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夜と記憶
夜八時。家に帰ると、結那はまだ帰ってきていないようだった。
汗も流したいからさっさと風呂に入ってしまおうと洗面所に着いたとき、洗面台が目に入る。
洗面台の横に俺の腰の高さくらいある棚が置かれていて、そこに置いてあるものがどことなく違うような気がした。
じっと見つめてみると、結那の使っている段に入っているものが前とは違っていた。確かそこにはスキンケア用品をしまっていたはずだから、使うものを変えたのだろう。
結那はそこまで気にしていたのか。
ぐるぐると最近会っていない彼女のことを考える。俺は朝田さんの言う通り、結那のことちゃんと気にしてあげていなかったのかもしれないな。
同棲というのは物理的距離は近くなるけど、いつでも会えるからなのか心の距離は遠くなるような気がする。
ふと、今日の朝田さんの言葉が甦った。
『好きな人に言われた言葉ならそれだけ印象に残っているものなんだからね』
俺は結那に対して何か言ったことがあっただろうか。
積み重ねてきた彼女との記憶を振り返ると、ひとつだけ思い浮かぶ記憶があった。
確かあれは結那と付き合う前。当時の俺と彼女の関係は同じ大学に入学し、たまたま同じ授業を取っただけの同級生。
何人もの人が履修する共通科目で彼女の隣に座ったのも偶然だった。
大学内の建物の中で一番古い三号館は空調が壊れている。にも関わらず、授業を行う教室は変わることがなかった。気温が三十度近くにもなる暑い夏の日に、窓を全開にして扇風機を回すという過酷な状況。ただでさえ暑いのに、窓を空けたことによって教室中に響き渡る蝉の声に暑さが助長された気がした。
その教授はプリントをよく配布する人で、右端から流れてくるプリントを受け取るときに、俺は初めて結那を認識した。
綺麗に染められたアッシュブラウンの髪が汗に濡れて顔にくっついていた。それをうっとうしそうに耳にかける仕草がどこなく色気を感じさせる。
遠くからでも分かるくらい肌は白くて、きめ細やかだった。それがとても綺麗だと思った。
「肌、綺麗だね。すごい。しっかりと手入れしてるんだ」
俺がプリントを受け取らないことを不審に思った彼女がこちらを見たとき、思わず口から出てしまった。
突然知らない男がそんなことを言われるなんて、気持ち悪がられると思ったが、結那は驚いたように目を丸くさせた後、恥ずかしそうにはにかんで「ありがとう」と言った。
そうだ。あれが俺と結那の初めてした会話だった。
風呂を出て、疲れているであろう結那のために、彼女の好物であるキノコのリゾットを作る。
自分でさっそく食べてみたが、問題ない。いつも通りの味だった。
俺はそこにメモを置くと寝室に向かった。
『最近、蝉の声を聞いていると、初めて会った大学の教室を思い出します。
だから、次回のデートは初心に帰って大学に……という訳にはいかないので、付き合ってから初めてデートした海に行きませんか?待ち合わせもそこにしましょう。
あのときとは違って夏の海ですが、たまには定番なこともしたいです。
最近、本当忙しそうですが、無理はしないように。
航太』
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