1-3 五胡十六国時代のあらまし(後)

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1-3 五胡十六国時代のあらまし(後)

ごきげんうるわしゅう、崔浩(さいこう)である。 いよいよ我らが北魏(ほくぎ)を熱く語る段である。 期待せよ、何せ我らは敵をストレートに dis る 免罪符を持っておる故な! 崔浩ジョークである。笑え。 ※ 「二十四史」の内、北魏について書かれた 「魏書」が断トツで口汚く敵勢力を罵っている。 ・枋頭(ほうとう)の戦い 後趙の分裂を経て、新たに鼎立した三国についてもう少し紹介しておこう。(えん)は元々強大な戦力を抱えていたところに冉魏(ぜんぎ)征服と言う結果があったため、この当時の勢力としては圧倒的であった。また(しん)も元帝の即位以来ドタバタはあったものの、この頃には政情を何とか安定させていた。そして、(しん)。実は鼎立の段階では、この国の勢力が最も貧弱であった。しかも一時期は桓温(かんおん)による侵略を受け、甚大な被害を蒙ってもいる。 だが、趨勢とはわからぬものである。 苻堅(ふけん)苻生(ふせい)を倒して立った頃、燕と晋が本格的にぶつかり合っていた。燕を率いる慕容(ぼよう)氏は血族間の内部分裂をお家芸としている。この当時も皇帝慕容儁(ぼようしゅん)、宰相慕容恪(ぼようかく)を失い、国内は分裂寸前となっていた。この状況を桓温は好機と見、北伐の軍を立ち上げる。始めの内こそ晋優勢で進んだ戦いであったが、兵站線が伸びるうち徐々に晋軍の勢いは減退。加えてそこに苻堅が後背を衝く動きを見せた。これ以上の進撃は不可能と判断した桓温、壮絶なる撤退戦を演じる。これが、いわゆる枋頭の戦いである。 この戦いで東晋は北伐のための戦力をほぼ失った。いっぽうの燕もまた甚大なる被害を受けている。漁夫の利を得たのは秦である。少々のちょっかいを掛けた程度で、勝手に両陣営が手酷いダメージを被っている。加えて燕の国内では、枋頭を勝利に導いた英雄、慕容垂に謀反の嫌疑が掛けられていた。こうなっては慕容垂も、燕に義理立てする意味もない。秦に亡命、帰順した。 ――はい。無事秦が華北を統一しました。 ・淝水(ひすい)の戦い(苻堅、謝安(しゃあん)) 見事華北を統一した苻堅であるが、割と「王猛(おうもう)あってのあんたでしょ?」と後ろ指さされていた。統一の前年に王猛が死亡。王猛なしでも出来る子であることを示さねばならぬ。 「王さま、東晋(とうしん)攻めるとアンタやらかすから、それだけはナシで」。 王猛の遺言である。押すなよ、絶対に押すなよ、である。 攻めた。負けた。秦が崩壊した。 淝水の戦い。八十万の前秦軍対八万弱の東晋軍であったという(ただし、実際に東晋軍と戦ったのは三十万弱であろう)。敗因は諸説あるが、「秦軍の将兵にやる気がなかった」説がもっとも有力である。 苻堅は戦争で負かせた相手を配下に加えた。そして旧来の自分の軍とほぼ変わらぬ待遇をした。降将にしてみれば「とりあえず謝ればオッケーとか楽勝過ぎ!」であろうし、旧来の将にしてみれば「俺が潰した相手と同じ扱いとか舐めてんのか?」であろう。 寛容の王、苻堅であったが、配下にしてみれば割とやる気をなくさせる上司だったようである。 対する、東晋。負けたら親兄弟もろともフルボッコが確実である。負けるわけには行かぬ。そして時の宰相謝安が、淝水前(ついでに言うと淝水後も)内ゲバでがたがたになっていた国内を、一瞬だが見事に一致団結せしめた。 この両者の意識の差が、淝水の結果に結びついた、とされている。 さて淝水中、謝安は努めて平静に国内の舵取りを為した。そして舞い込んだ勝利の報に一人ひっそり狂喜乱舞し、狂喜のあまり死んだ。無理もない。常人なら普通にストレスで死ぬ。 謝安を失った東晋は、この後本格的に崩壊するわけであるが、華北は華北で最悪のガタガタ状態となり、そこにつけ込んでいる暇がなかった。 どこもかしこもガタガタとなる中、次代の雄が力を蓄える。かくして五胡十六国時代は我らが北魏の時代と化すわけである。 ・柴壁(さいへき)の戦い(姚興(ようこう)拓跋珪(たくばつけい)慕容垂(ぼようすい)) 崩壊した秦から慕容垂が独立。改めて燕を名乗る。また秦の皇統は、禅譲という形で姚萇が引き継ぐ。姚萇は即位後すぐ死亡、息子の姚興が跡を継ぎ、国力を盛んなものとした。両国は淝水前の燕、秦と区別するため、後燕(こうえん)後秦(こうしん)、と呼ばれている。 