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▼六章「秘密」
夕日に染まる陽煌宮内医院の広場には、最終試験を終えて帰還した試験生たちが集まっていた。これから宮廷医になる試験生が唐九試験官から発表されるのだ。
いよいよか……。
宮廷医になれれば、国王や王弟、王子にも近づきやすくなる。逆にここで落第すれば、この宮殿に出入りするきっかけを失い、永久に委元の死の真相は闇に葬られる。
胃が絞られるように痛み、みぞおちを押さえていると両脇に孔玉くんと蒼が立った。
「なにその不細工な顔! 緊張とか、する必要ないでしょ」
「孔玉の言う通りだ。お前は主席だろう、落第はありえない」
緊張が顔に出ていたようだ。ふたりに励まされ、張りつめていた神経が緩むのがわかる。
「俺、ふたりと一緒に宮廷医になりたいよ」
同じ気持ちだと言うように、孔玉くんと蒼が肩を組んでくる。
この身ひとつで宮殿にやってきて、私がここまでくることができたのは間違いなく彼らのおかげだ。きっと大丈夫、成績だけでいえば合格圏内だ。自分の力を信じて、そのときを待っていると、「よし、準備はできてるな」と声を張りながら、颯爽と唐九試験官が試験生の前に現れる。
「これから、宮廷医になるに相応しいと判断した試験生の名を呼び上げる」
そのひと言で、辺りがざわついた。
私はごくりと生唾を飲み込み、深く息を吐いて暴れ出す心臓を落ち着ける。
「選ばれた者は三週間後に戴帽式を行う。そこで正式に宮廷医になれるってわけだ。それ以外の者は荷物をまとめて帰ることになる」
ここが運命の分かれ道だ。
結果発表について説明する唐九試験官の一歩後ろには、寸さんが控えている。
じっと見つめていたせいか、いつも私を見守ってくれていた彼の翡翠の瞳と目が合った。
寸さん……もうひとりで危ない役割はさせませんから。
決意を込めて寸さんを見つめ返していると、唐九試験官の「名前を呼ばれた者は返事をするように」という声で、一気に緊張感が増す。
「尊孔玉」
いちばんに呼ばれたのは、孔玉くんだった。本人は当然でしょ、とばかりに涼しげな顔で「はい」と返事をしていたけれど、私にはわかる。心底うれしい、そんな感情が内側から滲み出ていた。
「続いて、朴蒼」
「はい」
驚きはしない。彼も必ず選ばれると思っていた。蒼は「次はお前だ」と私に耳打ちしてくる。医者として、試験生として恥じるような治療はしていない。だからこそ、強く頷いて見せたのだが――。
「……以上だ」
私の名前が最後まで呼ばれることはなかった。唐九試験官が宮廷医に選ばれた者の名が書かれていただろう書状を丸めると、試験生の間に動揺が走る。彼らの視線は、自意識過剰でもなく私に集まっていた。
どうして……まさか、女であることがバレた? それとも、手術を強行したことが原因だろうか。
「嘘、蘭は主席でしょ?」
「ああ、なにか手違いがあったようだ」
孔玉くんと蒼が放心状態で立ち尽くしている私の代わりに、唐九試験官に詰め寄っている。唐九試験官はふうっと息をつき、苛立ちを隠しもせずに荒っぽい手つきで頭を掻く。
「蘭は主席だ。それは誰の目から見ても、わかることだろうな。けどな、これは上からのお達しだ。俺は納得してねえけどな」
上からの命令? 龍焔の『お前を宮廷医試験から落とそうとしている人間がいる』という声が頭の中をぐるぐると巡る。やっぱり、委元絡みで私を落としたのだろうか。刺客に襲われようと、祈祷師に邪魔されようと、試験さえ乗り切れば大丈夫。そんな考えは甘かった。相手は試験さえ操作できてしまうほどの人物。たとえば国王、王弟、王子ほどの人間ならば理由などなくとも、権力を行使して試験の成績云々に関わらず私を蹴落せる。
これで私は、委元を殺した真犯人を見つける術を失った。胸にあるのは空虚感と絶望。これからどうすればいいのだろうか。突然、底が見えない崖の先に立たされたかのようで、私は項垂れる。
「蘭さん……」
いつの間にそばに来ていたのか、寸さんは下から顔を覗き込んできた。けれど、話す気力すらわかない。
そんな私を寸さんは腕の中に閉じ込める。まるで、忍び寄る悪意や思惑から守るように。
「すみません、龍芽国王からあなたを宮廷医から外すよう命が下ったのです。理由は、恐らく……」
私にだけ聞こえるように、寸さんは小さな声で言い淀んだ。途切れた言葉の先には、私にも思い当たる節がある。
「私が委元のことを調べていたから、ですね」
それしかないと断言すれば、無言の肯定が返ってくる。
「荷物をまとめて、逃げてください。試験生が暗殺されたとなれば、宮殿の責任が問われます。ですが、試験生でなくなった今、王様はあなたを容赦なく排除できる」
「委元の……とき、みたいに……」
今度は私がこの宮殿を追われる。仙の島まで無事に帰れるだろうか。いや――戻れたとしても命を狙われていることには変わりない。
「私は、なんのためにここまで来たの……?」
無駄足もいいところだ。私は自分の制服の下衣をぎゅっと握りしめ、無力感に打ちひしがれる。
