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昼
疲れた。
昼休みを告げる鐘の音で、就業中は感じていなかったはずの疲れがどっと押し寄せてきた。
外は暑いけれど、ずっと社内にいるのも息がつまるから、今日は外でご飯を食べようか。
そう思って、崩していていた姿勢を正し、カバンから財布を探した。
すると、背後からカツカツとヒールを鳴らす音が聞こえてきて、俺の後ろで音が止まる。
「小宮くん。ちょっといいかな?」
物腰は柔らかいのにどことなく威圧感がある声に俺はうんざりした。
まぁ、この前結那が一緒に遊んだって言ってたから、いつかは来ると思ってはいたが。
「何ですか?朝田さん」
俺は小さくため息をつくと、彼女の方を見た。
朝田瞳は俺の三つ上の先輩である。
オマケに結那と仲が良い。同じ小学校だったらしい。結那が俺を会社の最寄り駅まで迎えに来たときに、たまたま朝田さんと遭遇し、その事が判明した。結那は思わぬ再会に喜び、意気投合。今では本当の姉のように慕っているという訳だ。
「それで、何の用なんですか?俺、朝田さんに何かしましたっけ?」
「とぼけんじゃないわよ……!!私じゃなくて、結那ちゃんのことに決まってんでしょ!!」
午後十二時過ぎ。どこかの喫茶店で静かに昼食を食べる、という俺の計画は見事に消え去った。
会社から歩いて五分。首都圏を中心に店舗を展開しているチェーン店。目の前には鬼のような形相をした朝田さんがいる。
「結那のことと言われましても。俺も最近すれ違ってばっかですし。朝田さんの方が詳しいんじゃないですか?この前会ったんでしょ?」
「何?その言い方。ムカつくわね」
「俺が何言っても苛立つじゃないですか」
結那が朝田さんのことを慕っているように、朝田さんもまた、結那のことを可愛がっている。そういう訳で、朝田さんが結那に会うと彼女は俺にこうして文句を言いに来るのだ。
家事はまかせっきりになっていないか。無理はさせていないか。記念日は大切にしてあげているか。それは思い出したらキリがないほどだった。
朝田さんは「まぁ、いいわ」と言って小さく溜息をこぼすと、鋭い目線をこちらに向けた。
「小宮、アンタね。結那ちゃんのこと、ちゃんと見てやってんの?」
「ちゃんと見ているとは?」
「気にしてあげてんのかってことよ」
「さっきも言いましたけど、最近アイツが忙しいから、ちゃんと会えてないんですって」
「はぁ?アンタ、気づいていないの?」
俺の回答に苛立った朝田さんは眉に皺を寄せ、大きな声を出す。
「ちょっと朝田さん、声大きい」
「うっさいわね。それどころじゃないのよ。アンタ最近、結那ちゃんが元気なかったことに気づいてなかったっていうわけ?この前、彼女が好きなケーキ屋さんのケーキを一緒に食べたっていうのに、全然食が進んでなかったんだから!」
俺の指摘をスルーして、さっきよりも興奮した様子で話す。
「すれ違いって言ったって、同じ家に住んでんだから一日に一回ぐらいは顔を合わせるでしょーが。その時に何か変わった様子はなかったの?」
そういえば先日、二人とも帰りが早い日があった。
次の日、俺は休みで結那は仕事。
彼女は俺が作ったパスタをさっさと食べて、入浴のためメイクを落としていた。
彼女が繁忙期である現在、家事全般は俺の仕事になっていて、ソースまで綺麗になくなった皿を流し台に運んでいるときだった。
「あーーー」と洗面所から叫び声が聞こえてきた。
何事かと思い、急いで洗面所に向かうと、結那が洗面台の前でしゃがみ混んでいる。
「結那。何かあった?大丈夫?」
俺は結那の脇に手を添えて、立たせると俯いている彼女の顔を覗き込もうとする。だが、結那の顔は手で覆い隠されていて、見ることはできなかった。
「怪我でもした?」
結那が首を横に振る。
「虫でも出た?」
また首を横に振る。
「じゃあ、お化けでも出た」
結那は再度、首を横に振ると、小さな声で「……違う」と呟いた。
「じゃあ、どうしたんだよ」
彼女がどうしたのかが分からず、おろおろと情けない声が出た。
結那はしばらく黙っていたが、ぽつりと囁くような声で話し始めた。
「……ニキビができた」
「ニキビ?」
ニキビとは、あのニキビのことだろうか?
皮脂の分泌が活発になって毛穴が詰まって炎症を起こすことでできるというあの?
俺は顔を隠している結那の手を取って彼女の顔を見る。すると、彼女の顎のあたりに赤くポツっとニキビができているのが分かった。
「なんだ。いきなり叫ぶから何事かと思った」
彼女に何かがあった訳じゃないことに安心して俺はホッと息をつく。
「なんだじゃないよ。ニキビができちゃったんだよ。何が原因なんだろう。ストレス?睡眠不足?それとも洗顔とか化粧水が合ってないのかな?」
結那は早口で捲し立てるようにブツブツと呟きながら、頭を抱え始めた。
「まあ、結那が無事なら良かったよ」
「全然無事じゃないよ。ニキビだよ。ニキビ」
「そりゃあ、結那は最近忙しいからね。肌の調子だって悪くなるでしょ」
「それじゃあ、ダメなの!だって――――」
それは唐突で、叫ぶような声だった。その大きさに驚いた。結那は喧嘩しても大きな声を出すことはなかったから。
俺が戸惑っていると、ふっと我に返った結那は「ごめん」と言った。
「気にすんな。忙しくて疲れてんだろ。さっさと風呂入ってきなよ」
優しく背中に手を添えて俺がそう促すと、彼女は「うん」と小さく頷いて、服を脱ぎ始めた。
あの日以来、結那とのすれ違いが続いてしまっている。
あのとき結那はどうしてあんなにむきになっていたんだろう。
俺の話を黙って聞いていた朝田さんは、残っていたコーヒーを一気に飲み干すとバンっと空のプラスチックコップを机に置いた。
「原因分かってんじゃない。それよ、それ」
「それってニキビ?」
「そう」
「でも、俺、別にニキビや肌についてとやかく言ったつもりはないですよ。むしろ、結那のことを労わったつもりなんですが……?」
「アンタの意見なんて知ったこっちゃないわよ。あの繁忙期に会っても疲れ一つ見せない結那ちゃんが、落ち込む理由なんて言ったら私生活のことで、その原因はアンタ。アンタの心当たりがニキビだっていうなら、結那ちゃんが落ち込んでいる原因はそれなのよ」
朝田さんはそう横暴な理論を繰り広げた。
「いい?私は結那ちゃんがアンタみたいな男を好きになったのかは全くもって分からないけど、女っていうのは好きな男の前ではいつだって綺麗でいたいものだし、好きな人に言われた言葉ならそれだけ印象に残っているものなんだからね」
朝田さんは俺をビシッと指差し、力強くそう告げると、俺の横に置いてあった伝票を持ち、スタスタとお会計を済ますと、出て行ってしまった。
スマホを確認すると時刻は始業の十五分前で。
なんだかんだ言って優しい朝田さんに感謝しつつ、残っていたサンドイッチを急ピッチで食べ終えると、俺も急いで会社に戻るのだった。
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