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翌朝は目覚ましの音ではなく、激しく降る雨の音で目を覚ました。
のろのろと体を起こして洗面所に行けば、メイクも落とさずに寝たせいで鏡に映った顔は酷いものだった。
クレンジングでメイクを落とし、応急処置的な効果のあるスキンケアを施す。
昨日の花嫁は笑った顔も照れた顔も綺麗だったなと思い出せば、一緒に同僚の笑い声や鐘の音まで脳内で再生されてしまう。
別のことを考えようとしても、それはまるで耳についてしまったかのように、ずっと鳴っている。
それが引き金なのか、天気のせいなのかズキズキと痛みだす頭に思いついたのは一つだけ。
あの店に行かなくちゃ。
シワの寄ったドレスを脱ぎ捨て、ラフな服装に着替えると、鞄とスマホを手に部屋を飛び出した。
向かう先はただ一つーー。
傘を畳んで、いつもと違って閉まっている扉を開ければ、軽やかなドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
迎えてくれた若くて明るい女性の声に、由希の心は沈んだ。
でも、いまさら帰るわけにもいかずーー。
「テラス席、いいですか?」
こんな大雨の日に、変な客だと思われたかもしれない。
けれど、彼女は「大丈夫ですよ」と微笑んだ。
先に席について待っていると、彼女はメニューとお冷を持ってきてくれた。
けれど、頼む物は決まっている。
「雨の日ブレンドを一つお願いします」
「はい」
物悲しい気持ちで見回せば、店内には由希しかいない。
それもそうだ。
日曜日の午前中。
それも外は大雨。
わざわざ外でお茶をしようなんて人は少ないだろう。
由希は、ぼんやりと視界が悪いほど降る雨に目を向けた。
雨音は凄まじく、自分がちっぽけで一人きりに感じられてありがたい。
ただ、今までのような安らぎが得られない。
一つだけ音が足りないのだ。
「おまたせしました、雨の日ブレンドです。ごゆっくりお過ごしください」
柔らかな微笑みと共に、透明なカップを満たす薄い金色のハーブティーが揺れる。
去っていく彼女を見送り、手にしたカップを口元に近づければ、いつもと変わらない香りが鼻をくすぐった。
一口、口に含んでソーサーにカップを置いて、ソファーに体を深く沈めて目を瞑った。
すると、扉が勢いよく開いて、ドアベルが激しくぶつかる音が響いた。
突然の不快な音に、ゆっくりと目を開けて出入り口に目を向ければ、肩で息をする彼の姿があった。
珍しい姿に体を起こすと、彼の瞳が由希を捉えた。
シフトの時間でも間違えて、焦って出勤してきたのかと思ったのだが、彼はスタッフルームではなく、由希の座る方へと真っ直ぐ迷いの欠片もなく歩いてきた。
「ここ……いいですか?」
「あ、はい」
思いもしない出来事に、他にも席はいくらでも空いているじゃないかという考えは浮かばない。
向かいのソファーに座った彼は、膝に肘をついて呼吸を整えようとしている。
こんなに近くで、じっくりと見たことのなかった彼の容姿は、驚くほど整っていた。
俯いていても分かるほど、すっとした鼻筋や息を零す唇は厚すぎず、すべてのパーツがバランスよく配置されている。
そんな顔を眺めていると、こちらに視線を向けられ、力強い目に心臓がドキリとした。
「やっと、目が合った」
「えっ?」
呟かれた言葉に驚いて聞き返せば、彼は店員の女性に声をかけた。
「水樹、こっちに水を一杯くれないか?」
「ええー、北原さん……自分で持っていってくださいよ」
「いや、今日は休みだし」
「はいはい、わかりましたよ」
二人のやり取りを見ていると、初めての情報を耳にした。
「北原……さん?」
初めて知った名前を呟けば、ぱっと由希に顔を向けて嬉しそうに笑った。
「そうです。北原瑠偉……それが俺の名前です。あなたの名前を聞いてもいいですか?」
「……丸岡由希です」
ためらいはなかった。今回、初めて会話をしているのに、もうすでに彼の存在は馴染んでいる。
「由希さん。そう呼んでもいいですか? 俺のことも下の名前で呼んでください」
家族か元彼にしか呼ばれたことのない下の名前に、由希の頬に熱が集まった。
「赤くなってかわいいですね」
「うわー、自分の働いている店でナンパと勘弁してくださいよ」
瑠偉の前にお冷を置いた水樹は、ため息をついてアーモンド型の目を細めて睨むと、由希の耳元に唇を寄せた。
「この人、呼んだのあたしなんです。いつも、あなたが雨の日に来るからってシフト組んでる可哀想なやつなんですよ?」
「おい! 余計なこと言うなよ?」
驚きに目をみはれば、可憐に笑って席を離れていった。
