1-2 五胡十六国時代のあらまし(前)

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1-2 五胡十六国時代のあらまし(前)

ごきげんよう、崔浩(さいこう)である。 司馬炎劉淵劉聡石勒石虎苻堅姚萇姚興 拓跋三代慕容三代王導祖逖桓温謝安劉裕、 復習は万全であるな? 無論万全でなくとも注釈なしで進めるがな。 それでは、五胡(ごこ)十六国(じゅうろっこく)時代の 乱暴にもほどがあるあらまし本編、 スタートである。 この前編では晋秦燕の三国鼎立までを語る。 ・西晋(せいしん)の天下統一~八王の乱(司馬炎(しばえん)) 五胡十六国時代前史を語るにあたり、そもそも三國志とは、をやりそうになり、慌てて思いとどまった。それをやり始めると結局先史時代から語らねばならぬ。よって三國志については曹操(そうそう)劉備(りゅうび)とあと誰かがケンカしていましたが誰も勝てませんでした、で紹介を終わりにしておこう。 第一に名を挙げた王、司馬炎の祖父は、曹操の下で参謀を務めた司馬懿(しばい)である。 連綿と続いた(かん)帝国を、曹操の建てた()が乗っ取った。更にその魏を司馬炎の晋が乗っ取った。乗っ取りに乗っ取りが重なった晋は、そのスタートの段階ですでに基盤があやふやであった。 それでも、親の残した遺産をフル活用し天下統一を果たした司馬炎。ここから司馬炎の興味は政でなく奢侈に移る。そして死亡。かれが満足な政権体制を確立しなかったことにより、以降絶望的なまでに醜い跡目争いが発生する。これが八王の乱である。 何が絶望的かといえば、この司馬トルロワイヤル、あまりにも流れがぐちゃぐちゃすぎるために状況把握が極めて難しいのだ。加えてバカkillsバカの連鎖であるため、まともに調べたい、と言う気にもならぬ。 なので、バカどもがバカを繰り返した結果「あぁ、よく分かった、アイツらバカなんだ」と人々に認知された乱、とのみ認識している。 そのバカどもに「ええ加減にせいや!」とツッコミを入れたのが劉淵(りゅうえん)劉聡(りゅうそう)親子であり、ツッコミの名前が永嘉(えいか)の乱である。 ・永嘉の乱(劉淵、劉聡、王導(おうどう)) では、劉淵のツッコミとはどのようなものであったか。 「なーにが後継者じゃ、こちとら漢王朝の直系じゃ、そもそもてめぇらが跡取り跡取りほざくのぁヘソ茶なんじゃ」 前述のとおり、なにぶん晋の王族がひどすぎたため、巷は「やっぱり正統の皇帝じゃないからなぁ……」と言う雰囲気になっていた。漢の正統な後継者が現れれば、このグダグダな状態も改善されるだろう、と人々は期待していたのだ。そこに、強引ではあるが漢の末裔を名乗る資格を持った劉淵が現れた。因みにこの時劉淵は「劉備の親戚でもある」とも名乗っている。当時にすでに劉備人気が確立されていたことがよく分かるエピソードであるな。 劉淵は匈奴(きょうど)、即ち蛮族である。にもかかわらず漢の末裔を名乗っている。実はこの血統、曹操がでっち上げたものである。“その昔、漢の高祖劉邦をはじめとした、歴代の皇帝が娘を当時の匈奴王に嫁がせた。故に匈奴王の子孫は劉邦の子孫である。”この理屈を元に、劉淵の祖父に劉姓を名乗らせたのである。 正しい、正しくないは問題にならぬ。そもそも正しさを求める場合劉淵が匈奴王の正統かどうかも存外怪しいのでな。ともあれ劉淵は、このでっち上げをフルに活用した。「漢復活」の大義を得、匈奴はおろか鮮卑(せんぴ)も配下に収め、大挙して南下。因みにこの段階で、石勒も幹部としてその傘下にあった。 劉淵はこの頃すでに寿命が近かったため西晋滅亡を目の当たりにすることは叶わなかったが、跡を継いだ劉聡が悲願を果たす。 これで華北を支配、あとは南部の平定、と行きたいところだ。だがそれは果たせず終わる。都から逃れた晋の貴族が南部の軍勢をまとめ抵抗。この時にとりまとめを果たしたのが王導である。 三國志でも最後まで晋に抗っていた()の地であるから、当然王導らへの反感はすごかった。だが逆風何するものぞ、王導は呉の地に劉聡らが迂闊に手出しできぬだけの備えをもたらした。