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2-2ー2 前涼西涼君主列伝
ごきげんよう、崔浩である。
こちらでは前涼、西涼を語る。
この二国が、一応晋の
シンパという扱いになっているゆえである。
・前涼 301 - 376
初代 張軌 255 - 314
西晋の能吏であったが、八王の乱が起こるや速攻涼州に逃れた。そして涼州で暴れ回っていた鮮卑たちを平定し、厳正な統治によって「天下が千々に乱れる中、避難先とするに相応しいのはただ涼州のみ」と評価されるほどの平和を実現した。また涼州で半独立の立場を貫きながらも、あくまで晋の忠臣としての振る舞いを貫いた。晋帝の危地にはしばしば護衛の兵を派遣している。
二代目 張寔 271 - 320
張軌の息子。父が涼州に出向するとそれに従い、蛮族、反乱の鎮定に活躍した。また張軌の跡を継ぐと善政も継承。また司馬睿に帝位につくよう勧めてもいる。ただし司馬睿即位後の改元には付き合わないなど、あくまで東晋とは一定の距離を置く姿勢を示す。やがて京兆の劉弘(荊州の能吏と同姓同名なためヤヤコシイ)が張寔の勢力基盤を乗っ取ろうと画策、刺客を放ち、張寔を殺害。すぐさま劉弘は捕らわれ一族もろとも処刑された。
三代目 張茂 277 - 324
張軌の息子、張寔の弟。張寔の息子である張駿がまだ幼いからと跡を継いだが、自分の後継は飽くまで張駿であると宣言した。前涼のここまでの君主たちが聖人続き過ぎて死にそうである。劉曜に攻め立てられた際には撃退し、その後使者を送って臣属する旨を告げるなど、外交センスも凄まじい。そして劉曜にそのように伝えながらも、張駿に対してはあくまで晋の臣として忠節を尽くすように伝え、死んだ。子はいなかった。後継者争いに配慮してのことと思われるが、ここまで徹底した徳行を積まれてしまうともう降参するしかない。
四代目 張駿 307 - 346
張茂の期待を一身に背負った、張寔の息子。そしてその期待に応え、前涼の最盛期を築き上げる。前趙、成漢、東晋の三国と友諠を重ね、且つ西方の通商経路を開拓するなど、全方位に渡って細やかな運営を為している。この前涼と言う国は、なぜこうも統治者に恵まれていたのか。もっともここから先に凋落のにおいがほの見えているわけだが。
五代目 張重華 327 - 353
張駿の次男。後趙の侵攻を名将・謝艾を遣わせることで挫いたが、以後尊大となり、臣下の言葉に耳を貸さなくなるように。涼王を自称しようとしたが、この称号は東晋からは却下された。
六代目 張耀靈 343 - 355
張重華の次男。10歳で即位するも、即張祚に簒奪され、殺された。
七代目 張祚 ? - 355
張駿の長庶子。すなわち張重華の兄。簒奪の上帝位僭称、すなわち東晋からの自立を宣言した。後趙防衛の功臣である謝艾を殺すなど、まさしく暗君絶好調コースをたどったため無事配下に殺された。
八代目 張玄靚 350 - 363
張重華の庶子。即位が何せ5歳である。傀儡もいい所であり、母親の一族、権臣などの朝政壟断をただ見ているしかなかった。やがて政争を勝ち抜いた叔父の張天錫により殺される。
九代目 張天錫 346 - 406
張駿の末子。甥を殺して涼王位につくのだが 376 年には前秦に降伏。ここで前涼は滅亡する。しかし淝水で前秦が崩壊すると東晋に帰属。この人の前秦降伏以後の振る舞いを見ていると、張耀靈や張玄靚の浮かばれなさが半端ないな、と思えてならない。
・西涼 400 - 421
初代 李暠 351 - 417
淝水のあと崩壊した旧前秦領(旧旧前涼領)のうち、西のはずれにできた国の君主である。まー一言で申し上げれば泡沫候補もいいところである。では、そのような木っ端が何故載るか。晋書が唐代、すなわち「李」氏の支配する天下に成立し、かつ、この西涼がそんな李氏のご先祖枠として乗せられているためである。
ついでに先祖は戦国時代の秦の将軍李信だしその子孫には李広李陵がいるよとまで載せられており、つまり唐高祖・李淵のご先祖もすげえんですよと主張している訳である。とりあえず伝を読むと後涼系国家林立のどさくさに紛れて成り立った地方政権ですよ以上の印象は拭えず、いや絶対この伝盛られてるだろ、と疑いの目を向けずにおれない。
二代目 李歆 ? - 420
李暠の子。遠志なく乱開発乱造を繰り返した末に無謀な遠征計画を立てた上敗死。いいのか李世民、こんなクズを先祖に据えて。この後は李歆の息子がちょっと頑張ったがさっくり滅んだ。ただし弟の子孫が北魏宮中で盛名を博している。
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