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▼一章「旅立ち」
私が飛ばされてきた陽煌国は年中暖かく、大陸の西にある大国だ。絹織物が有名で、身分が高い者は鮮やかな金糸の刺繍が施された着物を身に着けている。
この大陸には、他にも女王が治める東の月栄国(げつえいこく)、極寒の北の地にある雪華国(せっかこく)、南の砂漠の国、砂羅(しゃら)がある。そして、陽煌国の最果てともいわれる、この仙の島は……。
「ち、近寄るなーっ。動いたヤツは、片っ端から斬る!」
流刑に処された陽煌国の罪人が溢れかえるほどやってくる。
「委元……」
島の海岸沿い。私は目の前で島の人たちに囲まれながら、怒鳴り散らしている男を見て、思わず委元の背に隠れる。
この世界は私のいた世界とは違って、簡単に人の命が奪われる。スリに遭おうが、人が死のうが、この世界の警察――警安庁(けいあんちょう)の警吏は『民のいざこざにまで、いちいち首を突っ込んでられるか』と言って動かない。人権も善悪もへったくれもない。私の当たり前が通じない世界なのだ。正直、陽煌国に来て最初に見つけてくれたのが委元でなかったら、私は今頃、辱められたあと、女郎屋に売り飛ばされて妓生(きしょう)にさせられていたかもしれない。運がよかったのだ。
「暴れるな、傷が開くぞ」
委元の声で我に返る。罪人の男は流刑に処された際に斬られたのか、脇腹から血が流れていた。
「治療を受ける気があるなら、ついてこい」
それだけ言って背を向けた委元。罪人の男は唾をまき散らしながら叫ぶ。
「その言葉を真に受けて、のこのこついていくわけねえだろ!」
「ならば、そこでのたれ死ぬか? 俺は止めん。治療を待つ者は大勢いるからな。俺は生きる意思のある者を優先する」
委元はそう言って、家――仙唯一の医院に向かって歩き出す。そう、委元は医者だ。委元のところに身を寄せることになって一週間、患者から聞いた話なのだが、委元はかつて宮廷医だったらしい。国王の治療を許されたほどの名医だったとか。なのに、どうしてこんな辺鄙な島で医者をしているのか。前に理由を聞いてみたのだが、『知る必要はない』と言われてしまい、教えてはもらえなかった。
「委元、あの人ついてきてないみたいなんだけど……」
後ろを振り返りながら、少し前を歩く委元に声をかける。
「生きるか死ぬか、選ぶのは自分だ。この島に医者は俺しかいない。助けられることに意地を張り、人を信じられない人間に割く時間などない」
委元は前を向いたままそれだけ言うと、医院に入り患者を診察し始めた。
「蘭、鍼を持ってこい」
患者のそばに腰を落とした委元は、立ち尽くしていた私をちらりと見る。
助けられることに意地を張り、人を信じられない人間に割く時間などない……か。
ここで委元を手伝っているからこそわかる。毎日、湧き水のごとく患者はこの医院に助けを求めてくるのだ。その治療に追われて、委元も私もまともな睡眠なんてとれていない。
確かに、あの罪人を説得して治療を受けさせる時間はないのかもしれないけれど……。どうしても気にかかる。このまま見殺しにしていいのかと、心が訴えかけてくる。
「蘭、早くしろ」
「あ、はい!」
委元に急かされて、私は医院の棚から鍼を取り出す。
「いててててっ」
患者は胃の辺りを押さえている。おまけに冷えるのか、手足をしきりにさすっていた。
「委元、温湿布と巡芍薬散(じゅんしゃくやくさん)でいい?」
前にも同じ症状を訴えていた患者がいた。そのときに治療で使っていた物を思い出しながら口にすると、委元が目を見張る。
「なぜ、そう思った」
「え? 前に委元がそうしてたから……」
「お前の見立てを言え」
「それって、私に診断しろって言ってる? そんな、無理だって。私は医者じゃな……」
「いいから答えろ」
委元は強い口調で、私の言葉を遮る。
うっ……委元って、普段は寡黙なのに医術のことになると口うるさいんだよね。私は肩をすくめながら、素直に答えることにする。
「生ものとか、冷たいものの過食で胃の機能が抑制されて起こる……痛み?」
この世界の医術は、私の世界にあったものとは違って、鍼と薬草を使う東洋医学に似ている。病気はエネルギーの巡りが悪いと起こると考えられているのだ。
「だから胃の辺りを温めて、血の巡りをよくする薬と、ツボを鍼で治療してあげれば治る……かと」
自信がなくて、語尾が萎む。もともと医者になりたかったからか、無意識に委元の医術を暗記しようとしている自分がいた。
でも、見聞きしただけだ。基礎もわからなければ、当然鍼も打てない。しいてできることとしたら、薬の調合くらいだろうか。昔から物覚えだけはよかったので、棚に入っている薬草の種類と位置は把握済みだ。
「……どの経穴(けいけつ)を治療する」
委元の試すような目が私を捉える。思わずごくりと息を呑み、私は記憶を辿りながら鍼で刺激するツボ――経穴をあげる。
「えっと……おへそから指四、五本くらいのところと……」
「中脘(ちゅうかんだ)」
「あと、膝の外側の窪みの少し下……」
「足三里(あしさんり)」
「それから……」
私は経穴の部位をすべて答えた。
委元はじっと目を閉じて、長い息を吐く。
「巡芍薬散に使われる薬草はなんだ?」
「えっと、露花(ろか)、赤技(あかぎ)、伏寿草(フクジュソウ)。それを煎じて飲ませるんだよね?」
「一度見ただけで覚えたのか」
「覚えるのは得意だけど、実際やるのでは勝手が違うから……」
私は苦笑いしながら、薬草や温湿布を用意する。それっきり委元は黙り込んでしまい、治療中も難しい顔をしていた。
夜、私は薬草や清潔な布、水の入った桶を手にこっそり医院を抜け出した。
昼間に会った罪人の男を手当てするためだ。
委元にバレたら、絶対に怒られる。医者じゃない私にできることなんて限られてるって、わかってはいるけど……。
委元を手伝っている間も、あの罪人の男のことがずっと気にかかっていた。あのままでは必ず死ぬ。それがわかっていて見殺しにするのは人として、してはならないと思った。
「でも、委元は怒るだろうな」
海岸にやってくると、私は砂浜に倒れている罪人の男を見つけた。
「嘘……」
もしかして、もう手遅れ?
