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▼二章「宮廷医を目指して」
宮廷医の試験を受けるには、現宮廷医からの推薦状が必要だ。私は寸さんに頼んで書いてもらった推薦状を手に、試験会場である宮殿にやってきた。金装飾がふんだんに使われた絢爛豪華な外観。宮殿を囲む石造りの塀の外は活気にあふれた町が広がっていた。
さすが、都と呼ばれるだけある。ここに来るまでにすれ違った道行く人々は、みんな華やかさがあった。
「うわあ……でかい、高い」
私が見上げているのは、青空の下にそびえ立つ宮殿の正門――『龍旋門(りゅうせんもん)』。瓦屋根の両端に黄金の龍がついている。外壁は朱と緑を基調としていて、鮮やかだ。しばらく門を見上げたまま呆けていると――。
「邪魔なんだけど」
どんっと後ろから、誰かに蹴り飛ばされる。
「うわっ」
勢いよく地面を転がった私は、擦り剥いた手のひらにふーふーと息を吹きかけながら上半身を起こした。
「いったた……」
「そんなところで突っ立ってるからでしょ、このグズ」
ぐ、グズ……?
初対面にして、散々な言われよう。怒ったらいいのか、驚けばいいのか、もはや思考が追いつかない。困惑しつつ、私にぶつかってきた青年を見上げる。歳は私と同じくらいだろうか。ふわっとしたアイボリー色の髪に、紫の瞳。唇の下にあるホクロが印象的だ。背は決して低くはないのだが、顔立ちが中世的なせいか、女性と言われても違和感はない。
私とお揃いの医官服――白のエプロンに青の作務衣を重ね着しているところを見ると、おそらく彼も試験生だろう。決め手は、正式に宮廷医に認められると授けられる冠帽をかぶっていないことだ。宮廷医の試験を合格すると、戴帽式(たいぼうしき)のときに試験官から頭にかぶせてもらえるのだとか。
「ちょっと、人の顔凝視して妄想? 気持ち悪っ」
きも、ちわるい……? 彼の顔を見ながら考え事をした私にも非はあるだろうが、そこまで言う? 絶句している私を青年は冷ややかに見下ろす。
「警吏(けいり)に突き出されたいの? 生憎、俺忙しいんだよね。縄にかかりたいなら自首して」
捲し立てるように言いたいことだけ言った青年は、さっさと門を潜って中に入っていく。
「恐るべし都……」
上京したての田舎者の気持ちが、今ならわかる。
拝啓、委元。この春、蘭は宮廷医になるため、都にやって参りました。が……日本でいう田舎も同然な仙から来た私には、超都会である都の空気は冷たすぎるようです。敬具。
「いいか、その耳の穴かっぽじって聞け。宮廷医の試験は半年に渡って、この陽煌宮(ひこうきゅう)の内医院(ないいいん)で行われる」
宮殿の敷地内に設置された内医院は、宮廷医が住み込みで務める建物だ。
その前にある石畳の広場に三十名の宮廷医の卵――試験生たちは集められた。
そして今、試験の説明を行っているのは黒の冠帽に青の官服を身に着けている柳 唐九(ゆ からく)試験官だ。宮廷医の中でも指導官や宮廷医長などの役職についていると、この制服を身に着けられるのだと寸さんから前に聞いたことがある。
三十五歳、独身。いつかの自分を思い出すが、唐九試験官と私の違いはその容姿のよさだ。真ん中分けされた紫の前髪から覗くきりっとした眉に、切れ長のアメジストのような瞳。女ならば誰もが振り向くだろう整った顔立ちをしているというのに、いまだ身を固めていない理由はひとつしか考えられない。
「見ろよ、あれが鬼試験官の唐九試験官だぜ」
試験生たちのひそひそ話が聞こえてくる。
「現役宮廷医の指導官でもあるんだろ? 行き過ぎた指導で、何人も辞めてるらしいぜ」
「ひいっ、おっかねえ」
そう、唐九試験官は性格に難ありの残念男らしい。この広場に集められてから、試験生たちの話題は唐九試験官の恐ろしい武勇伝でもちきりだった。そしてさっそく、噂をしていた試験生たちに気づいた唐九試験官は「ほう……」と黒い笑みを浮かべた。
「俺の話の最中に雑談か。いい度胸だ。さっさと荷物まとめて帰りやがれ」
唐九試験官に睨まれた試験生たちは、涙目で「す、すみません!」「許してください!」と土下座している。
気をつけよう。試験を受ける前に、退場させられないように。気を引き締め直していると、そこへ見知った人物が苦笑いで現れる。
「唐九、そんなに脅すものではありませんよ」
寸さんだ!