「蘭さん、諦めなければ、きっと他に委元先生の無念を晴らす方法が見つかるはずです。ですから今は、生きてください。なにがなんでも、生きてください」
「寸さん……」
名前を呼ぶ声が掠れる。寸さんの言葉を頭の中で復唱し、私はひとつ、またひとつと首を縦に振った。
今はなにを考えるより先に、生き延びよう。
深呼吸をして、思考の隙間に入り込もうとする絶望を無理やり頭の中から追い出し、顔を上げる。
「行きます、寸さん」
「どうか、気をつけて」
寸さんの腕から出た私は、宿舎に足を向けて歩き出した。すぐに同室のふたりが駆け寄ってきて、両隣に並ぶ。
「上からのお達し、蘭の手術のことがどこからか漏れたのかもしれないな」
蒼の声がどこか力ない。表情に乏しい彼の感情の機微が手に取るようにわかるくらい、一緒にいた。離れ離れになるのは寂しいが、蒼が私以上に気落ちしているのがわかり、笑顔を無理やり作る。
「うん、だけど手術をしたことは後悔してないよ」
「する必要はない。俺はお前の手術に救われたんだからな」
「蒼……うん、ありがとう」
彼なりに私を励まそうとしている。自分の医術を信じ抜けと言われているようだった。
「ねえ、蘭が外れたのってもしかして……」
孔玉くんの含んだ言い方が示唆しているのは、私の秘密。女であることが知られたせいだと、彼は考えているようだ。
「蘭が何者であっても、この俺と張り合えるのはあんたと蒼だけだから。ほんと、くだらない理由であんたを手放すとか、宮殿の人間は大損してる。愚の骨頂だよ」
本当のことを話せば、彼らに危険が及ぶので口にできない。それが心苦しいが、ふたりの気遣いが私の胸を打つ。
他の誰よりも、彼らに認められたことがうれしくて誇らしかった。
「孔玉くん、蒼」
足を止めると、同じように数歩先で立ち止まった彼らが振り返る。
「ここで俺たちの道が分かれたとしても、どこにいたとしても俺はふたりを思い出す。誰かの背を追いたい、そう思えたのは委元の他にふたりだけなんだ」
ああ、そうだ。そんな存在に出会えただけでも、ここへ来た意味はあった。
無意味だと思っていた時間が、少しずつ価値を見い出していく。
「今日まで一緒に学んでこれて、本当によかった。またどこかで――」
私の語を継いだのは、ふたりの同期。私の肩に腕を回し、「絶対に会おう」と、声を揃えて背中を押してくれる。
うん、絶対に会おう。そのために、私は生きて仙まで帰るんだ。
傾きかけた太陽が、三つの影を地面に映し出す。それは私たちの進む道を示すかのように、別々の方角へと伸びている。
けれど、今この瞬間と同じく、三つの影が重なり合う日がきっと来る。それだけを信じ、私は背後から忍び寄る『死』を振り払う勢いで陽煌宮を出るのだった。
***
馬と船で二週間、第二の故郷ともいえる仙の島に辿り着いた。
宮殿から刺客に追跡される可能性があったので、簡単に手が出せないよう、あえて人通りの多い道を使った。私を殺そうとしたら、すぐにでも騒ぎになる場所を選んだのは正解だったらしい。道中襲われることなく、無事に医院まで帰ってくることができた。
「ただいま」
引き戸を開けて中に入ると、少し埃っぽい診察室。薬草と木の香りが鼻腔を占め、記憶の蕾が花開く。ここで溢れかえる患者の隙間を縫うように、委元と忙しなく治療に駆け回る日々を送った。
込み上げてくる懐かしさが痛いほど胸を締めつけてきて、ぶわっと涙があふれた。
「委元……っ、私――、なにもできなかったっ」
両手で顔を覆い、その場に泣き崩れる。
嘆くのはすべて終わってからだと決めていたのに、ここへ帰ってきたら委元がもうこの世にいないという現実を再び突きつけられた気がして、我慢できなかった。
どうして、委元が死ななければならなかったのだろう。正しいことをして、人を救ってきたあの人が、殺されなければならなかったのだろうか。命令に背いた、ただそれだけの理由で命を奪う犯人が憎くてたまらない。
私は日が沈むまで慟哭し、声が枯れた頃にゆらりと立ち上がった。向かった先は居間。足を踏み入れると、棚という棚のあらゆる引き出しが開けられ、服や診療録、薬草が床に散乱していた。
「これは……」
まるで泥棒にでも入られたような有様だった。金品が目当てだったのかもしれない、と私は委元の奥さんだった華閔さんの部屋へ行き、装飾品がしまわれている小物入れを見たのだが、盗られた様子はない。
「泥棒は、なにを探してたの……?」
荒らされた部屋の中を歩いていたら、びりびりに破られた紙を発見する。
その場にしゃがんで紙を拾い上げれば、【近々、そちらに参ります】と書かれている。
これは寸さんから委元宛てに送られた文だ。
「宮殿を追われたあとも、委元は寸さんと文通してたんだよね」
委元の葬式の日に寸さんが『実は私も、委元先生と国王の悪事を公にするために動いていたのです。そしてある日、委元先生から国王が家族を殺した証拠を掴んだと文をもらったので、医院を訪ねました』と話していたのを思い出す。
「委元が掴んだ、国王が家族を殺した証拠ってなんだったんだろう」
もしかして、それを探して国王の追っ手が医院に侵入した?