微動だにしない身体を目にして、血の気が引く。思わず駆け寄って行灯を砂浜の上に置き、私は罪人の男のそばに膝をついた。
「私がわかる!?」
呼びかけるも、罪人の男は返事をしない。その服に手をかけて捲り上げると、腹部に切り傷がある。
「服が血で湿ってる……傷が塞がっては開いてを繰り返してるんだ」
男の服を掴む手が、カタカタと震えだす。
薬草だけで助かる怪我でないことは、素人の私にもわかった。だけど、そう頭では理解していても、なにもせせずにはいられない。それは、私のエゴ?
「自己満足で助けたいのならば、手を出すな」
「え――」
声が聞こえて顔を上げると、前から委元が歩いてくる。
「どうして……」
委元が眠ったの、ちゃんと確認したのに。
私の動揺を見透かしたような委元の目が厳しさを宿し、すっと細められる。
「今日一日、お前は心ここにあらずだった。あの男のことが気にかかっているのだろうとは思っていたが……案の定だな。こそこそと医院を抜け出しおって」
委元は私の前に立つ。その手には鍼が入った木箱がある。
「委元! その鍼、この人を助けてくれるの!?」
「勘違いするな。俺は手は出さん」
「え……」
「助けたいのならば、お前がやれ」
「なに言って……む、無理だよ! 私は医者じゃない!」
「ならば捨ておけ」
切り捨てるように言った委元。貧しくても、無償で治療することもあった委元を私は尊敬していた。なにより、身元不明な私の衣食住の面倒を見てくれていることも感謝している。それなのに、どうして……。
「どうして、委元はこの人を助けないの? 医院の患者は無償でも見るのに! 罪人だから? だから見殺しにするの!?」
自分で助けることはできないくせに、勝手なことを言っている自覚はある。
だけど、助ける力があるのに、そうしないことに納得ができないのだ。
「医者は神ではない。薬にも限りがあり、この身ひとつで救える命など限られている。だから俺は、身の丈にあった治療をしているだけだ」
「でも――」
「なんでも救えると思うな」
委元は私の言葉を遮った。
「その力量もないのに一度に多くを救おうとすれば、命はその手からこぼれ落ちる。だから俺は、生きる意思のある者を救う」
私は綺麗事ばかりを口にしていたのだろうか。間違っているのだろうか。
委元はこれまで多くの患者と向き合ってきたんだろう。だからこそ、少しの迷いもなく言い切れる。でも、私は実際に患者を救ったわけじゃない。それなのに、根拠もなく救って当然だなんて、口にしてもいいのだろうか。
ここは私のいた平和な日本とは違う。誰もが当たり前に治療を受けられて、住むところに困れば生活を保護してくれる制度もない。
選別し、選択しなければならない。誰を救い、誰を見捨てるのか。頭ではそう理解している。だけど、やっぱり私は……。
「ただ、あくまでこれは俺の辿り着いた信念だ。蘭、お前が俺と同じ考えを持たなければならないわけではない」
「え?」
「お前が正しいと思うことをしろ。そのために力が必要ならば、手に入れるのだ」
自分が正しいと思うこと……。私は目の前で血を流し、倒れている罪人の男を見下ろす。
この人を助けるためには、力がいる。委元が生きる意思のないものを助けないと言うのならば、私は――。
「委元、私に医術を教えて」
まっすぐ、委元を見据えてそう言った。
「それは自己満足のためか? それならば、やめておけ。命に触れるということは、覚悟と責任が伴う」
命を預かるということ。それは委元の治療をそばで見てきたからわかる。自分可愛さに人を助ける。そんな生半可な気持ちなら、医術に携わる資格なんてない。
「私、今までずっと逃げて生きてきた」
医学部に行けなかったことを父親が亡くなったせいにして、年齢のせいにして……。
次々と夢を叶えて結婚し、輝かしい未来を手に入れている高校の同級生たちと自分を比べて、惨めだなって落ち込むばかりだった。
「逃げる理由を探してた。挑戦する勇気がなくて、知らない世界に飛び込むことが怖かったの」
今さら、なれるかどうかもわからない夢に向かって踏み出して、医者になれなかったらバカにされるんじゃないか。そんなことばかりを考えて、私は最初に医者になりたいと思ったときの気持ちを忘れていた。
私が医者になりたかったのは、病気で亡くなったおばあちゃんがきっかけだ。
余命三ヵ月。おばあちゃんがなにで苦しみ、どうされたら楽なのか、私にはなんの知識もなくて、おばあちゃんのためになにをしてあげたらいいのかわからなかった。
