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2-2ー1 西東晋皇帝列伝
・西晋 265-318
※実際の初代は司馬炎であるが、系譜を見渡しやすいように、と言う意図のもと、敢えて司馬懿より皇統を下ろしている。
初代 宣帝(司馬懿) 179 - 251
三國志、曹操配下のあの人である。ポスト赤壁辺りから頭角を現し始め、宮中で権勢を広げつつも曹氏との衝突は避けてきたが、結局排除されそうになったので返り討ちにした。曹氏の衰運は自爆の側面もあるように思えてならぬ。
二代目 景帝(司馬師) 208 - 255
司馬懿の息子。上で書いた曹氏による排除の流れを返り討ちにするための計画を練った主導者でもある。蜀に呉にと圧力をかけていく中、側近と頼みにしていた毌丘倹に反乱を食らったりして、上手く腰も落ちつけられぬうちに死んだ。
三代目 文帝(司馬昭) 211 - 265
司馬懿の息子、司馬師の弟。毌丘倹の叛乱以後、魏内の司馬氏アンチが一気に賑やかになってきたので、アンチ潰しに奔走する。そして 260 年には一通りのアンチを潰し終えた成果として、魏のラストエンペラー曹奐(元帝)を即位させた。またこの人の時代に蜀を滅ぼす。実質上、晋帝国の基盤を築いた人である。
四代目 武帝(司馬炎) 236 - 290
司馬昭の息子。なんかもうどう考えても司馬昭の敷いたレールに乗って登極街道まっしぐらと言う感じである。司馬昭が死んで跡を継いだ直後に曹奐より禅譲を受け、皇帝に(なおこの後の曹氏は陳留王として劉宋、南斉の時代まで家督が続いている。ただし南斉の時代に王位を廃され、以後の消息は不明)。280年に呉を滅ぼして天下統一を為した訳だが、その後はすでに前段にて語った通りである。
五代目 惠帝(司馬衷) 259 - 307
司馬炎の息子。どうしようもない暗愚な人であったが、この人の子(司馬遹)が聡明であったため、つなぎとして皇帝にしておこう、という事になった。軽いな、帝位。しかし朝廷内のいざこざによって司馬遹は殺され、あれっそしたらなんでこの人皇帝になってんの? 状態になる。宙ぶらりんな皇統に付け入る隙ができ、楽しい楽しい八王の乱が勃発するわけである。八王の乱中、彼は都合のいい旗頭として振り回されっぱなしであったが、さて、それにどこまでストレスを抱えていたのやら。
あぁ、この人を紹介する時の定型文よろしい名台詞があるな。紹介しておこう。戦乱、凶作によって穀物が失われ、民が飢えていると聞きつけ、かれは「穀物がなければ肉粥を食べれば?」と放言したと言われる。マリー・アントワネットのアレは創作だが、こちらは史書に乗っている。しかし史書そのものが創作バリバリであるため、こちらも割と怪しいのは否めぬ。
六代目 懷帝(司馬熾) 284 - 313
司馬炎の第25男。おい種蒔き過ぎだろ司馬炎。司馬家の皆様が八王の乱に盛り上がっている中ニート生活をしていたそうである。素晴らしい処世術であるが、残念ながら親戚の司馬越に表舞台に引っ張り出されて皇帝にさせられた。そのため彼は司馬越のことが大っ嫌いである。よって仲違いして晋の指揮系統がばらばらとなり、めでたくその隙を劉聡に付け込まれた。その後劉聡が開いた酒宴では給仕役や皿洗いをさせられたり、劉聡が外出する際には日除けの傘の持たされたりしたあげくに殺された。
七代目 愍帝(司馬鄴) 300 - 318
司馬炎の孫。父の司馬妟はいったい第何男なのか。なにやらよくわからぬうちに皇帝に推戴されなにやらよくわからぬうちに殺された。かくて西晋は滅亡。ちなみに三国時代の呉の都は建業と言うのだが、この司馬鄴と名前が被るという事で、改めて東晋の都となるにあたり避諱、建康と改められた。現代日本人にとっては「すぐ変換が健康になってイラつく」ことで有名な江南王朝の都の名前はこの者の存在のせいであり、斯くなる次第によって地味に現代日本人からは恨まれている。いや、それは作者からだけか。
・東晋(一応代数は西晋から継続させる) 318-420
初代(八代目) 元帝(司馬睿) 276 - 323
司馬師、司馬昭の弟の子孫なので、西晋皇統直系ではない。配下の王導の勧めに従い、八王の乱のどさくさに紛れて建業に逃れる。この行動がまさにドンピシャ、劉聡らは中原での西晋いじめに忙しく、江南まで手を伸ばしている暇がなかった。その隙に王導主導で江南の人士慰撫に成功、勢力基盤を築く。そして司馬鄴死亡の報を受け、即皇位継承を宣言。しかしこの流れのおかげで王導をはじめとした琅邪王氏の名前が一気に大きくなり、歴史書から皇帝の名前の存在感は薄くなっていく。
二代目(九代目) 明帝(司馬紹) 299 - 325
司馬睿の息子。権勢を広げる琅邪王氏のうち武力を握った王敦の叛乱を食い止めた。早世した名君と言う扱いにはなっているが、エピソードを読んでいる感じだとこの人が長生きしてたら割とヤバい方向に突っ走って行ったような気もする。
