、慕容評は高句麗に逃亡、慕容垂はむしろ滅ぼす側、と、誰一人として燕の民の帰趨に関わる印象がない。では前燕の遺民らがどのように振る舞ったか、と言うテーマが浮かぶ。このテーマの鍵となるのがこの人、慕容桓である。前燕滅亡後、慕容桓は遼東、ごく大雑把に言えば燕都・鄴と、慕容評の亡命先である高句麗との間に陣を張り、戦い、しかし結局は前秦軍に敗北、殺された。見方によっては慕容評亡命の殿を努めた、とも解しうるが、ドラマとしては燕の遺民を守らんと孤軍奮闘した、とした方が、判官贔屓の引き倒しが出来るので美しいのである。義に殉じる名将が美味であるのはコモンセンスである、と断じても良かろう。 朱序(しゅじょ) 自分がこれまで読んできた概説本では「声がデカいモブ」扱いであり、それが非常に許せぬと言う、完全に私怨で紹介する。どう考えても東晋の対前秦防衛線、またポスト淝水の北部戦線を守った名将なのだが、概説本ではだいたい「いったん苻堅に帰順したものの淝水の戦いで「苻堅は死んだぞ!」と叫び、情勢を一変させた人」としか書かれておらぬ。一芸職人か。鶏鳴狗盗か。割と語りたいところの多い武将であるが、まぁ別の機会に譲ろう。 司馬休之(しばきゅうし) 東晋と北魏にはしばしば人材の流動が起こっていた。それを象徴するような人物である。先祖は司馬懿(しばい)の弟であるから東晋皇族とはさほど近しき縁戚ではない。しかしその声望は国内で急激に台頭していく劉裕(りゅうゆう)の対抗馬として見なされるほどであった。このため劉裕からはちょくちょく牽制を受けている形跡がある。最終的には完全に敵対、敢え無く敗北し、北魏へと流れる。そして死亡。共に付き従った刁雍(ちょうよう)などはその子孫が代々魏書に名前を残している。ところで魏から宋へ流れた人物ってなかなかいらっしゃいませんね? 毛修之(もうしゅうし) 劉裕周りではもっとも激動の人生を送ったのでは、と思われる。無論かの時代の人物は何れもが時代の荒波に翻弄され通しなのであるが。桓玄の専横甚だしき折には桓玄の幕下におり、桓玄敗走の段に至り桓玄を見切り、劉裕の幕佐入り。と思えば益州を統治していた親族が謀反にあって殺され、その討伐に赴こうとしたところにバカの内応で足を引っ張られ立ち往生。その辺りを解決して劉裕のライバル(笑)劉毅の属僚となれば劉毅が謀反。再度益州討伐の軍が編成されれば外され(たぶん無茶すると思われたのだろう)、後秦戦では後軍所属。こうして来歴を眺めてみると活躍したいシチュエーションで微妙に要職から外されている。劉裕の息子の参謀として長安に駐屯していたところに赫連勃勃の襲撃を受け、捕えられて夏入り、やがては北魏へ。そして北魏で一気に花開く。今回改めてそのキャリアを眺めてみたのだが、この人は微妙に劉裕政権下では大事にされていない。桓玄討伐起義に関わっていない、という部分が微妙に足を引っ張っているよう思う。後々の戦績を見てみれば明らかに暁勇と呼ぶべき武将であるにもかかわらず、である。劉裕にとって桓玄討伐の業績と言うのは、一種の呪いのようなものにすら思えてならぬし、そりゃ毛修之も喜んで活躍できる国に行くわ、という印象である。 司馬楚之(しばそし) 元々は東晋の皇族。司馬休之の親戚であったため、当たり前のように劉裕に目をつけられていた。そこでかれも司馬氏宗族を糾合、抵抗を試みるも、結局は司馬休之の敗北を受け、北魏に走る。その魏の地では大いに活躍し、のちの北斉にまで到る家門として栄えた。