出会ったときと変わらず柔らかな笑みを浮かべて、寸さんは唐九試験官の隣に並ぶ。
「唐九はこう言っていますが、すべてはあなた方のためなのです。王族の方々の命を預かる宮廷医に失敗は許されませんから、その資格を得るには相応の努力が必要だということを伝えたかったのです」
寸さんにフォローされた唐九試験官は、舌打ちをする。
「そーいうこった。無駄話してる暇はねえぞ。肝に銘じておけ」
唐九試験官の言葉に、試験生たちの背筋が伸びる。私たちの顔を見渡した唐九試験官は、大きな巻物のようなものを目の前で広げた。
そこには墨で試験の概要が書かれていた。
「続けるが、試験は全五回だ。総合成績で合格の有無を判断する」
「試験が目玉ではありますが、宮廷医の試験は医者の育成も兼ねていますから、試験の合間に現役の宮廷医から講義を受けられます。その講義を私、簡 寸が担当いたします」
「寸も試験官だ。俺は実践を、寸は座学を中心にお前たちの試験を支援する。王弟で在らせられる、龍辱様の担当医を努めている寸に教わる機会を無駄にするんじゃねえぞ」
寸さん、龍辱様の担当医だったんだ。
王族の治療ができるのは、宮廷医の中で最も腕がいい医者だけだと聞く。そんな寸さんに推薦状を書かせたなんて、ものすごく図々しいことだったんだ。とはいえ、あのときはこれしか方法がなかったので、仕方ない。
私は委元を死に追いやった国王の悪事を露呈させるために、ここに来た。国王に近づき、弱みを握るためにも宮廷医にならなければ。
でも、すべてが終わったら仙に帰って島の人たちのために医院を継ぐつもりだ。
ここで学べることは素直に吸収して、島の人たちのために生かそうと思う。そんなことを考えていると、説明を終えた唐九試験官と寸さんが試験生の前からはける。ひと言くらい寸さんに挨拶したいけど、難しいかな。
諦め半分に、私の横を通過する唐九試験官を見送る。その後ろを歩いていた寸さんも行ってしまうと思いきや、ふいに足を止めた。
「蘭さん、この日をずっと待っていましたよ」
寸さんは私の前まで歩いてきて、両手をぎゅっと握ってくる。
「寸さん、わた……俺のこと気づいてたんですか?」
短くなった髪を後ろで結び、胸にさらしを巻いた私は完璧に男だ。こんな大勢の試験生の中にいれば、すぐに私だとはわからないはず。それなのに、迷わず私のところにやってきた寸さんに驚きを隠せない。
そんな私に、寸さんはふっと微笑む。
「最初から、どこにいるのかわかりました。どんな覚悟を持ってここまで来たのか、私は知っていますが……」
掴まれた手に力が込められて、私は瞬きを繰り返しながら寸さんを見上げる。
「できれば、しがらみに囚われずに宮廷の医術も学んでくれたらなと思います」
「寸さん……」
私の身を案じてくれている。そういう存在がいるというだけで、復讐相手がいる宮殿でも心が軽くなる。
「寸、なにしてんだ。その試験生と知り合いなのか?」
「唐九、彼が私の推薦した紅葉 蘭さんです」
私たちのところへ歩いてくる唐九試験官は「紅葉?」と目を見張った。
「委元先生の義理の息子さんで、いちばん弟子ですよ」
寸さんの口から委元の名前が出た途端、辺りがざわつき始める。
「あの細っこいのが、紅葉 委元先生の息子?」
「紅葉 委元って言ったら、王様の担当医だった名医だろ?」
試験生の間でも、委元って有名なの?
自分の師匠の偉大さを改めて実感していると、唐九試験官に肩を掴まれる。
「俺たちが宮廷医になったばかりの頃、委元先生は指導官だったんだ。まさか、その息子に俺たちが教える日が来るとはな……」
興味深そうに強面の顔を近づけてくる唐九試験官。――近い!
身を仰け反らせていると、寸さんがさりげなく唐九試験官の腕を掴んで後ろに引っ張る。
「いきなり近づいたら失礼でしょう。申し訳ありません、蘭さん。なにか困ったことがあれば、いつでも訪ねてきてくださいね。私たち宮廷医も、試験生が泊まる宿舎で寝泊まりしていますから」
「過保護だな」
呆れている唐九試験官を連れて去っていく寸さんに、私はお辞儀をする。
「ありがとうございます!」
大丈夫、ひとりじゃない。頑張ろう、委元のためにも――。
内医院の裏手にある宿舎にやってきた。
扉を開けると、寝台が三つ。ひとつは二段になっていて、その上段には先刻、門の前で出会った青年が座っていた。目が合った途端、「あ」と声が重なる。そして、みるみるうちに青年は虫でも見るような目で私を見た。
「うわ、あんたと同室? ありえない」
「門で会いました……よね。俺、紅葉 蘭です」
「知ってるし。さっき、あの紅葉先生の息子だって騒がれてたでしょ」
つんとそっぽを向いて荷解きを始める青年。
気まずい……私はどこの寝台を使ったらいいんだろう。その場から動けずに途方に暮れていると、背後でガラガラッと引き戸が開く。
「いたっ」
背中に誰かがぶつかった。振り向くと、私より頭ふたつ分ほど背が高い男が立っている。
「すまない」
男は言葉少なに謝罪を口にする。私にぶつかったことに対して、謝ってくれたのだろう。
だが、藍色の髪に涼しげな濡羽色(ぬればいろ)の瞳をした彼は表情が乏しい。ゆえに威圧感が尋常じゃない。
「俺はどこを使えばいい」
「……へ?」
男の雰囲気に圧倒されていた私は、聞かれた意味がわからず間抜けな声を出してしまう。
すると、長身の男は一瞬黙り込んでから、腑に落ちた顔をして再び口を開いた。
「寝台だ。空いているところを使わせてもらう」
「ああ、寝台の話! えっと……彼の下か、向かいの寝台が空いてるみたいです。でも、あなた大きいから、俺がこっちに寝ますね」
私は二段になっている寝台の下に荷物を置く。ああ、ようやく腰を落ちつける。
ほっと息をつくと、向かいの寝台に座った長身の男がこちらを見る。
「俺は朴 蒼(ぱく そう)だ」
「蒼さん、よろしくお願いします。俺は……」
「紅葉 蘭。さっき聞いた」
ああ、広場で蒼さんも聞いたんだ。ということは、あの広場にいた試験生にはほとんど名前を知られていることになる。自己紹介をしないで済むから楽ではあるが、悪目立ちしていないかが不安だ。ものすごく。
「俺のことは蒼でいい。俺も蘭と呼ばせてもらう」
「じゃあ、次は俺の番」
上の段にいた青年が足をぶらりと下ろして、膝の上に頬杖をつく。
「俺は尊 孔玉(そん こうぎょく)。同室になったからって、グズと仲良しごっこするつもりないから、そこんところよろしく」
全然、よろしくする気ない!