だから知りたい。その人が言葉にしないSOSに気づけるように、医者になるんだ。
そのときの情熱が、ようやく蘇ってくる。
「多くは望まない。私は、私の手が届く範囲で、救える命があるなら見捨てない。委元が私を見捨てなかったように」
「俺……?」
「委元は川辺で倒れてる私を見て見ぬふりして、捨て置くことだってできた。でも、そうしなかった。私は委元みたいにどんな辺境の地でも、自分の力量をちゃんと見極めて、その上で患者と向き合う。そんな医者になりたい。だから、その術を授けてください、師匠」
私は深々と頭を下げる。もう決めた。自分の境遇は言い訳にしない。この罪人の男の命と自分の体裁。どちらが価値あるものかなんて、考えるまでもない。心が固まるのと同時に、頭上からため息が降ってくる。顔を上げると、目の前に委元がしゃがみ込んだ。
「生半可な気持ちで進める道じゃないぞ」
「――は、はい!」
「鍼を持て」
私は言われるがまま、鍼を持つ。
「親指と人差し指の間、その付け根が合谷(ごうこく)だ。その経穴は痛みを緩和する麻酔の効果がある。そこに打て」
私は言われた通り狙いを定める。けれど、手が小刻みに震えて、なかなか打てない。
見かねた委元が「しっかりしないか!」と叫んだ。
「……っ、すみません」
「誰に謝っている。お前が謝罪すべきは、俺ではなく患者だ。お前が手を止めただけ、患者の苦しみは長引く」
――そうだ。委元……師匠の言う通りだ。
私は深呼吸をして、しっかり鍼を握り合谷に刺す。
「いいか。俺は鍼や灸、薬草を使った従来の陽煌国の医術とは違う方法で治療する。長年、患者を治療してきて、これが最善だと考えた医術だ」
「はい、教えてください」
私は委元の声に耳を傾ける。
「麻酔で痛みを取り、傷口を洗浄する。それから柴生膏(しせんこう)を塗布しろ」
「はい。邪気を鎮め、消炎、鎮痛、皮膚の再生を促す作用がある紫根(しこん)、東帰(とうき)、ゴマ油、豚脂(とんし)の薬草を豚油に混ぜ込んだものですね」
「……お前は一度見たもの、聞いたものを記憶できるようだな」
「え?」
「俺の記憶している限り、この柴生膏の作り方を話したのは一度だけだ」
前々から記憶力はいいほうだと思ってたけど、言われて初めて自覚する。
確かに、読んだ本、聞いた会話は一言一句違わずに覚えられた。それがこんなふうに役立つだなんて、思わなかったな。
「この術式も、その脳に叩き込め。その才能は、天から授かった宝だ」
「はい!」
私は桶の水で男の傷口を洗う。それから、柴生膏を塗った。その間に委元は針と糸を手に取り、私をちらりと見る。
「これから縫合に入る。しっかり患者の手足を押さえておけ」
「え……麻酔をしてるのに、ですか?」
「先ほどの鍼は痛みを緩和できるだけだ。完全に取り除けるわけではない」
痛みを完全に取り除けたわけじゃないのに、皮膚に針を刺すだなんて、正気なの?
信じられない気持ちで委元を見る。でも、彼の視界には目の前の患者しか映っていない。
「俺の手技を見ておけ」
罪人の男に馬乗りになって、足の動きを封じた委元。私もその腕を押さえると、委元は皮膚を縫合し始めた。
「ぐあああああっ」
男が力の限り暴れる。私はその勢いに負けて、後ろに突き飛ばされた。
「いった……」
「なにしてる! 縫合中だぞ、ちゃんと押さえておかんか!」
「すみません!」
委元から怒号が飛んできて、私はすぐに男の腕を押さえ込んだ。その拍子に、男が私の手首に噛みつく。
「ぐっ」
歯が皮膚に食い込み、血が手首を伝って流れていく。私が感じている以上の痛みに、この人は耐えているんだ。そう思ったら、こんなことくらいで音は上げられない。
委元は患者が暴れても、表情ひとつ変えずに手を動かしていた。
「よし、変われ」
途中まで縫合が終わったときだった。委元が私を顎でしゃくって見せる。
「そんな……縫合を、私が?」
「ひとりでも多く治療しろ。そして、ものにしろ。その技で次の患者を救えるように」
この機会を無駄にしちゃだめだ。私は患者に手を合わせて拝む。
――ごめんなさい、それから感謝します。私に救うための技を授けてくれるあなたにも。
私は委元と体勢を代わり、針と糸を受け取る。ゴクリと唾を飲み込み、皮膚に針を刺す。
「うあああああっ」
悲鳴を耳にした途端、身体が硬直する。
止まるな、続けるんだ。私の迷いは、患者の痛みを長引かせるだけ――。
自分に言い聞かせて、針を進める。
皮膚はこんなにも弾力があるんだ。これが人の身体……。私は感覚を脳に、身体に刻みつけながら糸を引いて裂けた皮膚を縫合する。