だとしたら、もう盗られたあとかもしれないが、私は委元が見つけた証拠を探す。
だが、床板を剥がしても寝台の布を引っぺがしても目ぼしいものは見当たらない。
「ないな……というか、証拠を医院になんて置いてたら、こうして探されることは誰でも想像がつくよね。もっとわかりにくい場所に隠すはず」
考えろ、委元ならどこに証拠を隠す?
もう一度、部屋の中を見回していたとき、窓際の円卓が目に入る。いつもあそこで、一緒に昼食をとった。委元が亡くなった日、私が誕生日だからと高価な朱塗りの道具箱をプレゼントしてくれたのもあの場所だった。
「武器は肌身離さず持ち歩け、だっけ」
委元は道具箱を私に贈ったとき、そんなことを言っていた。医者にとって治療道具は武器と同じ。だから、どこへ行くときも委元から貰った道具箱を持ち歩いた。
「でも、変だよね。わざわざあんなことを言うなんて……」
もし、あの言葉に他の意味があったとしたら。私は寝台の上に置いていた荷物に近づき、道具箱を開ける。蓋の裏や引き出しを全部出して中を確認する。
すると、底板が少し浮き上がっていた。ごくりと唾を飲み込み、板を剥がす。年季が入っているせいか、黄ばんでいる紙が一枚出てきた。
【血の契りをもって、我らが主に忠誠を誓うことをここに証明す】
謎の文の中央には、銀箔が混じった龍の印。それから【簡寸】と【陽煌龍水】を含む人名と血の指印が五つあり、紙を掴む指が震える。
「なんなの、これ……なんでこんなものが道具箱に?」
隠したのは間違いなく委元だろう。私には書状の内容はわからないので、これが例の証拠なら誰かに確認しなければ。
相談するなら、寸さんがいい。私は紐がついた薬入れに紙を小さく折り畳んで仕舞うと、首から下げて着物の下に隠す。そのときだった、ガラガラッと引き戸が開く音がしてドクンッと心臓が嫌な音を立てる。扉には【休業中】の看板がかかっているため、患者は来ないはずだ。ということは……追っ手!
私は荷物も持たずに、静かに裏戸から医院を出る。息を殺して医院の裏手に回り、壁から顔を出した。表玄関には黒装束の男たちが四、五人ほど。眼光鋭く周囲をしきりに気にしている。
逃げなくちゃ、なんとしてもこの証拠を守り切らないと――。
私は追っ手の目を盗んで医院を抜け出し、無我夢中で町の中を走る。だが、相手はその道のプロだ。私の足音を感じ取り、「逃げたぞ、追え!」と叫んで、一斉に追いかけてくる。
町人たちは何事だとばかりに振り返り、私の存在に気づくと「蘭じゃねえか!」「帰ってきてたんだね」と口々に声をあげる。
「私の足じゃ逃げ切れないっ、一体どうすれば……っ」
「蘭、こっちだよ!」
酒場の女店主が私に手招きをする。
「でもっ、私に関わったら危険です!」
「なに言ってるんだよ、うちらは委元と蘭ちゃんに助けられてきたんだ。ここで見捨てるなんてできないよ」
「おばさん……すみません、ありがとうございます!」
迷った末、私は女店主に促されて店内に入る。後ろを振り返れば、私が追われているのを知った町人たちが「ここから先は通さねえよ」と店の前に立ちはだかっていた。
「皆……」
「あいつらに任せときな。だてに流刑になってないからね」
女店主は果物が入っていた木箱をどかして唐突にしゃがみ込み、床にある正方形の扉の取っ手に手をかける。
「床下収納?」
「はは、違うよ。裏口は追っ手が先回りしてる可能性があるからね」
扉が開き、地下に繋がる階段が現れた。
「ここは罪人が流れ着く島だろ? いつ追われるかもわからない連中ばかりさ。だから、こうして逃げ道を作ってあるんだよ」
「おばさんは、どうしてここまでして私や皆のことを助けようと……?」
「この島の連中は、他に行き場がないんだよ。この島が居場所なんだ。あたしはね、ここでの生活も人間も気に入ってる。だから、国のお偉いさんがこの島の連中を咎人だと罵っても、守ってやるつもりさ」
女店主の瞳には、強い意志が宿っている。
島には強面で屈強な身体に無数の古傷がある者が多く、見た目はまさに罪人。初めは恐ろしくて仕方なかったが、仲間を大事にするし裏切らない彼らの一面を知って、私はこの仙の島の人たちのために医者として尽くしたいと思うようになった。女店主が彼らを気に入る気持ちは、私にもわかる。
「蘭、あんたも大事な仙の島の人間だ。必ず生き延びな」
「おばさん……」
「地下を出たら、そのまままっすぐ坂を下るんだ。その先にある砂浜に船が繋いであるから、島を出るんだよ。いいかい、死ぬんじゃないよ」
「はい、必ず帰ってきます」
私は女主人に手燭台を渡され、真っ暗な足場を照らしながら階段を降りていく。
頭上で扉が閉まると、闇が深くなった気がした。一本道をひたすらに五分ほど進み、ようやく地上へ上がるための階段を発見する。
私は蝋燭を吹き消し、階段を上がると扉を慎重に押した。開いた隙間から日の光が差し込み、暗闇に慣れていた目がチカチカする。
辺りを見回せば、そこはよく委元と薬草採りに出かけた森だった。誰もいないことを確認し、私は地下から出る。女店主に言われたようにまっすぐ坂を下り、砂浜を目指した。
このまま誰にも見つからないといいんだけど……。
背後を気にしながら走っていたとき、ドンッとなにかにぶつかった。