思わず心の中でツッコミを入れてしまった自分を宥めつつ、ここは三十五歳の大人として華麗にスルーすることにする。
「孔玉くんと蒼さんは、どこから来たんですか?」
引きつりそうになる頬を笑顔でごまかし、私は定番のネタで親睦を深めようとした。
だが、孔玉くんから刺さるような視線が向けられる。
「は? それ聞いてどうすんの? あんた、見るからに田舎出身ですって顔してるし、うちに強盗にでも入られたら困るんだよね。だから余計なこと聞かないでよ、グズ」
――誰か! この毒舌美青年の取り扱い説明書を私にください!
試験を受ける半年間、グズからルームメイトに昇格する日は来るのだろうか。
絶句している私の耳に、蒼の声が届く。
「俺は朝安(ちょうあん)出身だ」
「へえー、都からそんなに離れてないんだ」
孔玉くんはそう言うが、朝安は確か馬で三日ほどの距離にあったはず。電車も飛行機もないこの世界での主な移動手段は馬と船だ。私も仙から都まで来るのに、二週間かかった。
「孔玉は都出身だな。宮廷医を目指している者ならば、尊家の名を知らぬ者はいない」
蒼の言葉に、私は首を傾げる。
「尊家?」
「ここに知らないグズがいるみたいだけど?」
呆れた様子で、孔玉くんは私を指差す。
無知ですみませんね。
心の中でぶうたれていると、孔玉くんは面倒そうではあるが教えてくれる。
「うちは代々、宮廷医を輩出してる家なんだよ。俺の祖父も父も兄も、現役で働いてる」
「なるほど。じゃあ孔玉くんが宮廷医になるのを、ご家族も心待ちにしてるでしょうね」
「なにそれ? 精神的に圧力かけてる? それで蹴落とそう的な魂胆?」
孔玉くんは冷ややかな目で、じとりと睨んでくる。私は慌てて、顔の前で両手を振る。
「ええっ、違うよ!」
「どうだか」
心の壁が高い、厚い……。
こんなに突っかかるってことは、プレッシャーを感じているのかも。
「傷つけたなら、ごめんなさい。だけど、試験に集中するためにも、もし重荷に感じてることがあるなら、話とか聞きますよ! それくらいしかできないのが歯がゆいんですが、溜め込むとよくないですから」
励ましたつもりだった。でも、不愉快な思いをさせてしまったらしい。孔玉くんはふいっと顔を背けてしまう。
「……余計なお世話」
素っ気ない。ドSな上に塩対応な孔玉くんにかける言葉を見つけられずにいると、蒼がじっと私を見ているのに気づいた。
「お前はどこから来た」
「そうだよ、あんたがいちばん怪しい。十年前に姿を消した紅葉先生が、養子を迎えてたことも含めてさ」
蒼と孔玉くんの視線が痛い。嫌な汗が背筋を伝う中、私はおずおずと答える。
「仙です」
「はあっ? あの罪人の島出身!?」
孔玉くんの声が部屋に響き渡った。
蒼も表情こそ変わらないが、固まっている。
「島の人たちのほとんどは流刑になった罪人だったけど、みんな根は優しかったですよ。委元が仙にいた理由は……俺にもわかりません。俺はそこで孤児だったところを委元に助けてもらったんです」
半分は本当で、半分は嘘。委元が仙にいた理由は話せない。なんの証拠もない状態で国王が王弟の暗殺を委元に命じたことが明るみになれば、必ず噂しだした人間は罰せられる。ふたりをそんな危険に巻き込むわけにはいかない。それから、私が異世界から来た話もきっと信じてはもらえないだろう。頭がおかしいと思われるのがオチなので、孤児ということにした。
「紅葉先生は息子を亡くされたと聞く。だからこそ、孤児をほってはおけなかったのだろう」
難しい面持ちでそう言った蒼に、孔玉くんも黙り込んでいた。
「あの! 試験は明日からですし、一緒に町に行きませんか?」
私の嘘のせいで重くなった空気を変えるように、明るく提案する。
けれども、ふたりから返ってきたのは――。
「嫌だね。せっかくの休みを、どうしてグズと過ごさなきゃいけないわけ?」
「断る。わざわざ人混みが多い場所に赴く気が知れない」
体裁もへったくれもない、冷たいひと言だった。
***
翌日、一回目の試験が内医院の広場で行われることになった。昨日と同じように、唐九試験官がルールを発表する。
「今日は、お前たちの基礎能力を見させてもらう。各列にいる患者の診断と治療の速さを競い、最後尾に早く辿り着いた者から満点、九十点、八十点と先着順に得点を得られるものとする。つまり、十位までに入らなければ今回の試験は無得点だ」
無得点の単語に辺りは騒然とする。初っ端の試験から0点はかなり痛い。しかも、三十名いる試験生の中で二十名は得点を得られないことになるので、当然、試験生たちはざわつく。
「十位までとか、絶対に無理だろ」
「おいおい……十位に入っても、もらえる得点は十点だぞ」
「せめて、半分は欲しいよな」
困惑する試験生たちに、唐九試験官は「静かにしやがれ!」と一喝。水を打ったように、辺りは静まり返る。
「こんなことで怖気づくくらいだったら、宮廷医なんざ目指すんじゃねえ。いいか? 旅の疲れで実力を発揮できなかったとか情けねえこと抜かしやがったら、即刻失格にするからな」
鋭利な視線で試験生を見渡す唐九試験官に、あちこちから「鬼だ……」と畏怖する声が聞こえてくる。
「全員、配置につけ」
唐九試験官の声で、試験生たちは薄い敷物に横たわっている患者たちの列の先頭に立つ。患者は一列に十名ほどだ。
それぞれの列には試験官である宮廷医がついており、私のところには寸さんがいた。
「頑張ってくださいね」
「ありがとうございます、寸さん」