「やめてくれえええっ、殺してくれえええっ、頼む!」
男の叫びに何度も手が止まる。目に涙がジワリと滲んで視界がぼやけたが、瞬きをして傷口に集中する。
「頑張って、私も頑張るからっ」
怖い、逃げたい、代わってほしい。
いろんな感情があふれて、思考を埋め尽くそうとする。だけど――死なないでほしい。だから私は、すべての音を遮断する。意識の海に沈み、皮膚を繋げることに集中した。
やがて、縫合を終えると糸を切る。その音で我に返った私は、針を箱に戻して放心する。
「終わった……?」
視線を落とすと、罪人の男は痛みのあまり意識を失っていた。
私はゆっくりと男の身体から降りる。
「手間取ったが、初めてにしては上出来だ」
その委元の言葉を聞いた瞬間、私はその胸に飛び込んだ。
「ううっ、怖かったっ」
限界だった。治療中だからと張っていた気が一気に切れて、涙も震えも止まらない。
委元は、私の背中をぽんぽんと撫でる。
「お前は今まで見てきた教え子の中で、いちばん肝が据わっている。初めて外科手術をしたというのに、最後まで手を止めなかった」
「でもっ、何度も逃げたいって思ってました」
「それでも逃げなかった。患者に向き合うことをやめなかっただろう」
いつもは厳しい委元の声音が柔らかい。だからか、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。
師匠、私……頑張るから。
言葉にするだけなら簡単だ。だから、この決心が口先だけでないと伝わるまでは、胸の内で気持ちを吐露することにする。
あの世界で諦めた夢をもう一度、この世界で叶えるから。私が委元の弟子だって胸を張って言える日まで、ずっとそばで見てて――。
***
――三年後。
「げほっ、げほっ……さ、寒い……」
激しく咳込む男性患者を医院の布団に寝かせて、私は鍼を持つ。患者の喉仏から指を下にさげていくと、胸骨に当たる。そこにある窪みが咳を和らげるツボ、天突(てんとつ)。
私はふうっと息を吐いたあと、迷わず天突に鍼を刺入する。それから、気管支を広げて喘息(ぜんそく)の症状を和らげる薬草を煎じて飲ませた。
「ああ、やっと咳が落ち着いた」
疲弊を滲ませた表情で、男性患者が上半身を起こす。私はその背を軽く叩いた。
「もうっ、陽煌国は暖かいけど、海に飛び込んだりしたら身体は冷えるの。温度差の刺激は症状を悪化させる要因になるんだから、もう絶対に度胸試しなんてしないで」
「悪かったって。それにしても蘭ちゃん、委元に似てきたんじゃないか?」
「どういう意味?」
「気が強……いや、医女としての風格が出てきたよ、うん」
気が強い、ね。罪人だらけのこの島で三年も生活していれば、神経図太くもなる。
「道を歩けば睨まれて、毎回毎回、金を寄越せだの、女として奉仕しろだのと囲まれれば、誰でもこうなります。皆さんの洗礼の賜物ですね」
にっこりと笑って嫌味をぶつければ、医院にいた患者たちが揃って視線を彷徨わせる。喘息を起こしていた患者も口が滑ったとばかりに青い顔をしていて、私はため息をつく。
寒さが原因で起こる喘息――この世界では寒証(かんしょう)と呼ばれる病にかかっていた男性は、鍼と薬草ですっかり元気を取り戻している。もっと反省してほしいものだが、彼はこうして何度も同じ症状で医院に助けを求めてくるのだ。
「もうすっかり、立派な医女だな」
「この島は罪人の集まりだってのに、物怖じしないしな。仙の島は安泰だよ」
別の患者が次々と話しかけてくる。
最初はよそ者の私を警戒している様子だったけれど、もうすっかり打ち解けた。
「委元もいい歳だからな。みんな、誰がこの島で唯一の医者の跡を継ぐのか気がかりだったんだよ」
あれから日本に帰れず、今日で十七歳になった私は野地ではなく紅葉の苗字を名乗って、この医院で医者――正確には医女をしていた。
陽煌国では女は医者になれないらしく、なれるとしても医者の助手である医女が限界だ。
でも、この仙の島では私が女であろうと医者と同じように頼ってくれる。私はまだまだひよっこだけど、委元にもしなにかあったら、この医院は必ず私が守る。島の人たちのためにも、医術を授けてくれた委元のためにも。
お昼になると、いくらか患者が落ち着いた。
私は仕事の合間を見て作った鶏肉とにんじん、もち米やくるみ、ニンニク、松の実を煮込んだ薬膳料理を丸テーブルに並べていく。委元の大好物なのだ。
「委元、早くこっちに座って」
居間に戻ってきても、患者の診療録に目を通している委元に呆れつつ声をかける。
でも、委元は診療録から顔を上げない。
