1-4 南北朝時代のあらまし

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1-4 南北朝時代のあらまし

ごきげんよう、崔浩(さいこう)である。 当段のテーマは「で、結局(かん)から隋唐(ずいとう)までの間に何があったわけさ?」である。 概括しよう。隋唐成立の歴史は、三国(さんごく)時代をスタートと見做すことが出来る。曹操(そうそう)が中原に引き入れた五胡(ごこ)勢力、これが力をつけ、北魏(ほくぎ)となり、その末裔たる隋が、従来の「漢人」王朝の命脈を断ち切り、天下統一を果たしたのだ。 この輪郭を踏まえ、まずはポスト五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代のビッグネームを列挙いたそう。当然だが暗記項目である。 ・北朝(ほくちょう)  馮太后(ふうたいごう)(北魏)  拓跋宏(たくばつこう)元宏(げんこう)(北魏)  高歓(こうかん)北斉(ほくせい))  宇文泰(うぶんたい)北周(ほくしゅう))  宇文邕(うぶんよう)(北周)  楊堅(ようけん)(隋)  李淵(りえん)李世民(りせいみん)(唐) ・南朝(なんちょう)  劉義隆(りゅうぎりゅう)(そう))  蕭道成(しょうどうせい)南斉(なんせい))  蕭衍(しょうえん)(りょう))  侯景(こうけい)宇宙大将軍(うちゅうだいしょうぐん))  陳覇先(ちんはせん)(ちん)) 南朝に変なものが交じっているな。 まぁ、冉閔(ぜんびん)枠と見て頂ければ大過ない。 ・五胡十六国前史 五胡十六国時代のあらまし(前)にて、曹操(そうそう)劉淵(りゅうえん)の祖父に劉姓を押し付けた、と書いた。実はこの時、曹操は北方に拠点を構えていた匈奴(きょうど)を強制的に中原に移住させていたのである。これによって曹操は匈奴の機動力を得た。しかしそれは結局()よりのち、(しん)の時代などに中原を五胡が闊歩するきっかけとなった。「だいたいこいつのせい」と言う奴である。もっとも、漢の時代の段階で騎馬民族の中原移民は進んでおったため、曹操ひとりに原因を求めるのは割とムチャなのだが。 八王の乱~南北朝成立に至るまではすでに示したとおりである。ここから南北に分かれての争いとなるが、先に南朝のあらましを見てしまおう。 ・南朝 基本的に忘れてよい。 と言うのも、ひたすらに内ゲバを繰り返し勢力減退、蕭衍の時代にいったん盛り返すものの、それも治世の終盤で致命的なミソが付き、以降隋に攻め滅ぼされるまでじりじりとすり潰されるようなものだからだ。暗君暴君列伝をご所望であれば楽しめること請け合いである。 そこを踏まえた上で追ってみよう。劉義隆の息子と孫が血みどろの争いを繰り広げたので「バカかお前ら」と蕭道成が宋を倒し、南斉を建てた。蕭道成死後はやはり子や孫が争い始めたので、蕭道成の遠縁の親戚、蕭衍が「バカかお前ら」と、梁を。 蕭衍はこのあと四十年にも及ぶ治世で南朝最盛期をもたらすが、治世の後半、宗教に湯水のように金をつぎ込んだあげく北朝からやってきた暴れん坊の宇宙大将軍に殺される。この宇宙大将軍を倒した陳覇先が陳の国を建てるも、既にその勢力はただの一地方軍閥。あえなく隋に滅ぼされた。 「何をやってるんだお前ら」としか言えぬ。 ・北朝(概要) まずアウトラインを示す。北魏が東魏(とうぎ)西魏(せいぎ)に分裂。さらに東魏は北斉となり、西魏は北周となり、隋となった。そして隋が天下統一。以上。 ……で終わらすのはいくらなんでも乱暴であるな。 ・北朝(北魏) わが主上、太武帝(たいぶてい)亡き後、宮中で後継ぎ争いが勃発する。ここで致命的ダメージを負わなかったのが我が国の偉大さであるな。この混乱を収拾したのが馮太后である。ちなみに主上から見ると「息子の嫁」となる。……どんだけ長いこと争ってたんだ。 女性が中国史上でナンバーワンの地位に立つと、だいたいは悪政の化身のごときであるが、彼女の治世は完全に善政であった。