「きゃっ――」
悲鳴をあげかけた私の口を誰かの手が塞ぎ、「――しっ、静かに」と声がした。
なにがなんだか思考が追いつかないまま目線を上げると、二週間前にも見た寸さんの顔が至近距離にある。
「どう、して……」
「あなたのことが気になって、様子を見に来てしまいました。やはり追っ手に追われているようですね。こちらへ」
説明も手短に、寸さんは私の手を引いてどこかへ歩き出す。
まだ心臓が波立ち騒いでいる、状況についていけない。私は連れて行かれるがままに足を動かし、山崖に辿り着いた。高台だからか強く吹き上げるひんやりとした潮風に、ようやく気持ちが沈静してくる。
「早く、島を出ないと……。寸さんも、これ以上私に関わるのは――」
「それができないんです」
話の腰を折るように、私の言葉を遮った寸さんは首を横に振る。
なぜ、できないのだろうか? なにが、できないのだろうか。島を出ること? れとも私に関わること? 情報量の少ない寸さんのひと言に、疑問符が頭の中を埋め尽くす。
「あなたはどこまで委元先生の死の真相を掴んでいますか?」
「寸さんに話したところまでです。まだ、決定的なことはなにも……」
「龍辱様と龍水様のことも疑っていますね?」
ぶつけられた問いは肯定以外の答えはないとばかりに、やけに確信めいた響きを持っていた。
寸さんは、なにを考えているのだろう。目の前を行ったり来たり、落ち着かない様子で歩いている。いつ追っ手に見つかるかもわからない状況で、同じ場所に留まっているのは賢くない。なにか策があるのだろうか。
周囲の音に耳をそばだてながら、私は「はい」と返事をする。
「威安さんは、そのふたりに殺されましたから……。ただ、国王のことも疑っています。委元を殺すように仕向けて、私を落第させたので。正直なところ、皆が怪しくて核心には辿り着いていないんです」
「……ですが、核心に辿り着く日は近いでしょう。あなたは私から、委元先生を殺したのは国王だと聞いても、あくまで言質を取るまでは真実だと認めない。あなたが私の言葉を疑うことなく信じる能天気な人間だったなら、この結末は避けられたかもしれないのに」
能天気? それは私のことを言ったのだろうか。温和な寸さんには不釣り合いな言葉だからこそ、気を呑まれるほどの恐怖が足元からせり上がる感覚に襲われる。
「最終試験で落第させ、穏便に退場させるつもりでした。ですが、あなたは祈祷師の薬がもたらした病の重症化を早々に鎮静してしまった。さすがは委元先生のいちばん弟子。脱帽でした」
「ま、待って……寸さん、なにを言って……」
「ここまで言ってもわかりませんか? あなたの試験を邪魔した祈祷師は、私ですよ」
どんなに止めても私が危険に首を突っ込むから、試験を諦めさせるためにやむおえずしたことだと、そう言ってくれたなら。まだ、胸の痛みは少なかったのだろうか。
「あなたを宮廷医にするわけにはいかなかったんです。いずれ龍辱様に仇なす存在になりうる存在でしたから」
どうか、嘘だと言ってほしい。いつでも味方でいてくれた彼が、人の命を目的を遂行するための道具として扱う。医者としてあるまじき行為をした挙句、私を陥れようとしていた張本人だったなんて。
「騙してた……んですか?」
口内がカラカラに乾いている。今ここで起きている事実を否定したいからか、世界の音が遠ざかるような錯覚を覚えた。足元はグラグラと揺れているようで、眩暈までし始める。
「騙されるほうが悪いんですよ。おかしいと思いませんでしたか? 私と出かけた酒場で、委元先生は殺された。なのに、私だけが助かった」
「なにが……言いたいんです?」
まさか、委元を死に追いやったのは自分だとでも言うつもり? その考えがすんなり頭に浮かんだことに、私自身も驚く。
あの日、刺客は寸さんが委元と繋がっていると思ったから都からあとをつけた。なのになぜ、寸さんは助かったのか。刺客からすれば、寸さんも裏切り者だというのに。
「私がなにを言いたいのか、聡いあなたはもう気づいているのでは? 委元先生は私の手配した刺客に殺されたんですよ。だから雇い主の私は殺されなかった。それだけの話です」
「委元は、あなたを信用してたのに……どうして裏切ったの? どうして私の味方のふりなんてしたの!」
金切り声で叱責を飛ばせば、寸さんはやれやれといった様子でため息をつく。
「裏切るもなにも、もともと仲間ではなかったのですよ。委元先生は龍辱様の命に逆らった。だから、そのつけを払ってもらおうかと思いまして」
「龍辱様の命? ……ってことは、王様に龍辱様を殺すようそそのかされたって話は嘘だったってことですね。むしろ――」
「その逆です。龍辱様が王様の毒殺を委元先生に持ちかけた。そして、あなたにはその尻拭いをさせるため、王様が親の仇だと擦り込み、殺させる筋書きを作ったのです」
ぴたりと足を止めた寸さんは、表情を消して亡霊のようにゆらりとこちらへ足を向けた。
もう、聞きたくない。考えることを放棄したい。
向けられる気迫に後ずさっていると、踵がとうとう崖の先につく。パラパラと砂が遥か下にある海へと落ちていくのが見えた。これ以上は行き止まりだ、逃げ場がない――。