「もう少しで終わる」
「そんなこと言って、いっつも食べるの忘れちゃうでしょ!」
私は委元の手から診療録を取り上げると、その手を掴んで食事の席に無理やり座らせた。
「せっかく、ふたりでご飯食べられるんだから、こういうときはちゃんと家族の時間を大事にして!」
「……ううむ、それをよく華閔(ふぁみん)にも言われたな」
渋い顔をした委元の口から出た名前。華閔、それは委元の奥さんだ。理由は教えてくれなかったのだが、十年前に亡くなったのだとか。
懐かしさと切なさが複雑に入り混じったような声で華閔さんの名前を呼んだ委元に、胸が締めつけられる。
「さ、食べよう!」
気を取り直すように、私は明るくそう言って委元に匙を持たせた。一緒に昼食をとっていると、向かいに座っていた委元がぽつりと呟く。
「蘭、今日で十七になるな」
「うん」
たぶん、肉体のほうは今日で十七歳になる。あの日、陽煌国に来てすぐに姿見で確認した自分の姿は、十四歳くらいだったから。
とはいえ、ここには正確な年齢を証明する保険証などの証明書はない。だから、確かめようがないのだけれど。
「いつも、これから十年、二十年先……大人になったお前を想像していた」
本当は三十五歳なんだけどね。
二度目の人生を歩んでいる気分だ。
「未来の自分かあ。私、委元みたいになってるかも」
「どういう意味だ?」
訝しむように片眉を上げる委元に、私は苦笑いする。
「今日、患者さんから言われたの。委元に似て気が強くなってきたんじゃないかって」
「ああ、それはあるかもしれんな」
「えー……私、そんなに怖いかなあ?」
自分じゃわからないが、島の人に揃って言われるのだからそうなのだろう。
でも、みんなもみんなだ。この島の人たちは荒くれ者が多いせいか、デリカシーがない。私の前で平気で服を脱ぐし、男気があるだとか、勇ましいだとか言うし……。もはや、女として認識されてないのかもしれない。
唇を突き出して頬杖をつく私を見て、委元は目元を和らげた。
「蘭、健康とはなんだ」
委元の唐突な質問に、私はぽかんと口を開けたまま呆ける。
「え、なに? 急に」
「いいから、答えてみろ」
「う、うん……」
この世界では生命力を表す『気(き)』、栄養を運ぶ血液の『血(けつ)』、血液以外の体液を指す『水(すい)』がバランスよく巡ることが健康だとされている。
そして、邪気(じゃき)――菌やウイルスによって引き起こされた病も鍼や薬草でその巡りをよくすることで治ると考えられている。
「気、血、水が過不足なく巡ること……です」
「そうだ。俺たちはその巡りを整え、病が治るよう働きかける。だが、巡りを整えるだけでは治らぬ病もあるのだ」
委元の言う通りだ。鍼灸や薬草だけでは治せない病やかえって治りが遅くなる傷もある。私が初めて縫合を経験した、あの患者の傷がいい例だ。範囲の広い裂傷は自然治癒力を高めるだけでは不十分なのだ。でも、委元はこの世界ではあまり使われていない外科手術に近い治療も自己流ではあるが取得していた。
「身体に侵襲を加える医術を人はよしとしないだろう。いつか、お前の医術を見て、異端だと罵る者も現れるかもしれん。だが、お前はお前の信じた道を行け」
「委元……」
「もし外科手術が必要ならば、周りの声も目も意識から排除し、迷わずするのだ。ただ、己の成したいことだけを見つめろ」
私の師匠であり義父は、厳しい。
でもそれは、私の弱さが誰かの命を散らすことのないように、それで私の心が死んでしまわないようにするための優しさだ。
「委元、私は委元が……師匠が授けてくれた医術を信じてる。だから、誰がなんと言おうと迷わないよ」
きっぱりと言いきれば、委元はふっと笑みをこぼして立ち上がった。そばにある戸棚まで歩いていくと、中から朱塗りの小さな道具箱を取り出す。
「開けてみろ」
委元は私の前に道具箱を置いた。料理の器を端に寄せて、私は道具箱を引き寄せると、金色の取っ手に手を開ける。
なにが入ってるんだろう。
ドキドキしながら開ければ、中には新しい鍼とお灸の原料になる艾(もぐさ)に、燃え屑を入れる陶器などが入っていた。
「これ……」
「医者に必要な道具箱だ。鍼も灸も一通り揃っている」
「もしかして、誕生日だから?」
プレゼントしてくれたのだろうか。よく見れば装飾ひとつとっても繊細で、赤塗りもムラがなく値が張りそうだ。
「これ、高価なものなんじゃない? お金だって、切り詰めなきゃなのに……」
ここにある薬は、すべて山に摘みに行ったものだ。それ以外に必要なものは、月に一回やってくる商船を待たなければ露店に品物も並ばないので、買うことすらできない。