三代目(十代目) 成帝(司馬衍) 321 - 342
司馬紹の息子。わずか四歳で皇帝に即位している。北に石勒、国内では蘇峻の乱、と、もう最悪な時期に皇帝になったと言える。22歳と言うあまりにも早い死も過大なストレスのせいなのではないか。しかしながら内乱平定ののちは北伐が幾度も起こっているので、翻して見れば国力の底上げには成功していたりもする。司馬紹、司馬衍辺りが長生きできていればもしかして、と言う観測は、捲土重来を国是とする東晋にとっては縋りつきたいおとぎ話だろうとも思われる。
四代目(十一代目) 康帝(司馬岳) 322 - 344
司馬紹の息子、司馬衍の弟。兄の夭折に伴い即位したが、やはり早世。兄の苦労をずっと見ていただろうし、石虎が北でブイブイ言わせているのを見れば、嫌でも胃に穴が空こうというものだろう。
五代目(十二代目) 穆帝(司馬聃)343 - 361
司馬岳の息子、……だが一歳で即位ってオイ。生涯を皇帝として過ごすとか地獄以外の何ものでもないな。この当時には石虎も死に、後趙が内紛で忙しくなっていたので、東晋も無事貴族らの権勢争いに大忙しであった。お前ら。なお司馬岳時代ごろから権勢を伸ばしつつあった桓温が北伐で洛陽を奪還を果たしていた。一説によればこれら北伐を司馬聃は積極的に後押ししていたとか。
六代目(十三代目) 哀帝(司馬丕) 341 - 365
司馬衍の息子。さすがに司馬聃も、19歳では子供を作るのは難しかったようだ。桓温の専横を指をくわえてみているしかなく、政務を取るのに嫌気が差したあげくオーバードース死。この辺りから東晋皇帝がオモシロ皇帝化していく。
七代目(十四代目) 廢帝(司馬奕) 342 - 386
司馬衍の息子、司馬丕の弟。皇帝のなり手が徐々にネタ切れしつつある感じがして笑えない。この頃洛陽が前燕によって失陥、これを再び取り返そうとするも枋頭での致命的な惨敗、など桓温の勢いが弱まり、ここから桓温の晩節汚しモードが発動する。晋からの禅譲工作に焦った桓温は 371 年、司馬奕を帝位から引きずり下ろした。以後海西公として余生をひっそり送る。最終的には毒殺されているようだが。
八代目(十五代目) 簡文帝(司馬昱) 320 - 372
ここに来て登場する司馬昱は、なんと元帝の息子。桓温の禅譲工作、及び謝安の妨害工作に巻き込まれた、と言った印象がある。長らく東晋王朝の補佐を務めてきた存在であり、そういった人が皇帝位についた時にはどんな気持ちだったのだろうか、とは思う。何せ即位した翌年には死んでいる。いちど桓温に禅譲しますよ、と遺言状を残しかけたが配下に破り捨てられた。うーんなんか色々振り回されてるなこの人。
九代目(十六代目) 孝武帝(司馬曜) 362 - 396
司馬昱の息子。12歳で即位、23歳の時にはあの淝水の戦いが勃発。この戦いに際してこの人の動きは見受けられない。けれども一応「淝水に勝った(時代の)皇帝」という事で武の諡号をもらっている。どう考えても謝安謝玄凄いで片が付く話として見られているし、謝安謝玄が相次いで死ぬとあっという間に東晋をぐずぐずにするし、あげくの果てには側室に「お前老けたなwwwwそろそろお払い箱だわwww」などと放言したせいでその側室に殺されてるしで、お前もう……と言う印象である。
十代目(十七代目) 安帝(司馬徳宗) 382 - 419
司馬曜の息子。白痴であったとされる。お陰で宗族の司馬道子・司馬元顕がやりたい放題した。道子元顕親子はその後桓温の息子桓玄に殺されるわけだが、今度は桓玄に皇統を乗っ取られる。そして桓玄打倒に立ち上がった劉裕によっていったんは復位こそするものの、最終的には劉裕に殺される。書けば書くほど救いがなくて悲惨な人なので、せめて白痴の外面の下にもまともな思考回路が存在していなかったことを祈りたい。
末代(十八代目) 恭帝(司馬徳文) 386 - 421
司馬曜の息子、司馬徳宗の弟。白痴の兄をよく支えた。兄が殺された後に「劉裕に禅譲する役」として皇帝に即位。お仕事は禅譲の詔を書くことであったが、それの下書きも劉裕の配下が書いたというアレっぷりである。禅譲後は暗殺を恐れて妻とともに隠匿生活を送っていたが、妻の兄弟の画策によって警戒網を突破され、殺された。
なお個人的にはこの兄弟(三人)がほぼ同タイミングで死んでいるのが恐ろしくてならない。時に 424 年、まもなく宋の文帝・劉義隆が劉宋建国の立役者であった傅亮、徐羨之、謝晦を滅ぼそうかというタイミングである。そして当時権勢をふるっていたのが王導の子孫、すなわち琅邪王氏。見方を変えれば、琅邪王氏の意思によって東晋は滅ぼされたようにも映る。
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