危険を承知で、私をここに導いてくれた寸さんに強く頷く。推薦状を書いてもらった以上、寸さんの顔に泥を塗るような真似はできない。それに、試験であろうとここにいる人たちは治療を必要としている患者だ。これまで委元から教わってきたことをすればいい。今までと同じように、患者に向き合えばいい。
そう自分の気持ちを落ち着けたとき、「始め!」という唐九試験官の声が広場に響いた。私はさっそく、青い顔で肥えた腹を押さえている男性患者の前に膝をつく。
「初めまして、試験生の紅葉 蘭です。今、いちばん辛い症状は……」
「助けてくれ、先生! 腹が張って痛いんだ」
私の言葉を遮った患者が腕にしがみついてきた。興奮すれば身体に力が入って、お腹の筋肉も緊張する。それでは痛みが増してしまうので、私は男性の肩に手を乗せ、安心させるようにゆっくり話しかけた。
「お腹ですね? わかりました。そこに膝を立てて、横になってください」
私はその背に手を添えて、患者を敷物の上に寝かせる。服を捲ると、明らかに腹部が膨れ上がっている。その腹に手を当て、大腸の走行に沿って押していくと、全体的に張っていた。しかも、直腸のあたりで硬いものに触れる。これは便だ。
「腸の中で気が停滞していますね。吐き気はありませんか?」
「あります。あと、げっぷすると酸っぱい感じが口の中でします。胸焼けもひどくて……」
げっぷは医術用語で愛気と言うのだが、酸っぱいと胃酸が逆流している可能性がある。ましてや胸焼けまでしているとなると、その胃酸にさらされた食道は炎症してしまう危険がある。幸いにも食道の焼けるような痛みは訴えてはいないので、発症はしていないが時間の問題だろう。
「あと先生、ときどき動悸と頭痛、目眩もするんですが、それってなんででしょうか……」
「ちょっと、脈を測らせていただきますね」
患者の手首で脈を確認すると、球が転がるようにドクンドクンと強く指に触れる。
「これは……滑脈(かつみゃく)ですね。脂っこい物や甘い物、それからお酒を暴飲暴食していませんか?」
「それはまあ、毎日……」
「やっぱり。それと、水の巡りが滞っていますね。よどんで濁った水――痰濁(たんだく)が血の巡りを邪魔したことで、動悸や頭痛、目眩を引き起こしています」
この世界には血圧の概念がないのだが、おそらく長期に渡る不摂生な生活が高血圧症も引き起こしたようだ。
「それから腹痛のほうですが、偏った食事、それから暴飲暴食によって胃に気が停滞し、痛みが起きたようです」
「お、俺はどうすれば……!」
「胃、大腸、小腸、胆、膀胱、三腸。六腑(ろっぷ)に効き、気の巡りをよくして頭痛や眩暈を軽くする鍼を打ちます」
私は患者に治療の説明をしてから、鍼を準備して胃痛に効く経穴――中脘、足三里に打つ。続いて、おへその両脇にある天枢(てんすう)、みぞおちとおへその中間にある梁門(りょうもん)にも鍼を刺入した。
「このツボは便通を良くしたり、消化不良や胃もたれ、胃酸の逆流を和らげる効果があるんですよ。胸焼けやお腹の張りも和らぐかと」
それから胃痛と嘔吐を軽減する内関(ないかん)や関元(かんげん)、公孫(こうそん)、建里(けんり)、裏内底(うらないてい)の経穴にも鍼を打つ。
「最後に血の巡りをよくして、動悸や頭痛、眩暈がよくなるように治療していきますね」
頭痛に聞く風池(ふうち)や太衝(たいしょう)、滞っていた水の巡りをよくする豊隆(ほうりゅう)に鍼を打ち、私はひと息つく。
「はい、これで鍼は打ち終えましたよ」
すべての治療を終えると、患者が身体を起こしてほっとしたような顔をする。
「本当だ、痛みが嘘みたいに引いてる……ありがとうございます、先生!」
「どういたしまして。だけど、暴飲暴食はやめてくださいね? お酒もほどほどに。でないと、また胃痛に苦しむことになりますよ?」
「わかってはいるんだけどなー、ついやめられなくて」
患者は頭に手を当て、へらっと笑っている。
うちの父親も酒の飲みすぎで肝硬変(かんこうへん)になり死んだのだが、何度酒をやめるように言っても飲み続けた。
生活習慣を急に変えるというのは難しい。それは身をもって知っているので、私は医者の知識を武器に、患者を脅すことにする。
「暴飲暴食で胃にかなりの負担がかかっています。げっぷしたときに口の中に酸っぱい感じが広がるのは、胃の内容物が逆流している証拠です」
「え?」
患者の表情がわかりやすいほど固まる。
そこへ追い打ちをかけるように、私は暴飲暴食の果てになにが起こるのかを話す。
「食べたものを溶かす液体が胃から出ているのですが、それが食道に逆流すると、食道が焼けただれます。想像を絶する激痛でご飯は食べられなくなるし、お酒も飲めなくなりますよ?」
「そんなっ、食べることだけが生きがいなのに……っ」
頭を抱えて蹲る患者の肩に、私はぽんっと手を乗せた。
「まったく食べられなくなるより、少量でも好きなものを口にできるほうが、長い目で見たら幸せじゃないですか? 食べることが生きがいなら、なおさら」
そこまで言うと、患者は「しばらく酒と暴食は控えます……」と撃沈した様子で頷いた。
生活指導まで済んだ私は、立ち上がって次の患者のところへ向かう。試験であることなんて忘れて、次々と患者を診察していった。
こうして、最後の患者を見終えた私は、一息ついて寸さんを見る。すると、柔らかな笑みとともに寸さんがすっと手を上げた。
「紅葉 蘭、一着」
――え!?