「ですが、予想以上にあなたが龍焔王子を信用し始めた。あれは面倒な男ですね。遊び人のように見えて、王の素質も兼ね備えている。ですが、龍焔王子に王位につかせるわけにはいかないんですよ。あそこは龍水様が座する場所ですから」
「まさか――龍焔にもなにかするつもり? やめて! もうっ、私の大事な人たちに手を出さないで!」
私の背後にあるのは海だけだ。優位なのは、目の前の男であることには変わりない。負け犬の遠吠えと大差ないのはわかっていたが、訴えずにはいられなかった。
「大事なものを守れないのは、能無しで甘い自分のせいでしょう。正しく目的を果たすなど、所詮は綺麗事。成し遂げたいことがあるのなら、どんな手を使ってでもすべきです。そういう点では、龍水様は王に相応しい」
「龍水様が奴隷船で妓生になにをしたのか、知っているんでしょう? それでも龍水様が国王に相応しいだなんて、私は思えない」
「奴隷船での資金調達は、陽煌国の軍を上回るほどの兵を雇うためです。そのために、自国の民すら利用する。人間は万能ではないのです、そのくらいしなければ願いは叶わない。それができないのは、自分が可愛いから。その手を汚す覚悟がない弱虫だからです」
歪んでいる。私たちの価値観は相容れないほどに食い違っている。もはや自分の考えを押しつけたところで、彼の心にはなにも届かないだろう。
ああ、ぜんぶ夢ならよかったのに……。
「手を汚す覚悟? 自分の我儘を正当化するんじゃねえよ」
地を這うような低い声が割り込んできた。
振り返った寸さんの背後には、私の危機を何度も救ってくれた彼がいる。その姿を目にした途端、生温かい雫が頬を伝っていき、何度も何度も肌を濡らした。嗚咽に邪魔されながら「龍、焔……」と名を口にすると、彼は柔らかく目を細める。
「よう、蘭。遅くなって悪かったな」
「あなたって人は……また、無茶をして……」
「それはこっちのセリフだ。まあ、蘭のおかげで叔父上たちの魂胆がはっきりしたがな」
龍焔は口端を吊り上げ、剣の柄頭に手をかけながらこちらに歩み寄る。
「手を汚す覚悟がないのは弱虫だ? 正しさを曲げてまで、自分の我を通すことのなにが覚悟だ。それはただの我儘っていうんだよ」
「あなたは親友の委安さんが龍水様に殺されたことに気づいていたから、私の身辺を探っていたのでは? 仇がわかっていて討たなかったのは、家族の情を捨てきれなかったからでしょう。それでまた、あなたは大事な者を失う」
寸さんの手が私の肩を掴み、押す。
私は「くっ」と歯を噛みしめ、その場に踏ん張るが、仰け反った上半身はすでに崖の向こう側に飛び出していた。
「寸……さんっ、私はつらいとき、あなたがそばにいてくれてるって思ったから、頑張ってこれたんです。なのに……っ」
どうして、私を裏切ったの? 委元だけでなく、私も寸さんを信じていた。心の拠り所でさえあったのに。
今でも頭のどこかで、全部嘘なのではないかと思っている自分がいた。
「蘭!」
龍焔が駆けてくるのが見えたけれど、寸さんが私を突き落とすほうが早かった。
涙の粒と髪が宙に吸い込まれるように浮き上がり、身体がゆっくりと後ろへ傾く。
ここで、死ぬのかな――。
寸さんは、こちらを無表情で見下ろしている。最後まで情を見せてくれることはなかったな、と自嘲的な笑みがこぼれた。そのとき、私に向かって飛び込んでくる誰か。
「死なせてたまるか!」
両腕を伸ばして、私を強く胸に引き寄せたのは龍焔だった。
簡単に命を投げ打ってはいけない人なのに、私のためになんでそこまでするの――。
いつもなら、王子がなんて真似をしたのと怒るところだ。それができなかったのは、今が危機的な状況だからではない。裏切りばかりの世界で、このぬくもりだけか初めから真実だったのだと、ようやくわかったからだ。
――ジャボーンッと、大きな水しぶきとともに島を囲むように広がる海の中へ沈む。
海面に打ちつけた背が痛い、水を含んでいく服は重たく、息もできない。頭がぼんやりとする。次第に水の冷たさもわからなくなっていく中、私を離さまいと背中に回った腕の力だけは最後まで感じていた。
初めに感じたのは全身に走る鈍い痛み。次に、まるで海に揺蕩っているかのような揺れ。私は鉛のように重い瞼を気力だけで持ち上げる。目の前には見覚えのない天井。視線を横にずらせば、窓から日の光が降り注いでいる。
強い潮の香りが鼻腔を掠め、私はここが船内であることに気づいた。
「あ……私、生きて……る?」
腕を上げて両手を見つめると、「身体は平気か?」と声がした。足音が近づいてきて、龍焔が上から顔を覗き込んでくる。
「龍焔こそ、平気ですか? 私たち、崖から落ちたはずじゃ……」
「ああ、落ちたぞ。けど、砂浜まで自力で上がって、船が泊ってたから拝借して島を出た」
「じゃあ、これがおばさんの船……」
酒場の女主人が、砂浜に繋いである船があると言っていたのを思い出す。
「小型船だが、結構早さは出るな」
ギシッと音を立てて、龍焔が私が横になっている寝台に腰かける。
「幸い、俺たちは怪我はしてねえみたいだ。その確認をするために、お前の服を脱がせた」
「そうですか、ありがとうございま……え?」
今なんて言った? 服を脱がせた?