でも、この仙の島には十分な食糧や衣服、生活に必要なものがほとんどない。島の人も力を合わせて漁業や農業に力を入れているが、それでも次々と流刑に処された罪人やわけあってここへ辿り着いた者がやってきて追いつかないのだ。それなのに自分だけが高価な贈り物をもらうのは気が引けて、返そうと思ったとき――。ふと、委元の目が遠くなる。
「俺には十七歳の息子がいた。十年前に死んだがな」
「え……」
頭をがつんと殴られたような感覚に襲われた。委元に息子がいたことも、亡くなっていたことも、三年間一緒にいて初めて耳にしたからだ。それに、奥さんを亡くしたのも十年前だ。突然、ひとりぼっちになった委元の孤独を思うと、胸が詰まって言葉が出ない。
「息子にしてやれなかったことを蘭、お前が叶えてくれた。感謝している」
「委元……」
私は席を立つと、委元の前に立ち、その首にひしっとしがみつく。
あったかい……。もとの世界にいたお父さんとお母さんのことも大切だけど、委元も同じくらい大事な家族で、師匠だ。
「蘭、武器は肌身離さず持ち歩け」
「武器? ああ、医者にとって治療道具は武器と同じだもんね」
委元にくっつきながら道具箱を見つめていると、扉がノックされた。
「委元先生、失礼します」
どこか落ち着いた声が聞こえたあと、中に入ってきたのは三十代半ばくらいの男性だ。
深緑の髪の上から黒の冠帽を被り、青の光沢のある官服を身に着けている。
「ああ、寸(すん)か。わざわざ呼び出してすまない」
委元は知り合いなのか、男性を見てひとつ頷くと席を立って出迎えた。
「そちらは、文で話していた義理の娘さんですか」
男性の糸目がわずかに開かれ、翡翠の瞳が顔を出す。
「あ、初めまして。私は蘭です」
慌ててお辞儀をすると、寸さんは柔らかな笑みを頬に滲ませて軽く頭を下げてきた。
「私は簡(かん) 寸です。委元先生には、宮殿で本当にお世話になったんですよ」
「あ、じゃあ師匠の宮廷医時代からの知り合いってことですか?」
「師匠?」
目を瞬かせた寸さんは、説明を求めるように視線を委元に移す。
「俺のいちばん弟子だ」
「委元先生の……ですか!」
「まだまだ経験は足りんが、勘がいい。一度した施術は確実にものにしている。宮廷医にも引けをとらんだろうな」
唇で弧を描く委元に、寸さんは目を見張る。
「滅多に人を褒めない委元先生がそこまで絶賛するとは……よろしければ、蘭さんの施術を見学しても?」
「ああ、いくらでもいるといい」
興味津々な寸さんと誇らしげな委元を交互に見つつ、私は背筋を伸ばす。
期待してくれてる委元のためにも、頑張らないと。改めて気合を入れ直すと、私たちは医院の患者の診察を再開したのだった。
今日の診療を終えて、医院の出口で最後の患者を見送っていると、寸さんが私の方へ向き直る。
「蘭さんは医女では収まりきらないほどの腕前をお持ちですね。委元先生の治療を見ているのではないかと、錯覚しました」
「そ、そうでしょうか? 嬉しいです。だけど……この地で出会える症例は決まったものばかりです。そうなると、できる治療も限られてきます。私には圧倒的に経験が足りませんから、これ以上どう技術を磨いたらいいのか、わからないんです」
そう、最近ぶち当たっている壁だ。
この島の人たちに起こりやすい病は、あらかた治療できる。けれど、それ以外の病に遭遇したとき、私は対処できない。
「もっと学びたいけど……」
「そうですね。地域特有の風土病、山や森、海……環境によっても起こる病は違います。同じ土地に留まっていては、多くの症例は経験できない。それができるのは宮廷医です」
「それって、前に委元が就いてたっていう?」
陽煌国の王族が住まう宮殿お抱えの医者。知識としては知っているけれど、普通の医者とどう違うのだろう。
その疑問には、寸さんが答えてくれた。
「そうです。宮廷医は王族の治療を任され、他にも医術を必要としている村や町に派遣される。なので、いろんな土地のあらゆる病に触れる機会があります」
「へえ……」
興味がむくむくと膨れ上がる。けれど、寸さんは残念そうに肩を下げた。
「あなたが男性でしたら、宮廷医の試験を受けられましたのに……。実に惜しい」
「そう言えば聞こえはいいが、宮廷医など所詮は王族の犬だ」
委元は腕を組んで、吐き捨てるように言う。夕日に照らされたその横顔には、形容できない複雑な感情が滲んでいるように思えた。
委元だって宮廷医だったはずなのに、どうしてそこまで否定するの?