姚興は華北中央から西部を、慕容垂は東部を握った。だがここに、北からの英雄が現れる。我らが道武帝(どうぶてい)、拓跋珪様である。 道武帝は、我が父崔宏(さいこう)を始めとした諸賢のバックアップ、そして何より帝ご自身の神武を以て姚興、慕容垂に立ち向かわれた。 そして遂には、参合陂(さんごうは)にて慕容垂を、柴壁にて姚興を撃破。かくて華北にて覇を唱えるに至ったのだが、この頃に帝はトチ狂っ……いやいや、病を得られ、不帰の人に。 この辺りを史書で調べるのはお薦めしない。 ・東晋の滅亡(拓跋嗣(たくばつし)劉裕(りゅうゆう)) いよいよ東晋の終焉も見えてきた。謝安亡き後本格的にどうしようもなくなってきた東晋。今まで名を上げてきた人物は、それでも貴顕の類であった。しかし最後に出てきた男、劉裕。この男は難民出身である。 しかもこの男、グダグダな東晋を立て直すふりをして、最終的には木っ端みじんにブチ壊す訳である。これは底辺層出身のかの者だからこそ為し得た暴力的なマネやもしれぬ。ここまでやられるといっそ小気味よい、と言ってもよいな。 だが、東晋をぶっ壊しました、までは良い。問題はこの後の敵が我ら北魏なことである。 さぁ、北魏。道武亡き後に立った明元帝(めいげんてい)、拓跋嗣様の御世。我も父、崔宏とともに参与、本格的な華北統一のための体制作りに取り掛かった。過日の戦いで大幅に勢いを削いだ後秦、後燕に止めを刺すべく軍備の拡充に取り組む。 ここでトンビに油揚げ。突然劉裕が北伐を決める。 おりしも後燕は慕容垂が死んだこともあり、求心力を失い、北燕(ほくえん)南燕(なんえん)に分裂。両国の勢力を我々が着々と削っていたところであった。そこに劉裕の軍が一挙に南燕を粉砕。あまりのスピードに、我々も「お、ちょま、おま」と止めようとしたのだが無駄であった。 しかしこの遠征を劉裕自らが行った瞬間東晋国内がまたガタガタし始めるのだからどうしようもないな。とはいえ劉裕はまだ国内が安定し切っていないと見るや取って返し、これもまた一挙に国内の綱紀粛正に努める。 そして体制が整うや、今度は後秦を滅ぼした。こちらもすでに姚興が死んでおり、まったく相手にならなかった。 もっとも、南燕にせよ後秦にせよ、もはや我々にとっては「とりあえず滅ぼしとくか」以上の対象ではなかったのだがな。どうせ劉裕は最も警戒せねばならぬ相手であったし、むしろ邪魔者を二匹消してくれた、と言ってもよい。 後秦を滅ぼした後、劉裕は東晋の皇帝より玉座を強奪。ここに(そう)帝国が生まれる。 ・北魏華北統一(拓跋燾(たくばつとう)) 最大の難敵、宋。だが劉裕は皇帝に立って間もなく死んだ。それで勢力がガタガタに……なってくれればよかったのだが、息子の劉義隆(りゅうぎりゅう)は多少のどさくさこそあったものの無事に国力を継承。我々の前に立ち塞がる。まぁその強さの源泉は、劉義隆と言うよりも劉裕の剣とも呼ぶべき檀道済(だんどうさい)のせい、と言ってもよい。 南では宋と戦い、北では華北残余勢力をすりつぶす、そのような日々の中、明元帝も亡くなる。ここに登場するが太武帝(たいぶてい)、そう、麗しきわが主上、拓跋燾様である。 峻厳、苛烈。わが主上は疾風のごとく華北全土を駆け巡り、ついに残余勢力の蕩尽を成し遂げた。また劉義隆のバカが檀道済を殺してくれたおかげで、宋の領土を大きく分捕ることにも成功する。 この辺りについてはどこまでも語りたくなるな。しかし、ここは敢えて我慢を致そう。こうして北に北魏、南に宋、という二大国家体制が出来上がり、五胡十六国時代は終焉を迎えるのである。 ・1-3を終えて 以上が、乱暴にもほどがある五胡十六国時代のあらましである。 この後に我がうっかり主上にじゃれすぎて殺されたりもするのだが、この辺りは次席に回そう。次席は五胡十六国時代の周辺を概括する。即ち(かん)から(ずい)(とう)までのミッシングリンクを結び付けよう、と言う事である。 何せ漢の滅亡が 220 年、隋の建国が 581 年。この 361 年のうち、我が概括したは 162 年に過ぎぬ。序言にて言及した「漢の後が……ず、隋?」は全然埋まっておらぬ。 もちろん、我の目的は五胡十六国時代の紹介であるから、事跡の概括は更に乱暴となる。他の時代については、また別の何者かが行うこともあろうが、そのきっかけにでもなってくれれば幸いである。 では、また次部。
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