鼓動が加速していき、私はどうか嘘であってと布団を軽く持ち上げる。濡れた服を乾かすためか、私は裸だった。当然、胸のさらしも外されている。
「あの、これは……」
見たよね、さすがに。龍焔のほうを見れずに固まっていると、ため息が聞こえてくる。それにいちいちびくびくしてしまう。
「お前は、女なのか」
「……、……、はい」
何度も口を開いては閉じ、ようやく肯定すれば龍焔は私に手を伸ばす。
嘘つきだと引っ叩かれるだろうか。
私は強く目を瞑ったが、頭に乘った重みに再び開眼する。鼻先がぶつかりそうな距離に、龍焔の顔があった。
「俺はもともと叔父上が謀反を企てているのを知っていた。寸もそれに加担しているだろうこともな」
どうしてこんなに近くに寄って話す必要があるのかは謎だが、私はなんとか返事をする。
「じゃあ、寸さんを追って仙に?」
「それと、お前の命が狙われているのがわかったからだ。試験生の肩書きを失ったお前を、叔父上は心置きなく排除するだろうからな」
「兆雲さんと明翼さんはどうしたんです? 側近を連れずに、ひとりで出歩いたんじゃないでしょうね」
自分の眉根が寄るのがわかる。私の顔を見た龍焔は「想像通りだ」と吹き出し、私の眉間の皺を指で伸ばした。
「医院に行ったんだが、すでにお前の姿がなかった。部屋も荒れてたからな、誘拐されたんじゃねえかと思って手分けして探してたんだよ。今は別行動になったが、なにかあったら花楽院で合流する手筈になってる」
「そうだったんですね……私、本当にバカだ」
龍焔は本当に私のことを心配してくれていたというのに、疑ったりして。
もし龍焔が助けに来てくれなかったら、私は今頃この世にいなかった。
「寸さんは私の心の支えだったんです。委元が死んだときも、試験生として都に来てからも、しがらみに囚われずに宮廷の医術を学んでほしいって言ってくれた。でも、私に王様が委元を殺した真犯人だって嘘を……ついてた」
怒りと悲しみで小刻みに震える声をごまかすように、ふうっと長く息を吐き出す。
「私はまんまと騙されてたんですね。ずっと隣に委元を殺した人間がいたのに、私はあなたを疑った」
「お前にとって寸が心の拠り所だったなら、そっちを信じるのは当然だろ。俺は妬けるけどな」
どこまで本気なのかわからない口調。私が気にしないように、わざとからかうような言い方をしたのだろう。
思えば、彼が私を咎めてくることはなかった。怪しんでいたはずなのに、命を狙われていると知って助けにも来てくれた。そんな龍焔だから、私はいつしか心を許していたのだ。
「言い訳させてください。途中から私は、民のために自ら剣をとる龍焔が委安さんを殺すはずないって、思うようになってたんです。信じる心を止められなかった」
龍焔の胸にしがみつき必死に言い募ると、こつんっと額が重ねられる。
「それは俺も同じだ。お前が寸と繋がっていると知って、間者として陽煌宮に来たんじゃねえかって疑ってた。けどな、患者に向き合うお前は確かに医者で、生きろと諭すお前に惹かれずにはいられなかったんだ」
目の前の金色の瞳に、私が映り込んでいる。彼の心にもそうやって、私という存在を置いてほしい。すべての疑念の糸が解けた今、答えはすぐそばにあったのに、あえて取りにいかなかった自分の気持ちを、言葉にする最後の勇気を必死に搔き集めた。
「私も……私も、あなたに惹かれています。あなたが政治的価値のある女性と結婚しなければいけないのはわかっているけど、でも……この気持ちだけは偽れません」
ようやく想いを外へ出すことが許され、胸が軽くなった気がした。心の枷が外れ、湧き水のごとくあふれる感情をそのまま言葉に乗せる。
「あの日、北山で龍焔が言いかけた言葉の続きを聞かせてもらえませんか? もし、心変わりしていないのなら……ですが」
男だろうが、女だろうが、関係なく。『お前自身が俺にとって――』のあとに紡がれるはずだった想いを知りたい。
あのときは、その先を聞いてしまったら、もう二度と彼を疑えなくなる、彼が向けてくれる感情は委元の悲願を叶える道の妨げにしかならないと思って逃げてしまったけれど、もうぜんぶ受け止めたい。
「ほっとけねえ、が守ってやりたいに変わって。性別も立場も関係なく、お前自身が俺にとって大事な存在になってた。あのときも、今もこの気持ちは変わらねえよ。それに、お前以外の女と結婚するつもりはない」
「龍焔はそう思ってても、政務官や王様は納得しないのでは?」
「俺は王になって、身分制度を撤廃したいんだ。そのために動いてきた。なら、俺たちから、そのしがらみを壊すのが物の道理ってもんだろ」
熱い息が唇にかかり、龍焔の顔が傾く。
柔らかなそれが重なる間際、「好きだ」と甘く囁かれた。恋愛は遊び、結婚は契約。彼の価値観を少なからず自分が変えたのだとわかり、幸福の渦に飲み込まれていくようだった。
私たちは夢中で口づけを交わし、体温を分け合い、心を分け合った。名残惜しく思いながらもそっと離れると、私は照れくささを隠し切れずにはにかむ。
「好きです、私も」
ひしっと彼の首に抱き着けば、咳払いが聞こえてくる。
「お前に抱き着かれるのはうれしいんだがな、この体勢はいろいろと形がわかっちまう」
「……は?」
いろいろと、形がわかっちまう?