宮殿でなにがあったのだろうか。
なんの言葉もかけられずに委元を見つめていると――。
「そうだ、これから委元先生と飲みに行くんですよ。蘭さんもどうですか?」
寸さんが話題を変える。それに空気が軽くなると、委元が「ダメだ」と首を横に振った。
「酒場の男どもは無作法者が多い。嫁入り前の女が行くような場所ではない」
「なるほど、過保護なお義父さんですね」
困ったように笑って、肩をすくめた寸さんに、私もつられてくすっと笑う。
「お義父さんのお許しが出なかったので、私は留守番してます。委元、飲みすぎないでね」
「わかってる」
「あっ、夜は寒くなるから、外套も持っていって」
私は医院の中に入って外套を手に取ると、委元の背後に回って着せてあげる。
「いってらっしゃい」
「ああ」
短く答えて、委元は寸さんと酒を飲みに行く。その背中が見えなくなるまで見送ったあと、私は医院の中を片付けながらふたりの帰りを待った。
燭台に照らされた部屋の中で、私は古くなった診療録を新しい帳面に書き写す。
仙は海に囲まれているので、湿気が高い。古くなった診療録の紙はくたくたになるし、よく破れる。そうなる前に書き直すのは、三年前から私の仕事だ。
最初は使い慣れなかった筆も、今ではすらすらと文字を書けるようになった。
最近、日本での生活を思い出す時間が減った。あの世界にいた私は常に劣等感を抱えていて、自分にはなにもないとか、なにもできないとか、くだらないことばかり考えていた。
でも……この世界は目まぐるしい。生きていくために覚えること、学ばなきゃいけないことがたくさんあふれている。
充実してる。そう思えるようになったのは、間違いなく委元のおかげだ。
「そういえば、委元たち遅いな」
診療録から顔を上げると同時に、荒々しく医院の扉が開け放たれる。
弾かれるように戸口を振り返れば、額にびっしりと汗をかいた寸さんがいた。
「寸さん!?」
慌てて駆け寄ると、寸さんに腕を掴まれる。
「委元先生が……男たちに襲われました」
「え……」
「宮廷医の私の目から見ても、助かる見込みはないでしょう」
寸さんの深刻な面持ちを見れば、嘘を言っていないことはわかった。全身がカタカタと震えだし、頭が真っ白になる。
「行きましょう。別れの時は近い」
寸さんが私の手を引いたけれど、首を横に振った。委元が助からない? そんなの、『はい、そうですか』って受け入れられるはずがない。私は寸さんの手を振りほどき、数時間前に委元がくれた道具箱を手に取る。
「私は別れを告げに行くんじゃありません。義父を助けに行くんです」
はっきり言い切れば、寸さんは頷いてくれた。
「では、参りましょう」
寸さんの案内で酒場までやってくると、人だかりができていた。
「蘭ちゃん! 委元先生はこっちだ!」
私の存在に気づいた島の人たちが、手を挙げて委元の居場所を教えてくれる。
「委元、蘭ちゃんが来たわよ。しっかりしな!」
酒場の女店主の声が聞こえる。人混みを縫うように足を進めると、そこには――。
「い……がん……」
血だまりの中で仰向けに倒れている委元がいた。力なく投げ出された手も、閉ざされた瞼も、ぴくりとも動かない。
「委元!」
私は金切り声で叫び、その胸にしがみつく。
「しっかりして! 私の声が聞こえる!?」
「……うう、蘭か……?」
「……っ、よかったっ」
まだ、生きてる!
そうわかった途端、目に涙が滲む。
「大丈夫だよ、委元。今、助けるからねっ」
嗚咽を堪えながら、私は励ますように声をかける。委元の身体を診ると、服の左胸の辺りが血で赤く染まっていた。
「すごい血の量……」
私は震える手で、迷わず委元の服を破る。
すると、心臓の辺りに剣で斬られたような傷があった。剣を突き立てられたあとに乱暴に引き抜かれたのか、どくどくと血があふれている。
「吹き出すような出血……心臓の動脈が傷つけられてる……っ」
心臓の血管を縫合するなんて、事例がない。きっと、この世界のどこを探しても、そんな治療法はないだろう。
「他に、他になにか方法があるはず。考えろ、考えなきゃっ」
焦りに邪魔される思考を必死に巡らせていたとき、委元に手を掴まれた。
「やめろ……俺は、助からん」
「委元……なに言ってるの、委元は私が助けるって言ったでしょう!?」
「忘れた……のか? 医者は……万能では、ない。救えない命も……ある」
「わかってるよ! けど、自分の父親を助けたいの!」
「しっかり……せんか」
握られた手に力がこもる。私はぽろぽろと涙をこぼしながら、委元を見つめた。
「娘、との……最期の時間を……削るんじゃない。医者は、救うだけが……仕事ではないの……だぞ。患者の……望む最期を……迎えられるように……する、のも……大事だ」
委元は乾いた唇をわずかに動かして、必死に言葉を紡いでいた。
「最期だなんて言わないで。これから先、私が医者として成長するところ、見届けてよ!」
泣きながら怒る私の頭を、委元の大きくてごつごつとした手が撫でる。
「お前は、光だ……。俺にとっても、この国にとっても……だから、立ち止まるな。その手で、多くの者を照らせ……」
「ううっ、委元……っ、私はそんなすごい人間じゃないんだよ。委元が生きる術をくれなかったら、私は空っぽのままだった!」
なにもない自分を嫌いながらも、変える努力をしないで、ただぼーっと生きているだけだった。この世界に来たとき、委元が私を見つけてくれなかったら死んでいたかもしれない。
「私、ひとりじゃ……っ」
「お前は……俺の娘だ。簡単には折れん。そんな……軟な人間……に、育てた覚えは……ないぞ」
いつも無愛想な顔をしているくせに、こんなときばっかり委元は優しく微笑んでいる。
「立派な医者になる必要は……ない。ただ、誰かに流される……な。信念を……貫ける医者で……いろ」
