おまけ3 ざけんな李沖

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おまけ3 ざけんな李沖

はい……ってファーーー?! わたくしですかァア~~~!? えーと、そうですね。 割と注釈なく ここまでお届けしてました。 じゃ、その辺りを伝えねばなりません。 わたくし李沖、 改めて自己紹介いたします。 崔浩(さいこう)先輩から下ること だいたい40年くらい、 北魏(ほくぎ)の孝文帝、拓跋宏(たくばつこう)様、 のちに改姓して元宏(げんこう)様の 属僚として、漢化政策に尽力しました。 はい、終わりました。 ……ではダメなんですか? 前後を繋げた話をしろ? あっはい、了解です。 ○北魏とは では、ひとまず北魏という国の 性格から話しておくべきですね。 皇帝を頂いているわけですから、 当然帝国です。エンパイア。 ただし拓跋部を含んだ鮮卑、 これの絶対数が少なすぎた。 当然です、遊牧民族でしたから。 なので拓跋の根を張るためにも、 胡漢別け隔てなく、名家には、 ガンガン拓跋の娘の通婚がなされました。 また拓跋本家にも、 ガンガン名族の血が入り込みます。 これにより、拓跋という名を柱とした 諸名族連合体が産み出されます。 はっきり言いましょう。 北魏、今上の頃には、 もはや拓跋の名はお飾りです。 血統的に言えば、完全なる名族連合体。 その中で、どの家が 拓跋と言う冠に次ぐ権勢を得るか、 そう言った暗闘が繰り広げられるわけです。 例えばですよ。 崔浩先輩が属する、清河(せいが)崔氏。 崔宏様、先輩と、二代続けての王佐。 にもかかわらず、先輩処断後の崔氏は かなり存在感が小さくなってます。 依然、トップ名家ではありますけどね。 では、誰が出てくるのか? 漢人姓では、 王、崔、()、李、(てい)。 胡人姓だと、 (ぼく)、陸、賀、劉、(おう)()(しゅう)(うつ)。 これらは、今上期に制定された、 国内トップの家門です。この十三家が 組んずほぐれつするわけですね。 さて、ここに李姓が見えています。 そう、わたくしも、この盛期北魏における 権勢プレイヤーのひとりです。 生まれは五胡十六国の一、西涼。 この国を建てた王、李暠(りこう)様から見れば、 弟の孫、と言うことになります。 この辺りに少し補足をしておきましょう。 北魏の名族吸収は 多岐にわたっています。 晋の司馬(しば)氏からは、司馬休之(きゅうし)楚之(そし)を。 宋の劉氏からは劉昶(りゅうちょう)を。 後秦の姚氏からは姚黄眉(ようこうび)。 南涼禿髪氏は禿髪破羌(とくはつはきょう)、のちの源賀(げんが)。 北涼沮渠(そきょ)氏は氏族ごと(のちに族滅)。 夏の赫連(かくれん)氏は勃勃(ぼつぼつ)の娘。 そして、わたくしの一族。 姻戚が必ずしも血統の交流を 保証するわけではないですが、 時が下ると、拓跋氏、いえ、 元氏という氏族集団=北魏王朝、 と言うわけではありません。 つまり、拓跋由来の鮮卑主導体制では、 どうしても統制が利かないのです。 それを行うには、余りにも 漢族の血が合わさりすぎた。 ○漢化政策 馮后(ふうこう)と今上が行われた、漢化政策。 エポックメーキングな出来事、 とされていますが、趨勢からすれば、 必然であった、と言えましょう。 ただし、これをスムーズに実施するのは、 並大抵のことではありません。 前例らしき前例も在りませんからね。 わたくしをかわいがって下さった(意味深) 馮后のためにも、なんとしてでも 成功させねばならない。 わたくしの他、幾人かの属僚と共に 施策を批准、推進して参りました。 後日的な話をすれば、これらの施策が 様々に結びついた結果、 北魏最盛期が生まれるわけですね。 ○険敵、柔然(じゅうぜん) さて、今上の指導により、 北魏のシステムはめでたく漢化致しました。 この漢化を言い換えましょう。 温暖湿潤~亜熱帯気候の自然環境に 基づいた政権運営、と申せます。 当たり前ですが、気候によって取れるもの、 分布する動物、植生などは全く違います。 ならば、騎馬民族政権の運営システムは、 原則としてステップ気候における暮らしに 最適化されているわけです。 つまり、拓跋の統治スタイルは、 元来漢土にマッチしていなかった、 と推測されます。 裏付けは取れていませんけれど。 そんな拓跋が南下し、 中原に根を張りました。 では、元々拓跋が強勢を誇っていた 漠北の地には? 別の種族が勢力を伸ばし、 また以前拓跋が布いていたシステムに 近しい体制での支配を為します。 これが柔然。 後には、突厥。 中国の肥沃な国土での 生活を謳歌するためには、 絶対に北部のステップ気候、 及び、そこに住まう住民との 折衝、戦争が生じます。 この辺りは、いわゆる遺伝的要素で 民族問題を考えることの愚が みちっと詰まっていますね。 衆としての人間の性格は、 環境が形作るのです。 故に、漢人の地に 住まう者が漢人です。 豊かな漢土、いわゆるチャイナプロパー。 ここを求めて、外部からの力学が働く。 この力学の中での淘汰に勝ち残った者が 皇帝と呼ばれる。 中国史は同じ事の繰り返しだ、 と言われます。 そりゃそうですよ。 チャイナプロパーを占拠できたら、 朔北の地とは比べようもなく 豊かになれます。 この地を周りの人間が手に入れたいと 思うなんて、当たり前じゃないですか。 ○六鎮(りくちん)の乱 若干タイムラインを飛ばしましょう。 いきなり六鎮の乱に。 柔然との前線基地であった六鎮ですが、 これ、言い換えれば 文化の交流地なんですよね。 中央が漢文化を継承する中、 中途半端に漢化が進んだ、元胡族が、 プリミティブな胡族文化に出会う。 慕容(ぼよう)拓跋の逆パターンな感じはあります。 両者は漢人と出会い、 技術持てる驃騎と化しました。 一方、六鎮は柔然と出会い、 元来持っていた牙を 改めて磨き上げられました。 ……なんというか、ねえ。 乱云々とかじゃなくて、 しますよね、南下。 ○宇文(うぶん)(よう)() 六鎮の乱をおさめて台頭してきたのが 結局六鎮出身者という、 素敵なマッチポンプを経て、斉周梁の鼎立。 色々あってその最終的な勝者は 周系の鮮卑大野(だいや)氏、 漢姓に改めて、李氏、となるわけですが。 ……これたぶん、母系のどこかで 隴西(ろうせい)李氏、つまりわたくしの血統、 混じってますよきっと。 拓跋があれだけ多方面的通婚を 決めているわけですし、 それを継承した北周宇文、隋楊、唐李が 同じことを、やっていないわけがない。 むしろ考えられるのは、 大野氏が通婚を結べた漢族の中で いちばんグレードが高かったのが 隴西李氏であった、 と言う可能性すらあります。 ○仮説の行き着く先 氏族のわたくしが 申し上げるのもアレですが、 秦将李信(りしん)に始まり、李広(りこう)李陵(りりょう)を経て 西涼皇統に至る血統。 これ、正直申し上げまして 血統グレード、それ程高くないです。 なのにその血統を主張した唐の李氏は、 もしかしたら、ある意味では ガチだったのかも知れません。 もっとも、この辺りを裏付けるための 史料は、今の所見つかっておりません。 あるかも知れないし、ないかも知れない。 そう言った、曖昧なところで ふらふらしながら妄想を積み上げる。 これも、また歴史で遊ぶ者の 醍醐味なのかも知れませんね。 と言ったところで、お時間となりました。 それでは、また!
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