突拍子もない発言に思考が一瞬止まったが、すぐに彼の言わんとすることに見当がつき、ふつふつと怒りが込み上げてくる。
「ま、俺としては、このまま情事に励んでも――」
「私の着替えはどこに?」
ドンッと龍焔の胸を突き飛ばせば、苦笑が返ってくる。
「外で乾かしてんだよ。ちょっと待ってろ」
すんなりと私から離れて、龍焔は船室を出ていく。少しして戻ってきた龍焔から、天日干しで太陽の匂いをたっぷり吸いこんでいる着物を受け取る。
私はその場に居座ろうとした龍焔を無言の睨みで追い出し、着物に身を包んだ。
「服、海に浸かったわりに完全に乾いてますね。私、どれくらい寝てたんでしょうか」
着替え終わり部屋を出ると、船首に立っていた龍焔の隣に並ぶ。周囲に山も港も見当たらない。随分、沖に出たようだ。空の色を映したような青い海が、太陽の光を浴びて白く煌めきながら揺れていた。
「丸一日だな。お前を陸まで引き上げたはいいが、身体が物凄く冷え切っててな。なかなか目も覚まさねえし、肝が冷えたぞ」
「そうだったんですね……助けてくれて、ありがとうございます」
改めてお礼を口にすると、頬に龍焔の手が添えられる。
「死なせるつもりはなかった。助けたのは俺のためだからな、礼はいらない」
「はい……でも、やっぱりありがとうございます。その言葉に幸せな気分にさせていただきましたから」
「お前は……はは、普段は男勝りなのにな。ふいうちに見せる素直な言葉と仕草は、妙に男心をくすぐる」
唇が頬に押しつけられ、くすぐったい気持ちになった。身を捩るも、龍焔の両腕に閉じ込められて動きを封じられる。
「あと三日は船旅になる。食料はこの船の持ち主が積んでたものでなんとかなりそうだ。陸についたら、なるべく人目につかねえように花楽院に行くぞ」
「はい……。でも、花楽院に着いてからはどうするんです? 龍辱様たちの謀反を止めるんですよね?」
奴隷船での資金調達は失敗に終わったものの、陽煌国の軍を上回るほどの兵を雇うために他の策を講じていることだろう。兵力さえ整えば、陽煌宮は内から外から龍辱様たちに乗っ取られる。
「ああ、その策はすでに考えた。詳しくは花楽院に着いてからだ」
「わかりました……あ、そうだ」
私はなんの証拠になるかはわからないが、首から下げていた薬箱を開ける。そこに入っているのは道具箱に隠されていた【血の契りをもって、我らが主に忠誠を誓うことをここに証明す】と書かれた例の書状だ。龍焔になら託しても大丈夫だろう、と書状を差し出す。
「これ、委元が掴んだなにかしらの証拠だと思うんです。ただ、この書状がなにを示したものなのかがわからなくて……」
食い入るように龍焔は書状を凝視していた。
「血の指印、銀箔が混じった印……でかしたな、蘭」
顔を上げた龍焔は、形のいい唇に強気な笑みをたたえる。
「いいか、この龍の印は王族が承認した証だ。金箔が混じったものは国王の王印、銀箔はその次に権力を持つ者に送られる印。つまり、王弟の叔父上の承認印。ここに名を連ね、血の指印をした者は叔父上に忠誠を誓い、血の契り――謀反に加担するという誓約を交わしたことになる」
「じゃあ、この書状は……謀反の密書!」
だから委元は肌身離さず持っていろ、と私に言ったんだ。でも、この書状の意味がわかっていたなら、寸さんが裏切り者であることも知っていたはず。
「まさか……それであの日、委元は私にこの書状を託したの?」
「どういうことだ?」
「委元が死んだ日は、私の誕生日だったんです。そのときに贈られた道具箱の中に、この密書が隠されてた。そのすぐあとに寸さんが医院を訪ねてきて……。委元は自分が殺されるってわかってたから、この密書を私に……」
それだけではない。寸さんが一緒に酒場に来ないかと私を誘ったときも「ダメだ」と即答した。あれもきっと、私を危険に巻き込まないための行動だったのだろう。昨日まで気づかなかったなんて、自分の鈍さには嫌気が差す。
「私だけが、なにも知らずに呑気に暮らしてたんですね……」
「お前がなにかを知っているとわかれば、寸はお前を拷問してでも掴んだ証拠について聞き出そうとしたはずだ。実際、寸から探りを入れられなかったか?」
「そういえば……」