その馮太后の後見を得て帝位についたのが孝文帝(こうぶんてい)、拓跋宏様である。 孝文帝は親政を始めると、馮太后以上の善政を布いた。この時代が北魏の最盛期と言われる。しかし一方ではなかなかアクロバティックな政策を施行していたりもする。その最たるものが「拓跋」姓から「元」姓への改称。言うなれば、己の鮮卑(せんぴ)と言うアイデンティティを否定する真似に出たのだ。 五胡勢力に取り、中原文化はあまりにもきらびやかで、憧れの的である。素朴な騎馬民族的文化から漢族文化に鞍替えすることで、……えーと、なんだ。カッコイイ。なので孝文帝は「漢化」なさった。 ちなみに孝文帝に先立つこと約 40 年、「漢化するとカッコイイですよ!」と提案した結果、我は主上より死を賜っている。いやはや、うっかり☆ であるな。 しかし、漢化が孝文帝個人の問題であればよかったのだが、残念ながらこれを鮮卑系の配下全員に強要。また、それ以外にも多くのドラスティックな転換政策を発布したため、彼らは「ふざけんな」と切れた。これに端を発して六鎮(りくちん)の乱と呼ばれる大規模な反乱が発生。北魏皇室の権勢は地に落ちる。 代わって台頭してきたのが高歓に宇文泰であった。どちらも最初は北魏の後継者を支えるという体で覇権レースに名乗りを上げる。完全に乗っ取ったのは息子の代以降である。曹操か。 ・北朝(東魏~北斉) 先だって南朝をグダグダと書いたが、北朝、ことに北斉も負けぬくらいグダグダではあった。何せ高歓をはじめとした諸皇帝に酒乱の気ありと書かれている。そして内ゲバも盛んであった。例えば、北斉が誇った名将、斛律光(こくりつこう)蘭陵王(らんりょうおう)高長恭(こうちょうきょう))。ともに戦線維持に欠くべからざる驍将であったが、内紛に巻き込まれどちらも殺される。 防衛力はがた落ちとなり、そして北周に滅ぼされた。 ・北朝(西魏~北周~隋) いっぽうの北周も、割とグダグダになりかけた。宇文泰亡き後、甥の宇文護(うぶんご)が勝手放題に振る舞ったのだ。だがそれを打ち倒し、グダグダ化を食い止めたのが宇文邕。彼の配下に後の隋・文帝、楊堅がいた、と書けば、どれだけその陣容が充実していたかも窺い知れようものだろう。 国内を文武ともに立て直した宇文邕は北斉を滅ぼし、東西に分かれた北朝を再び一つにする。だが、彼が生きているうちに陳を倒すことは叶わなかった。意外と陳も頑張っていたのである。 そして、宇文邕亡き後に立った宇文贇(うぶんひん)宇文衍(うぶんえん)がまたまた暗君だったため「バカかお前ら」と楊堅が北周を倒し、隋を興す。その隋が陳を滅ぼしたことは、先に記したとおりである。 ・動乱の収束 隋の天下統一までたどり着けば、もう唐までのみちすじは読者諸氏もご存じのことであろう。楊堅亡き後の楊広(ようこう)、いわゆる煬帝(ようだい)が隋を滅ぼし、李淵、李世民親子の建てた唐が三百年余の統一王朝として君臨した。ちなみに楊堅の妻の甥が李淵、と言う関係でもある。 楊堅、李淵李世民のごときは、もはや単独で伝説化されているレベルの存在である。これ以上の言葉を彼らに割く必要もないだろう。よって本余談も、ここで終了となる。 ・1-4を終えて 今回の紹介は「いかに端的にあらましを追うか」に主眼を置いたため、ここに載らぬ面白い人物もたくさんいる。だが、何せ 361 年の長きである。当時の寿命を考えれば二十年でひと世代。と言う事は十八世代分の人物がいるわけであり、そう簡単に把握できるものでもない。 ここに、せめて「あぁ、~の時代の人ね」と言う座標が手に入れば、周辺人物との相関も見えやすくなってこよう。わかることは楽しいこと、である。 ではここから、五胡十六国時代の様々な人物について紹介をして参ろう。……の前に、我が後輩の李沖が何やら語りたそうにしておるので、奴に一度席を譲ることとする。 では、また次回。
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