驚いて周りを見回すと、試験生たちはまだ列の半分辺りの患者を診ている。私のところだけ、診察した患者の症状が軽かった……?
戸惑いつつも手持無沙汰に立ち尽くしていると、試験生全体の監督をしていた唐九試験官が近づいてくる。
「一位は紅葉先生の息子か。ま、あの人の弟子なら、それくらいの成績叩き出してもらわねえと困るけどな」
「蘭さんはただ診断し、治療するだけでなく、患者が再びその病にかからないよう生活の指導もしていました。予防にも努められるなんて、すごいですよ」
厳しい唐九試験官とは反対に、寸さんは手放しで褒めてくれた。まさに飴と鞭、子育てにおける父と母の役割分担を見ているようだ。
「ふたりって、いいコンビ……相棒ですね」
つい顔を綻ばせると、唐九試験官は「けっ」と言い、私の額を人差し指でぐりぐりと押す。
「生意気だ、ひよっこ」
「すみません……でも、おでこに穴が開きそうなんで、やめてください」
やんわりと身を引けば、唐九試験官はさほど気にした様子もなく試験生たちを見渡した。
「もうそろ、尊家の坊ちゃんと朴のどっちかが最後尾に着くな。残りの連中は、話になんねえくらいノロマだ」
孔玉くん、蒼……。同室のふたりに視線を向ければ、僅差で孔玉くんがリードしていた。
そして案の定、「尊孔玉、二着」「朴蒼、二着」と監督していた宮廷医から声があがる。
孔玉くんと蒼のあとは、またしばらく間が空いた。
日が暮れ始めた頃、ようやく得点をもらえる十名が決まり試験は終了。後片付けをして部屋に戻ると、空はあっという間に濃紺に染まり星が瞬いていた。
「今日はあんたに先を越されたけど、次もうまくいくとか思わないでよね。天と地の差をつけてやるから。首洗って待ってなよ、グズ!」
同室のふたりと部屋で休んでいると、孔玉くんが上の段から私のベッドを覗き込み、罵倒してくる。
この人、語尾に『グズ』ってつけないと死んじゃう病気かなんかなの?
不思議と怒りは感じない。こう息をするみたいに言われると、いっそ清々しいくらいだ。
孔玉くんの『グズ』を広い心で聞き流していると、蒼が黙々と服を鞄から取り出しているのに気づく。
「蒼? なにしてるんですか?」
「風呂に行く準備だ。今ならまだ、他の試験生もいないだろう」
「ああ、なるほど」
試験生はこの宿舎に泊まる間、大浴場を使っていいことになっている。私は女であることがバレたら罰せられるどころか、死刑になる可能性もあるので、昨日は時間をずらして入った。なにより、私だけでなく寸さんにも迷惑がかかるので、隠し通さなければ。
「うじゃうじゃ人がいる中で、同じ浴槽に浸かるとかぞっとするんだけど。さっさと行っちゃうのが得策かもね」
孔玉くんも着替えの服を手に持つと、寝台を降りた。それをなにも考えずに眺めていたら、ふたりが同時に私のほうを見る。
「あんた……なに、ぼさっとしてんの?」
「へ?」
孔玉くんは不可解なものでも目撃したかのような顔をしていた。
私は逆に、なぜぼさっとしてはいけないのかがわからず、きょとんとしてしまう。
「へ? じゃないから。話聞いてなかったの? これだからグズは……早く大浴場に行かないと、混むって言ってんじゃん」
「あー……」
実は昨日も『明日の試験のために、予習してから入ります』と嘘をついて、誘いを断った。仲がいいわけではないが、同室な上にふたりとも人がたくさんいるお風呂には入りたくないようで、自然と一緒に行く流れができている。
宿舎生活の最大の難関であるお風呂。初日から、人がいなくなる時間を必死に探って、私は夕食の時間帯が穴場であることを発見した。夕食は各自、町に食べに出ていいことになっているので、ほとんど宿舎に人がいなくなるのだ。だから今日もそうしようと思っていたのだが、さすがに二日連続で断るのは怪しまれるだろうか。とはいえ便乗はできない。
「でも俺、なんだか疲れちゃって。もう少ししたら行きます」
頑なに首を縦に振らない私に、ふたりは不審そうにしながらも部屋を出ていく。
それにほっと胸を撫で下ろした私は、時間差で大浴場に行くのだった。
お風呂を済ませたあと、火照った身体を冷ますため、私は宿舎ではなく宮殿内の庭園を散策していた。橋を渡ると、真下のある池には蓮のような花が咲いている。
「あれ、なんていう花なんだろう」
月光を浴びたその花は、わずかに光を帯びているようにも見えた。
しばし、その場に立ち尽くして花に目を奪われていると、池を囲むように生い茂っている草木がガサガサと揺れる。
「な、なに?」