委元の葬式の日、寸さんから『委元先生のご家族のことは、どこまでご存知ですか?』と尋ねられたことがある。急になんでそんなことを聞くのだろうと思ってはいたが、私に探りを入れていたのなら腑に落ちる。
「委元がなにも話さなかったのは、お前を守るためだ。情報を持てば持つほど、危険は高まるからな。だが、守るだけでなくお前を信じていたのもまた真実だろうな」
「信じてた?」
「お前なら真実に辿り着くってな。それを想定していたから、その密書を託したんだろ」
確かに守りたいのなら、危険を引き寄せるだけの謀反の密書なんて、普通は渡したりしない。
「委元は私がいずれ、王を導く光になるって信じてた。炎龍が私と委元を引き合わせたことにも、きっと意味があるんだろうって……」
委元はこの陽煌国を正しく導いてほしいと、そう願っていたのかもしれない。
託された想いの重さをしっかり胸に刻んでいると、龍焔が不思議そうに首を傾ける。
「炎龍が引き合わせた?」
「あ……」
私はもうひとつ、自分の秘密を打ち明けていなかったことを思い出す。話したところで信じてもらえるか否かは定かではないが、私は後ずさりしそうになる気持ちに鞭を入れ心を決める。
「実は……」
炎龍に導かれて、こことは全く別の世界から陽煌国にやってきたこと。そのときの反動なのか、外見が実年齢より若返っていることを伝えた。
事の顛末を語り終えると、瞬きもせずに黙って耳を傾けていた龍焔が目を閉じる。
世迷言、夢物語だと批判される覚悟はできている。じっと彼の瞼が開かれるのを待った。長い沈黙の末、ゆっくりと朝日が昇るように金の双眼が顔を出し、私をまっすぐ見据える。
「やっと見つけた、俺の光――」
強く、その鍛え上げられた硬い胸に引き寄せられる。どこへも逃がさないとばかりに、しっかりと腕が背中と腰に回った。
「こんなに近くにあったとはな。存外、俺は鈍い」
「急に、なんで抱き着くんですか! というより、私の話に反応してください。イカれてるとか、思いません?」
「それを言うなら、俺もイカれてることになるぞ」
「それはどういう……」
意味です?と尋ねようとしたのだが、龍焔は私の言葉尻を捕らえるように告げる。
「物心ついたときから、俺の夢には炎龍が現れていた」
赤き龍、夢に現る時。
それ即ち、王誕生の吉兆なり。
選ばれし者、災厄降りかかる時。
光を遣わし、王を導く。
夢に姿を現したのなら、王になるのは龍焔だと炎龍が認めたということになる。
民を道具として切り捨てる龍水様とは違い、民がどんな身分であろうと慈しむ龍焔こそ、伝説がなくとも王になるべきだと私も思った。
「父上も王位継承の次期になると、一度だけ夢に現れたと言ってたんだが、俺みたいにそう頻繫に、それも幼い頃から炎龍の夢を見たことはないそうだ。それだけ、俺が王になる陽煌国は荒れるんだろう。もしくは、今がその災厄が降りかかるときなのかもな」
「謀反、ですね。それが成功してしまえば、この陽煌国は永遠に太陽の昇らない地になってしまう」
誰もが生まれてきたことを嘆くような世界。前に奴隷船で出会った妊婦のことが頭を過ぎる。賤民の就ける職は限られ、身体を売り金を稼ぐしかなかった。どんなに正しく生きようと本人が願っても、世界がそうさせてくれない。生まれてきた子も、そのまた子供も、まるで呪いのように付き纏う身分。今は宮廷医の参加資格から身分が撤廃されたことといい、少しずつ差別も緩和されてきてはいるが、龍辱様や龍水様が国の舵をとるようになれば水の泡だ。
「だから、ずっと待っていた。国王に選ばれた俺に降りかかる災厄を、ともに振り払ってくれる光を――」
「今なら私のすべきことがはっきりわかります。この手の届く範囲にある命を医術で救い、謀反を食い止める。それがきっと、陽煌国の未来を守ることに繋がると思うから。一緒に乗り越えましょう」
「ああ、お前の心の真っ直ぐさが、俺にどう民を導けばいいのかを教えてくれる。道標になるんだからな」
この先、なにが待ち受けていようと離れない。そんな気持ちに比例して、自然と両手を握り合い、指を絡めて固く繋ぐ。
お互いの距離が近づき、愛しい人の顔だけが視界を埋め尽くすと、潮風すら入る隙間なく唇が重なった。
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