この集団を、東晋(とうしん)と呼んでいる。 そしてこの遠征が難航しているうちに、劉聡も死亡。 ・両趙洛陽(らくよう)決戦(石勒(せきろく)石虎(せきこ)祖逖(そてき)) 劉聡死後、親戚の劉曜(りゅうよう)がその跡を継いだ。だがこの劉曜、石勒との折り合いが最悪であった。とはいえ一時は講和の動きを見せようとした。劉曜から石勒に(ちょう)王の称号を送られているのである。だが、後日劉曜はキテレツな行動に出る。自らが皇帝に即位するにあたり漢の国号を廃し、趙帝を名乗ったのだ。ここを何とか解釈すれば「石勒絶対殺す」宣言である、といえる。 劉曜の暴挙により趙国並存と言う訳の分からぬ状況が出来上がる。後世の人間は、この両国を呼び分けるため、劉曜趙を「前趙(ぜんちょう)」、石勒趙を「後趙(こうちょう)」と呼ぶことにした。劉曜政権は、それでも劉淵以降継承されているものであるから「前に成立している」という扱いである。 両国は洛陽の都あたりを境としていた。やがて劉曜が大軍を率い、侵攻。石勒も同じく兵を率いて迎撃に出る。この決戦の勝者は石勒。劉曜は捕らわれ、やがて殺された。 こうして中原を支配した石勒。よっしゃじゃあ南征やったらんかい、と意気込もうとした。そこに東晋からエグい矢が飛んでくる。祖逖である。最終的には何とかその勢いを削ぐのに成功したものの、東晋ヤバい侮れないの気運を見事に植え付けられ、そして石勒も死んだ。 石勒のあとを継いだのが、甥の石虎である。石勒軍を最強の軍団たらしめた武将、いわゆる武力100と言う奴である。強く、酷薄きわまりない。気に食わない奴はぶっ殺すモードで国内外はえらいことになった。反石虎、反後趙の機運が募るなか、石虎自身は好き勝手の末、無事病死。 ここに、我らのアンチヒーロー、冉閔(ぜんびん)さんが登場する訳である。 ・冉魏建国(慕容(ぼよう)三代、苻堅(ふけん)桓温(かんおん)) さて冉閔。父親が漢族であったにもかかわらず、その有り余る武力を石虎に買われ養子となっていた。勿論養子の子が家督を継げるはずもない。そして冉閔はそれが気に食わぬ。よって「俺より弱い奴=死」の方程式を適用、石虎の息子たちを殺す。そして石虎以上に人気がないにもかかわらず「俺が皇帝だ!」と魏の国をぶち上げ、 総スカンを食らった。 その立役者が鮮卑・慕容氏と東晋・桓温、そして氐・苻氏である。 慕容氏は慕容廆(ぼようかい)の代に勢力を大きく伸ばし、慕容皝(ぼようこう)が国の体制を固め、後趙との対立の姿勢を明確に示した。この国号が燕である。そして慕容皝の息子たちがまた英才揃いだった。嫡子、慕容儁(ぼようしゅん)。五胡十六国時代を代表する参謀とも称される、慕容恪(ぼようかく)。そして、後にわれらが道武帝(どうぶてい)と覇を競うことになる、慕容垂(ぼようすい)。 晋。祖逖の死後国内がガタガタし始めたが、陶侃(とうかん)(ちなみにこの人は詩人・陶淵明(とうえんめい)のひい爺さんでもある)や郗鑒(ちかん)と言った軍人が、国内を何とか落ち着かせた。両名の軍府を桓温が継承、一手に握ると、折しも華北もガッタガタ。これは叩くしかない、と北伐の軍を立ち上げたわけである。 そして、氐族の苻氏。(しん)と号し、国家の基盤を築いた初代の苻建(ふけん)が死に、あとを継いだ苻生(ふせい)が無軌道に暴れ回った。これをクーデターにより退治したのが、苻堅。参謀の王猛(おうもう)とワンセットで、「五胡十六国時代最強の主従」とも名高い両名である(まあ主上と我こそが真の最強主従であるがな)。 燕によってあっさりと冉魏がつぶされ、 三つ巴が成立する。 鼎立、淝水、そして五胡十六国の終焉。 後半もまた、ドラマである。 ・1-2を終えて こうして眺めていると、 追いやられた東晋くんも なかなか頑張っているのがわかる。 一応、その頑張りがこの後に出てくる 劉裕(りゅうゆう)によって開花した、 と言う事にしておいてやろうか。 とはいえ所詮我らが大いなる北魏(ほくぎ)の ツマにすぎぬのだがな。ふはは。 ではまた次部。
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