以上の都合によりかれの物語は美しくなければならず、劉裕が差し向けてきた暗殺者をもてなして感服させ、服属なさしめた、と言うエピソードが魏書に載っている。しかし実態は到底信用のおけぬ小者である、と評さざるを得ぬ。我の下したこの評価は資治通鑑にてご確認頂けますので読んでね☆ ※作者注:崔浩先生ご自身が漢族の名族だったもんだから、同じく名族の司馬氏に幅きかせられるのがムカついてたんじゃないでしょうか。資治通鑑で拓跋燾(たくばつとう)が司馬楚之を抜擢しようかってシーンで、必要以上にこっぴどく彼をこき下ろされてます。 ・佞臣 楊駿(ようしゅん) 姪と娘を司馬炎に嫁がせている。その内姪が恵帝司馬衷(しばちゅう)を産んでいるため、外戚として大いに権勢を振るった。賈南風という怪物もしくは傑物を語る上で欠かせぬ人物でもある。八王の乱前夜を語るには、ここに更に三國志末期の名将羊祜(ようこ)の一族を絡めることでより複雑になり、結果語りたくなくなる。故に「司馬氏の相続権を巡って楊氏賈氏羊氏がぐちゃぐちゃやったら司馬倫がハッスルしました」とだけ理解しておくと良い。 司馬倫(しばりん) 後先考えず八王の乱の引き金を引いた人。ある程度のビジョンを描き朝政を握っていた賈南風(かなんふう)を、然したる政権運営ビジョンも無しに殺害、皇帝を名乗る。そしてやったことと言えば宴会である。「あっバカでも名乗ったモン勝ちじゃん」と司馬氏諸王が気付いてしまうのはやむを得ぬ事であった。さくっと司馬氏連合軍に殺され、その後連合軍は内輪もめを繰り返す。その経緯を通じ、様々な軍資が匈奴漢慕容鮮卑拓跋鮮卑に流入するわけである。 靳準(きんじゅん) 劉聡(りゅうそう)に仕えた、惚れ惚れとするばかりの佞臣である。まず自らの娘のうち特に容色に秀でた二名を劉聡に献じた。更には劉聡の世子、劉粲(りゅうさん)にも娘を献じている。ここまで露骨なことをされて朝政を壟断されないと劉聡は思っていたのであろうか。まぁ晩年の劉聡はどう考えても酒に脳を焼かれているので考えるだけ無駄のような気もせぬではないが。そんな劉聡が死んだら早速劉粲を殺し、漢を乗っ取ろうとした。当然「バカかお前」と劉曜(りゅうよう)に殺され終了である。 麻秋(ましゅう) 後趙の誇る狂人。石虎(せきこ)暴君伝説の補佐役的立場を押し付けられている印象はある。各地に転戦、そして各地でど派手に敗北。譴責こそ受けるものの殺されぬ。普段の石虎であれば、失敗した部下を割とカジュアルに殺すのに、である。結局その謎の関係性解明は石虎の死により不可能となった。その後の趙室を簒奪した冉閔には疎まれていたようで、西に逃げる。その途上で前秦の祖、蒲洪(ほこう)に捕まり、登用される。そこで麻秋が考えたのは「こいつ殺してこいつの軍閥乗っ取ったろ」であった。殺す、までは出来たが、その後普通に息子、苻建(ふけん)の返り討ちに遭い死んだ。 慕容評(ぼようひょう) さてここまで散々マエフリを入れてきた。この人のためである。「燕を継いだ」「文武両道に長け」「割といい性格をしているくさい」慕容垂(ぼようすい)の、前燕宮中における政敵代表である。そのかれの業績は、何故か汚穢にまみれているが如く書かれている。しかし彼もまた前燕最盛期をもたらした驍将のひとりである。……どうも不当に貶められている形跡があり、そしてこのネガティヴ調整の中心軸に慕容垂を据え、反対側に慕容恪の爆 age を据えると、慕容恪ポジティブ調整は当然疑って掛かるべき事象となる。所詮陰謀論の枠を脱し得ないのであるが、とにかく慕容どものやっている事はいちいちが胡散臭い。