「まったく、変なこと言いませんでしたか?」
お冷に口をつけながら、瑠偉が問いかけてきた。
真意のわからない話の真実が知りたいと、由希は率直に口にすることにした。
「私が来るかもしれないって、雨の日にシフトを組んでいたっていうのは」
そう口にすれば、ごふっという音と共に瑠偉が盛大にむせ始めた。
「あの、大丈夫ですか?」
「あいつ……」
やっぱり誇張されていたのかと思っていると、瑠偉は目を泳がせながら呟いた。
「ほんとです。まじ……気持ち悪いですよね」
そう言って項垂れてしまった。
その姿は、大型犬が叱られてしょんぼりしているのに近くて、可笑しくなってしまう。
「いつから……雨の日に来るって思ったんですか?」
「半年以上前からです」
初めてこの店を訪れた日には、すでに瑠偉はこの店で働いていた。
そうなれば、自然と同じ客が必ず雨の日にやって来れば、覚えるのも当たり前だ。
「でも、由希さんが気になったのは、去年の今頃……大雨の中で男と話しているのを見た時からです」
さっきまでのしょんぼりとした様子とは打って変わって、真っ直ぐ情熱的な目を向けられて、由希は目を反らした。
去年の今頃。
大雨の中で男と話す。
忘れもしない。一方的に、元彼に振られた日だ。
「あの日、テラス席を閉じようと準備をしていたら、あなたが男と話しているのが見えたんです。大雨の中で、話の内容は聞こえなかったけど男が一方的に話して去っていった。その後で店に来た時には泣いているのかと思ったけど、まるで泣き方を忘れたみたいな顔をしていて」
あれを見られていたかと思うと、恥ずかしくて顔が上げられなくなってしまう。そんな由希に気づいているのかいないのか分からないが、話を続けた。
「その顔が頭から離れなくて、素直に泣ける場所はあるんだろうかって事が気になって、声をかければよかったって後悔してたら、次の雨の日に来店したんですよ。でも勇気がなくて。男なんてこりごりって思ってたらどうしようとか考えてしまいました」
瑠偉の言う通りだ。
正直、もう誰かと付き合うとか、男性との時間なんかを考えるのが嫌になっていた。その時に声をかけられても、名前も教えないだろうし、下手したら二度と店に行かなかったかもしれない。
「正解……みたいですね。よかった。それから、必ず雨の日には来てくれて、逆に晴れの日には来てくれなかったから、自然と何か意味があるのかと思ってたんです」
顔を上げれば、いつもの優しい微笑みが待っていた。
声も優しくて包み込まれるような安心感に、心の奥が解けていくような気がした。
「雨の日は……一人でいたくなくて。だけど、嫌いなわけじゃないんです。今までの嫌なこととか、悲しい思い出を洗い流してくれるみたいで」
どう話したら伝わるのかと考えながら、辿々しく伝える間もときどき相槌を打ってくれる。
急かす訳じゃない、彼の雰囲気が由希は好きだと思った。
「今日は珍しいですよね。いつもは雨でも日曜には来ないから、水樹に連絡をもらった時には驚きました」
「昨日……元彼の結婚式があって」
「はっ? なんですかそれ。嫌がらせですか?」
「ち、違いますよ。同じ会社で、同期で、同僚なんです。会社の皆が参加しているので、行かないと目立つので……変な意味で」
慌てて言うが、彼は納得いかないような顔でソファーに沈み込んだ。
「気持ちがあって行ったんじゃない?」
「違います」
「でも、忘れたくて来たんですよね? そんなに深く刻まれていたってことは、少しは気持ちが」
「ないです。確かに、昨日の色々な音が耳にこびりついていたから、ここに来ましたけど……雨の音だけじゃ足りなかったんです。瑠偉さんの……声を聞かないと雑音は消えないんです」
「それって」
口にするのは恥ずかしかったが、伝えなければ何も始まらないと口を開けば、彼の手が素早く前に突き出された。
世界共通のジェスチャーに近い静止を促すアクションに、口を閉じた。
「先に俺の口から言わせてください。毎日、雨が降ればいいと思ってたんです。午前中に降って止む雨なら、ずっと降り続ければいいも思ってました。こんなにやまない雨を望んだことはありません。でも、これからは晴れの日も……雨の日も、一緒に過ごしてくれませんか?」
優しい声の奥に覗く、強い感情に由希はただ静かに頷くことしか出来なかった。
外の雨はまだ止まない。
今は、洗い流すための雨ではなく、二人を祝福するような歓声に聞こえる。
雨がもたらした出会いだが、きっと晴れても変わることはないだろう。
二人は目を合わせると、静かに笑いあった。
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