不審者だったら、私じゃ太刀打ちできない。せめて護身術くらいは、誰かに教わっておけばよかった。今更後悔しても遅いことを考えながら、意を決して音がしたほうへ足を進める。忍び足で進んでいたはずなのだが、靴で枝を踏んでしまったらしい。パキッと音がすると、草むらが再び揺れた。そこから人影が顔を出し、「誰だ」という男の声が聞こえる。
「そ、そっちこそ、誰ですか!」
相手は男、力では敵わない。でも、ここまで来て逃げ切れる保証もない。ならば、正体くらいは突き止めてやろうと、びくびくしながらさらに足を進めると――。
「あ……」
燃えるような赤い長髪。それを後ろで束ねている男が城壁に寄りかかるようにして、座っていた。その瞳は月をくり抜いたような金色をしている。なぜか、この世界に来る前に見た炎龍のことを思い出した。
「あー……頭痛ぇ。んで? お前は誰だ」
前髪を掻き上げた男は黒い袴を身に着けており、襟も腰に巻かれた帯も金色。肩から羽織っている丈の長い紅(くれない)の羽織には、金糸で龍が刺繍されていた。腰の帯には龍の金装飾があしらわれた柄に、紅玉のついた下緒が巻かれた黒い鞘から成る剣が差さっている。護身用ではなさそうだけど、もしかしてこの人……武官?
武官とは、国の軍事を任務とする官吏のことだ。細身ではあるが、着崩れた胸元から覗く引き締まった体躯は日頃から鍛えている人間の体つきだろう。
年齢は二十代後半くらいだろうか。なんにせよ、明らかに高貴な出であろう男。だが、先ほどがら気になることがある。彼から放たれる酒の匂いだ。私は警戒しつつ、着物の袖で鼻を押さえながら男に近寄った。
「どなたか存じませんが、俺は宮廷医試験を受けに来た試験生なんです。具合が悪いなら、なにかお力になれるかと……」
「あ? ああ……いや、いい。夜風に当たっていれば、酔いも醒めんだろ。お前は早く宿舎に戻れ」
「そうは言われましても……」
陽煌国がいくら温暖な気候とはいえ、外で眠りこければ風邪を引く。
まともに立ち上がれない酔っ払いを放置していけるほど、冷酷な人間でもないので、私は仕方なく男の隣に腰かけた。
「なにしてる……俺は、男に興味はねえ……」
「は?」
なに言いだしてるの、この人。
相当酔っているのか、男の顔はほんのりと赤みを帯びている。
「どうして、こんな醜態をさらす羽目になったんです?」
「醜態って、お前な……。俺にそんな口を利くやつが、あいつら以外にもこの宮殿にいたとは、な」
「ごめんなさい。偉い人なんだろうとは思ってるんですけど、つい」
素直に謝ると、男は顔をくしゃくしゃにして、はっと笑い声をあげた。
「気にするな。ここにいる俺は、ただの酔っ払いだ」
男は肩を震わせながら天を仰ぎ、私を流し目で見る。その気怠げな表情と相まって、むせかえりそうな色気にあてられた私は、すっと視線を逸らす。目に毒とはこのことだ。
「実はな、お忍びで『花楽院(からくいん)』に行っていた」
「花楽院? ……ってなんですか」
「お前、男に生まれながら、花楽院を知らねえのか。妓生と遊ぶっつったら、あそこだろ」
ああ、妓楼のことね。こんな身なりをしてはいるが、私は女だ。なので興味もなかったが、男ならみんな行くものなのだろうか。
「妓楼の中でも、花楽院は格式がある。舞いも詩経も琴も一流だ」
「へー……」
「ただ酒を飲むんじゃ味気ねえからな」
「なるほどー」
「花を愛でながらだと、つい酒が進んじまう……って、お前、興味なさそうだな」
〝なさそう〟ではなく、実際どうでもいい話題だったのだ。
私だって、綺麗な女性を見て目の保養だな、と感じることはある。ただ愛でるだけなら共感できるが、妓楼はそれだけでは終わらない。
「だって、妓楼ってお酒を飲むだけじゃないですよね?」
「あ? ああ、夜伽のことか? それ目的で行くやつもいるだろうな」
「あなたは違うんですか?」
「いや、違わねえな。据え膳は食うのが礼儀だ」
「うわ、下種ですね」
あ、ついうっかり。口からぽろっと本音が出てしまった。すると、一瞬目を丸くした男は、腹を抱えて笑い出す。
「くっくっく……違いねえ」
「そこで笑う意味がわかりませんけど、据え膳は食うのが礼儀とか、聞こえはいいですけど、そもそも食べに行ってるわけですから、礼儀もへったくれもないですよね」
呆れ果てていると、酔っぱらいの男(以降〝下種男〟と呼ぶ)は肩を抱いてくる。
「それにしても、女の美は腰の線に出ると思わねえか?」
「知りませんよ」
こっちは女なんで!