委元の瞳は力強い。今にも息絶えようとしている人間の目ではなかった。
だからか、応えなければと思う。
「約束する」
私は苦痛を取り除くため、委元の手に鍼を刺す。合谷だ。私が委元から初めて鍼を教わったときに刺した経穴。なにもできないなら、痛みだけでも取り除いてあげたい。それが私にできる最期の親孝行だ。
「私は、私の心と魂に従って、生きていく。委元みたいに」
それを聞いた委元は、ふっと笑って呟く。
「立派になったな」
私の頭に乗っていた手が力なく地面に落ちる。ゆっくりと閉じられた瞼は、もう開かない。委元は目の前で、静かに息を引き取った。
辺りが静寂に包まれ、誰ひとりとしてその場から動かなかった。いや、動けなかったのだ。私も座り込んだまま、呆然と委元を見つめることしかできない。すると、ぽたっと頬に雫が落ちてくる。それは次第に激しく私を打ちつけた。雨だ。天の涙が委元の頬や胸に付着していた血を流していく。その光景はまるで、委元が存在した証を消し去っていくようにも見えて――。心が切り裂かれるようだった。
***
委元の葬儀は海が見渡せる丘で行われた。
島の人たちも集まってくれて、花を手向けていく。そして、委元は火葬された。この世界では遺体から伝染病が広がらないように火葬するのが習わしらしい。
「なんで、こんなことになってしまったんでしょうか……」
天に昇る煙を見上げながら、ぽつりと呟くと、隣にいた寸さんが私を見る。
「委元先生のご家族のことは、どこまでご存知ですか?」
「え?」
なんでそんなこと、聞くんだろう。
唐突な質問に戸惑いつつも、私は答える。
「十年前に亡くなったってことだけは、聞きました」
「そうでしたか……」
意味深に言葉を切った寸さんは、意を決したように私の方に向き直った。
「委元先生は現国王、煌 龍芽(こう りゅうが)様に王弟で在らせられる龍辱(りゅうじょく)様を殺すようそそのかされたのです」
声を潜めて語った寸さんの言葉に耳を疑う。
「な……急に、なんの話を……」
「でも、委元先生はその命令に従わなかった。ゆえに同じ宮廷医だったご子息も奥方も殺され、宮殿から姿を消したのです」
「そんな……」
掠れた声が出た。息子も奥方も殺された? だからふたりとも、同じ十年前に亡くなったの? 国王の命令に従わなかった、ただそれだけの理由で。
「ご家族が亡くなった理由や委元先生がいなくなった理由は、誰にも明かされていません。本来であれば、虚偽の罪を着せて殺してしまうほうが楽ですが、委元先生は宮殿でも慕われていましたから、国王もできなかったのでしょう」
寸さんの声が遠くなる。完全にキャパオーバーだった。めまいに襲われた私は、手で額を押さえる。
「嘘、でしょう? 委元はそんなこと、私にひと言も話さなかった」
「あなたを守るためです。なにせ相手は国王ですから。委元先生がこの仙の島に身を潜めていたのも、命を狙われていたからです。罪人の島には、誰も寄りつこうとはしないでしょうから」
ずっと不思議だった。宮廷医だった委元が、どうしてこんな辺鄙な島で医者をしていたのか。質素な暮らしをしていたのか。
「実は私も、委元先生と国王の悪事を公にするために動いていたのです。そしてある日、委元先生から国王が家族を殺した証拠を掴んだと文をもらったので、医院を訪ねました」
それって、委元が殺された日のことだよね。
あの日のことを思い出すと、心の奥に刺さったままの悲しみの棘が疼く。私は胸を押さえながら、寸さんの話に耳を傾けた。
「今までは文通のみのやりとりでしたが、今回は直接話したほうがいいだろうと私から進言してしまいました。刺客は都から、私のあとをつけていたのでしょう。本当に申し訳ありません」
寸さんは深く頭を下げてくる。手のひらが白くなるほど握られた拳。それを見れば、寸さんも先生と慕った委元を守れなくて悔しいのだとわかった。
「酒場を出たところを襲われました。結局、その証拠のことも聞けないまま、委元先生は私を庇って刺客に……」
「寸さんは、なにも悪くありません」
私は寸さんの肩に手を乗せた。顔を上げた寸さんの瞳は揺れている。
「ですが、私が刺客を連れてきたようなものなのです。私が会おうなどと提案しなければ、先生は……っ」
「悪いのは国王です」
突然、異世界に投げ出された私を育ててくれた委元。大切な家族だった。尊敬する師だった。それなのに――。
「私は、私から義父を奪った国王を許せません。私が必ず、委元の無念を晴らす」
人のために尽くしてきた委元が、誰かに殺されてこの世を去るだなんて、あの人にいちばん相応しくない最期だった。ならせめて、あの人の思いが報われるように私が証明する。
「国王の悪事を公にするためには、宮殿に行く必要があります。寸さん、私に力を貸してください!」
「蘭さん、なにをする気です?」
「宮廷医になる試験、それってどこで行われるのでしょうか」
「まさか、試験生として潜入するつもりですか? ですが、女性は医者には……」
「わかってます。だから――」
私は寸さんの腰に刺さっていた護身用の短剣を引き抜く。それから、うしろで束ねていた自分の髪を掴むとばっさり切り落とした。
「今日から私は男です」
「蘭さん、なんてことを!」
寸さんは、はらはらと風に吹かれて散っていく私の黒髪を驚愕の表情で見ていた。
「委元の悔しさに比べれば、私の髪なんて軽い対価です」
「……そこまでの覚悟なのですね」
「はい」
「わかりました。宮廷医の試験を受けるには推薦状が必要ですから、私が用意しましょう」
「ありがとうございます」
協力してくれる寸さんに頭を下げる。
委元、私は私が正しいと思うことをするよ。信念を貫ける医者であるために。
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