これだから蛮族鮮卑hタクバツハスバラシイナア。 竇衝(とうしょう) 前秦崩壊辺りでにわかに存在感を増す武将。ポスト淝水情勢引っ掻き回し担当の慕容沖(ぼようちゅう)をいじめ倒したことに定評がある。慕容沖決起の出端をいきなり挫くわ、長安侵攻で度々痛い目に遭わせるわで、彼がいなかったら普通に苻堅は慕容沖から逆レイプを食らっていたのではなかろうか。もっとも苻堅亡き後の前秦には愛想を尽かし、後秦寄りになった。ただし半端に武功が高い日和見主義者など信用できぬにも程がある。疑われ、殺された。 司馬元顕(しばげんけん) 孝武帝の甥。東晋末をどどめ色に染め上げた、天才的佞臣。五斗米道の乱も桓玄(かんげん)の簒奪も、果てには劉裕(りゅうゆう)の出現も「大体こいつのせい」とすら言えてしまいかねぬ無双振りである。その迸る才能は全て他人を陥れる部分に振り分けられており、びっくりするほど政権運営能力がない。二十歳前後で桓玄に殺されているのだが、それまでに王恭(おうきょう)劉牢之(りゅうろうし)と言った大物を易々と手玉に取っている。恐らく自分以外の人間を全て将棋の駒としか見ていなかったのではなかろうか。 ・逆賊 陳安(ちんあん) 割と呂布冉閔枠である。西晋、前涼、成漢、趙漢を股にかけて暴れ回った。強力無双の人であり、史書の記述を読むとモンスターとしか思えぬ活躍を見せている。ただし士卒らへの慰撫は十全になしており、配下からは大いに慕われていた。そんなかれは西晋司馬摸の部将として登場した段階では忠烈の士という出で立ちであったが、その後の混迷に巻き込まれていく内に荒んだのか、劉曜に謁見しようとしたらシカトされた、と言う理由で盛大に略奪行為を働き、遁走している。おい。無論劉曜は激怒である。追撃した。そうしたら追撃隊が盛大に殺された。更に激怒である。そこへぽっと現れた平先(へいせん)という武将が、ふらりと陳安に一騎討ちを挑み、倒してしまう。えっ。なおその後の平先の事蹟はよく分からぬ。関羽を倒した馬忠のような人物であるな。 王敦(おうとん) 王導(おうどう)の従兄弟。武勇にすぐれていたため将軍となったが、なにせ琅邪王氏なので権限がとにかく大きい。司馬睿(しばえい)に疎んじられたためキレて叛乱という、中々の瞬間湯沸かし器である。これによって晋皇室の風上に一時期は立つのだが、その内まただんだん権勢を削られるように。なので死の直前にまた乱を起こそうとして、それで寿命を縮め、死ぬ。罰は王敦の死体に下された、と言うことだが、存命中に皇帝もろくに罰することが出来なかったというのが、当時の琅邪王氏のアンタッチャブル振りを示しているようにも感ぜられる。 蘇峻(そしゅん) 王敦の乱鎮圧に大功を挙げたが、その頃実権を握っていた庾亮(ゆりょう)の人事がとにかく厳格を極めていたため、名将祖逖(そてき)の弟祖約(そやく)を始めとする多くの人間が不満をくすぶらせていた。彼らをそそのかし、乱を起こしたのがこの蘇峻である。当時の東晋軍の中でも強者に数えられる蘇峻が起こした叛乱は忽ちのうちに晋軍を破り、果てには建康を陥落させてしまう。よく滅びなかったな東晋。このような強烈な叛乱であるから、それを平定せしめた陶侃(とうかん)の威名は否応なしに高まったわけである。 冉閔(ぜんびん) 奸雄枠を彼のために設けても良かったのやも知れぬが、まぁ良い。改めてこの場にて紹介しておこう。概説では説明の煩を避けるため、石虎(せきこ)の養子と書いているが、実際には養子の息子である。面倒くさい。父親は漢人の冉良(ぜんりょう)。