ぐいっと下種男の胸を押して距離をとろうとするも、力が強くて引き離せない。
「つい、手を滑らせたくなる。お前は? あ、まだ童貞か?」
「慎ましやかって言葉、知ってます?」
顔はカッコいいのに、話せば話すほど残念な人だな。
聞いてもいないのに、今晩の体験を赤裸々に語り出す下種男を軽蔑の眼差しで見つめる。
「その場限りの関係に、なんの価値があるんですか。身を固めて、奥さんとチョメチョメしたらどうです? 見た感じ、結婚してもよさそうな年齢に見えますし」
「二十七だ。お前は?」
「十七です」
「見た通り子供だな」
〝見た目〟はね。中身は、こっちの世界に来てから三年が経ったので三十八歳だ。一回りも年が離れた相手に子供呼ばわり。他の誰に子ども扱いされても平気だったのだが、この人にされるとなんか癪だ。
「愛した女と結婚できれば、妓楼に行かなくとも事足りるが……。俺にとって恋愛は遊び、結婚は契約だ。俺は家の関係で、政治的価値のある女と結婚しないとなんねえからな。お前は形だけの妻に欲情できるか?」
「あなたの立場になってみないと、なんとも言えませんね。けど、それだと、あなたも、あなたの奥さんになる人も辛いですね。仕舞いには、子どもも跡継ぎを残すだけの道具、とか言い出しそう」
「お前、綺麗な顔に似合わず口が悪いな」
「あなた相手だからですよ。他の人には、もう少し礼儀正しく接してます。話を戻しますけど、身を固めたところで、今の生活を変える気はないってことですよね?」
「ああ、ないな。限られた自由の中でくらい、好きな女を抱き、羽目外したくなるもんだろ」
「好きな女がひとりだったらいいんですけどね。どんな事情があるにせよ、あなたは寂しさを妓生で埋めることを肯定してる。女性を商品みたいに扱ってるところが不愉快です」
「ぷっ、歯に衣着せないやつだな。それに加えて、純情なお子ちゃまだ」
……失礼な。反論しかけた口を閉じて、黙り込む私になにを勘違いしたのか、男が頭に手を乗せてくる。
「ふてくされるな。妓生も財力のある男と寝ると格が上がる。お互いの利害が一致してりゃ、いいと思うがな」
ふてくされているわけではないのだが、訂正するのもややこしいのでやめておこう。
「この世界って、つくづく遅れてますね。女性が活躍する場所は、妓楼以外にもあるのに」
「……お前は不思議なやつだな」
男はわずかに目を見張り、城壁から背中を離して座り直した。
立てた片膝に肘をつき、物珍しいものでも見るように、私のほうへ顔を向ける。
「男は女を養い守るものだ。女に求められるのは、夫の出世を支えること。だが、お前は世の中の枠には当てはまらない考えを持っているらしい」
「この国の考え方が狭すぎるんです。女性が守られるべき者だって、どうして決めつけるんです? 女性が養われなければいけないのは、社会が働き口を作らないからです。決して、女性の力が男より劣っているからじゃない。女性だって、鍛えたら武官になれるかもしれないし、医者だって……知識と技術があれば性別関係なくなれるはずです」
男は私の話に静かに耳を傾けてくれていた。
てっきり『甘いな』って言われるのを想像していたので、意外だ。
「お前の考えは、世の女の本心なのかもしれねえな。視野が広いのは、いいことだ。気に入った。お前、名はなんという」
「蘭です。紅葉 蘭」
「紅葉? ああ、お前が例の委元が養子にしたっていう子供か!」
男の顔には喜色があふれ、心なしか声も弾んでいる。
「委元を知っているんですか? というか、そんなに噂になってるんですね、俺……」
「お前が思っている以上に、お前の義父はこの陽煌宮では有名だからな。国王の主治医を務め、多くの医者の卵たちを育てた功労者だ。あの人を慕う人間は、王族含め多い」
「そうなんですね……」
義父を褒められるのは、娘として鼻が高い。委元のいちばん弟子でいられることを誇りに思う。胸を押さえながら、心に住む義父の存在を感じていると、男が私の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「委元は亡くなったと聞いた。なんでも、夜盗に襲われたとか」
「夜盗、そういうことになってるんですか」
「そういうこと?」
怪訝そうに目を細める男に、私は笑顔をつくろう。
「あ、いいえ。そうなんです、運が悪かったんです」
「……人を救ってきたあの人には、似合わねえ最期だ」
「あ……」
私も同じことを都に来る前に思った。人のために尽くしてきたのに、誰かに殺されてこの世を去るだなんて、あの人にいちばんに相応しくない最期だって。同じように考えてくれている人がいるんだ。それだけで、心強い。
「まだ、盗賊も捕まってないと聞く。俺が必ず牢にぶちこんでやるから、安心しろ。これがせめてもの、俺ができる恩返しだからな」
「牢にぶちこんでやるって……あなたは、一体……」
何者なの?