その勇猛さを見初められて石虎の養子となった折に改名、石瞻(せきせん)と名乗った。何故そうなった。そして息子も父親そっくりの猛将として育ち、石虎亡き後の後継者レースのグダグダぶりを見て「これだから胡族どもは」とでも思ったのか、一族を殺し尽くした。更には石の苗字を捨て、俺が皇帝だ、などと言いだすわけであるから、寧ろよく支持する人間がいたな、レベルの暴挙である。まあ途轍もない強さを誇っていたので、逆らえば殺される、と思えば逆らえるわけもないな。かれが慕容恪(ぼようかく)に倒されたとき、多くの配下は内心その死を喜んだことであろう。 司馬勲(しばくん) 一言で言うと面白い人、である。晋秦燕の三国鼎立がなっていたころ、人々は当然苻堅(ふけん)桓温(かんおん)、慕容の三つ巴に注視していた。その頃司馬勲は、ろくに桓温の指示も聞かず、ほぼ独断でちくちく前秦を攻めては敗走している。やがて蜀の地を乗っ取ろうと企み、動きだす。だがあっさり朱序(しゅじょ)に討ち取られた。まるで何がやりたいのかよく分からず、とりあえず無計画で無鉄砲、そして凶暴という印象のみが先行する。 苻洛(ふらく) 苻堅の従兄弟。叔父の苻生(ふせい)を殺して皇帝に成り上がろうとするも失敗、兄弟を殺されたため苻堅の元に逃げ延びた。その苻堅の前鋒として活躍し、苻生の首を取ったのもこの苻洛であったと言われる。その後代を滅ぼすも苻堅に警戒され、左遷されそうになる。なので叛乱を起こしたが、万全の備えをしていた苻堅にあっさりと鎮圧された。幽閉生活の中で淝水の敗北を聞き、その二年後、獄中で殺される。性格最悪と書かれているのだが、反乱に到るまでの苻堅の周到さを見ていると、どちらかと言えばやはり苻堅の恐ろしさが際立つ。苻生に性格偽装の疑いがある以上、苻洛の性格にも、やはり偽装を疑った方がよろしかろう。 孫恩(そんおん)盧循(ろじゅん) 東晋末期に起こった大規模反乱「五斗米道の乱」の首謀者。元気にぶっ殺しまくるマンであった孫恩に対し、盧循はそれを諫め、抑える役回りでいたそうである。実際のところ、孫恩時代は中央軍のチョロい相手には連戦連勝、しかしいざ劉牢之(りゅうろうし)に動かれてしまっては為す術もなく連戦連敗となっていた。しかし盧循に代替わりしてからは何無忌(かむき)劉毅(りゅうき)と言った猛将を退けており、明らかに精強さがましている。 慕容沖(ぼようちゅう) 西燕国初代皇帝(笑)である。確かに前燕のラストエンペラー慕容暐(ぼようい)の弟であるから、継承順位としては慕容垂よりも高かろう。それにしても慕容垂と協力すればもう少しマシな運命は辿れたであろうに。幼少のみぎりに苻堅にレイプされたので、淝水後に復讐の鬼と化して苻堅の立てこもる長安を襲った。長安は落としたが、仇の苻堅は他人に殺された。それはもうヤケにもなろう。乱倫の果て、最後は裏切った部下に殺された。 桓玄(かんげん) 桓温の息子。簒奪を為そうとして果たせなかった父の志を果たした。ただし父親ほど体制を盤石にしない中での強行であったため、半年もせぬうちに劉裕によるクーデターを喰らい、没落した。それにしても、宋書を読むと必要以上に劉裕の桓玄打倒が重要な皇統継承ファクターとして示されている。その割にあっさり桓玄が滅ぼされているので、桓玄を悪の大物に据えるには物凄く違和感がある。まぁ別に「劉裕様が強すぎたので仕方がないんです☆」でも構わぬのだが。
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加