素性の知れない男をじっと見つめる。その金色の双眼は、嘘偽りなどないというように澄んでいて、意志の強さを宿している。思わず見入っていたとき、すっと手が伸びてくる。
「お前……名前もそうだが、男にしては華奢すぎやしないか」
「え!」
とっさに言い訳が思いつかず、素直に驚いてしまう。そんな私の肩や腕に触れた男は、そのまま手を滑らせ顔の輪郭をなぞってきた。
「顔も女みたいだな」
「し、失礼ですよ。気にしてるんですから、女顔」
動揺を隠せず、声がひっくり返る。これは、ちょっと危険かもしれない。これ以上一緒にいたら、ボロが出そうだ。そう思った私は、勢いよく立ち上がるとお尻についた土を払う。
「もう酔いも醒めてるみたいですし、そろそろ俺も宿舎に戻らなきゃ。あなたも、家に早く帰ったほうがいいですよ」
早口でそれだけ告げて、その場から離れようとしたとき――。
「待て」
手首を掴まれ、強く引き寄せられる。
「うわっ」
バランスを崩した私は、男の胸に向かって背中から落下した。
どうして、こうなるの! 離れるはずが、まさかのゼロ距離だ。さっきよりも密着することになり、耳が熱を持つ。いくら男装しているからといって、私も女だ。不可抗力とはいえ、男の腕の中にいれば恥ずかしくもなる。
「おいっ、大丈夫か? そんなに力を入れたつもりはねえんだけどな。医者に筋肉は必要ねえが、足腰は鍛えといて損はないぞ」
「は、はい……」
「言い忘れてたが、俺も委元には世話になったんだ。だから、なにかあれば頼れ」
「ありがとうございます」
それを言うためだけに呼び止めるなんて、意外と誠実なところもあるのかも。
男の評価を改めようとしていたら、お腹に回っていた腕がもぞもぞと動き出す。
そして、信じられないことに背中からぎゅっと抱きついてきた。その瞬間、頭の中で【男色】の単語が駆け巡る。
「お、男に興味ないって言ったじゃないですか!」
じたばたと暴れると、いっそう強い力で抱き込まれる。
「柔らかい……おかしい、女の感触だ」
おかしいのは、あんただよ! なんなんだ、この人! 抱きしめて性別判断するって、変態だ!
その腕の中から逃れようともがいていると、「あ! いたーっ」という声が聞こえて、私たちは同時に顔を上げる。前方から十四、十五歳くらいの男の子と、四十代くらいのガタイのいい男が走ってきた。
「もうっ、龍焔(りゅうえん)様どこに行ってたの? 僕たち、ずっと探してたんだよ?」
襟足の長い白髪とくりっとした銀の瞳。色白の肌をした可愛らしい顔立ちの男の子が頬をぷっくりと膨らませた。
「明翼(みょんりょく)、俺にもひとりの時間が必要なんだ。四六時中、追い掛け回すな」
鬱陶しそうにため息をつく男――龍焔さんに、今度はガタイのいい男のほうが前に出る。
彼はこの国ではあまり見ない褐色の肌に、茶色い髪をしている。頬の傷と顎の無精髭、鋭い橙の瞳はまさに百戦錬磨の戦士の風格があった。
「そうは言うが、お前は……」
「兆雲(ちょううん)」
龍焔さんはガタイのいい男――兆雲さんの言葉を遮った。それだけでなにかを察したのか、兆雲さんは口を閉じる。
異様な空気に圧倒されながらも、私は改めて明翼さんと兆雲さんを見る。明翼さんは薄い桔梗色の袴を身に着けていて、襟と腰に巻かれた帯は濃紺。背には弓と矢筒を背負っている。対する兆雲さんは虎柄のファーがついたえんじの袴姿で、帯ではなく皮のベルトのようなものを腰に巻いていた。背には長身の兆雲さんの背も悠々と超える槍。
ふたりの格好を見れば、武官であることは間違いなさそうだった。
「蘭、こいつらは宮殿で武官をしている俺の仲間だ」
龍焔さんが私を抱えたまま、説明してくれる。俺の仲間ってことは、この人やっぱり武官だったんだ。背中に当たる胸板が固いのも、筋肉がしっかりついている証拠。せっかく忘れていたのに、彼が男性であることを再び意識してしまう。つい俯くと、明翼さんが顔を覗き込んできた。
「初めまして! 僕は李(い ) 明翼だよ。蘭ちゃんって、この国の人?」
「あ、えっと……違います。この国に来たのは、三年前です」
「なんだ、だから知らないのか!」
納得した様子で手をぱんっと叩く明翼さんに、私は首を傾げる。
「知らないって、なにを……」
「あ……あー、陽煌国に来る前は、どこにいたの? 月栄国? 雪華国? それとも砂羅?」
そのどれでもない場合は、なんとお答えすれば……? 返事に困っていると、兆雲さんが明翼さんの口を後ろから手で塞ぐ。
「やめないか明翼。蘭殿、質問攻めにして申し訳ない。俺は誠(せい) 兆雲だ。よろしく」
人の好さそうな笑みを浮かべた兆雲さんからは、なんだかお父さんのような抱擁力を感じた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
お辞儀をすると、後ろから「そろそろ戻るか」と声がする。私が振り向く間もなく、龍焔さんの腕が両脇に差し込まれた。そのまま抱き上げられるような形で、立たせてもらう。
「龍焔さん、ありがとうございます」
龍焔さんのほうに向き直ってお礼を伝えると、不満げな顔をされる。
「〝さん〟はいらない。龍焔でいい」
「龍……焔?」
「ああ、それでいい。そのほうが対等って感じがすんだろ。俺に意見できる存在は貴重だからな。できれば、お前がそのままでいてくれることを願う」
すっと私の頬を手の甲で撫でた龍焔は、私に背を向ける。
「またな、蘭」
こちらを振り向いてにっと笑った龍焔は、片手を上げながら明翼さんと兆雲さんと一緒に去っていく。
変な人だったな。だけど、無性に心が引きつけられる。そんなカリスマ性みたいなものを持っている龍焔の背中を、気づけば私は見えなくなるまで見送っていた。
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