161人が本棚に入れています
本棚に追加
▼三章「同期の絆」
陽煌宮にやってきて、あっという間に一週間が経った。
寸さんの講義のあと、孔玉くんと蒼と一緒に外廊を歩いていると、前から試験生が三人歩いてくる。
「お、紅葉先生の一番弟子と尊家のご子息様じゃないですか」
そのまま通り過ぎるかと思いきや、試験生たちは私たちの前で立ち塞がった。
「コネで試験生の推薦状をもらえるなんて、羨ましいよな」
妬みだろう。確かに、私は目的のためとはいえズルをして推薦状を書いてもらった身だ。文句は言えない。
黙っていると、それをいいことに試験生たちの言いがかりに拍車がかかる。
「この間の試験だって、本当は試験に受かるように、お前たちだけあらかじめ答えを教えてもらってたんじゃないのか?」
言いがかりだ。医術において偽りを語るのは、委元への侮辱になると私は思っている。だから、あの試験では受かることよりも患者のことを考えて、真摯に取り組んだつもりだ。
さすがに黙っていられないと、前に足を踏み出したとき――。
「言いたいことはそれだけ? 俺、グズの戯言に付き合えるほど暇じゃないんだけど。それにさあ、自分たちの無知を棚に上げて、家柄を責めることしかできないとか、負け犬の遠吠えもいいとこだよね」
さすが孔玉くん。腕を組み、試験生たちをバカにするように鼻で笑って、悪態をついた。だが、なにもそこまで言わなくても。
「火に油だな」
私の隣で、蒼がぼそりと呟く。
これ以上、騒ぎが大きくなると唐九試験官に即刻退場させられそうなので、止めに入ろうと思っていたのだが、一歩遅かったようだ。
「いい気になりやがって!」
試験生のひとりが掃除の途中に忘れてしまったのか、廊下に置いてあった雑巾入りのバケツを大きく振りかぶった。
――げっ! 私はとっさに孔玉くんの腕を引いて下がらせる。その勢いで前に出てしまった私は、顔面から汚いバケツの水を受け止める羽目になった。
「く、臭い……汚い……」
ぼたぼたと髪から服から、水が滴り落ちる。それを見てケラケラと笑っている試験生に、怒りを通り越して呆れた。
――小学生か。まったく、風呂はただでさえリスキーだというのに、これでは入らざる終えない。余計なことをしてくれちゃって、勘弁してほしい。
「大丈夫か、蘭」
蒼が私の頭の上に載っている雑巾を取ってくれる。
「ありがとう。けど、雑巾よりも身体中の悪臭に耐えられそうにないです」
とほほ、と苦い思いをしていると、背後から「なんで……」と声がした。
振り返ると、孔玉くんが不機嫌そうに私を睨みつけている。しかも、怒りの矛先が私に向けられているような気がする。
「庇ってとか、俺、言ってないよね?」
「う、うん」
「バカなの!? 勝手に庇ったりして……」
声を荒げながらも、孔玉くんは目を伏せる。
もしかして、私が自分の代わりに濡れてしまったことを気にしているのだろうか。
でも、口を開けば『グズ』しか言わない孔玉くんが、ありえないか。きっと、『なに? 率先して濡れたいとか、そういう癖でもあるの? 気色悪っ』と言われるのがオチに決まっている。そう思っていたのだが――。
「でも、もっと救いようがないグズは、あんたたちだよね」
孔玉くんは私を貶すのではなく、試験生たちを睨みつけた。
「口で言い返せなくなったら、今度はバケツの水をかけてくるって、グズの極みだよ。覚えときなよ? このこと、唐九試験官に報告させてもらうから」
それを聞いた試験生たちは顔を見合わせて、途端に慌て始める。その様子を見た孔玉くんは口端を吊り上げて、黒いオーラを纏いながら試験生たちに歩み寄る。
「あんたたちからするにー? コネを使える尊家の俺があ、家の権力振りかざして、あんたたちを追放することもできるかもねえ?」
「ひいっ、こ、これは事故だっての! 行くぞ!」
慌ただしく尻尾を巻いて逃げていく試験生たちを見送ったあと、私はすうっと吹いた風に身を震わせる。
「今日はもう講義だけだ。風呂に入ってきたほうがいい」
蒼に促されて、私は鼻水をすすりながら首を縦に振る。黙っている孔玉くんが気がかりだったが、私は一度部屋に戻り着替えを手にすると大浴場へ向かった。
「はあああー……」
湯船に浸かり、盛大なため息をつく。
散々な目に遭った。浴場の扉には、念のため【清掃中】という張り紙をしたのだが、心もとないので早々に出たほうがいいだろう。
私はせっせと頭と身体を洗って、浴室を出ようと扉に手をかける。すると、なぜか自動で扉が開いた。
「清掃中って、蘭が入ってるのになんで――うわっ」
ぶつぶつと言いながら、中に入ってきた誰かと衝突する。私はその場に尻餅をつき、絶望的な気持ちで顔を上げる。そこにいたのは、私と同じく裸の孔玉くんだった。
「は?」
孔玉は私の裸を見て、固まっている。
「ちょっ……待って、どういうこと?」
私たちは数秒見つめ合い、そして――。
「女あああああああああっ!? ぐふっ」
私は自分の身体を隠すより先に、叫ぶ孔玉くんの口を手で塞いだ。……まではよかったのだが、つるっと足を滑らせてそのまま彼を巻き込み倒れる。私の下で「んーっ! んーっ!」と抗議している孔玉くんには申し訳ないが、そのまま言い募る。
「このことは見なかったことにして! お願いっ」
かくなる上は――と、私は近くにあった桶を振り上げる。頭を死なない程度に強めに殴れば、記憶喪失にできるだろうか?
焦りのあまりそんな考えが頭をよぎったとき、孔玉くんに手首を掴まれた。
「ぶはっ、俺を殺す気なの!?」
私の手を口から外させた孔玉くんは、顔を真っ赤にして、視線を逸らしつつ声を荒げる。
「バカなの!? あんた仮にも医者でしょ!」
「ご、ごめんっ、ちょっと都に来て早々に重大機密がバレてしまった動揺が……」
「あと、いつまでそんな恰好でいるつもり? 早く着替えなよ!」
「面目ない」
私は孔玉くんから離れて、いそいそと胸にさらしを巻き服に着替えると「大変申し訳ありません」と土下座をする。
孔玉くんは腰にタオルを巻き、仁王立ちしながらようやく私を見た。
「あんたがバケツの水被ったのは、俺のせいでもあるから、裸の付き合いでもして謝ろうと思って来てみたら……どういうこと? 女の身で宮廷医の試験を受けてるって知られたら、死罪もありえるんだよ? わかってんの?」
「は、はい……でも、どうしても私には、宮廷医にならなきゃいけない理由があるんです。だから、それを覚悟で来ました。孔玉くん、どうかこのことを秘密にしてくれませんか? お願いします!」
もうただひたすらに謝るしか、私には手立てがない。迂闊だった。自分の落ち度があとからあとから出てきて、嫌気が差す。
こんなに早くバレてしまうだなんて。これで委元の無念を晴らせなかったらと思うと、自分に対して怒りがわく。ぎゅっと拳を握り締めていると、孔玉くんはため息をつく。
「俺が黙ってたら、共謀罪になるじゃん」
「い、言いません! 孔玉くんが私の秘密を知ってることは絶対に!」
「……わかった。あんたには仮があるし、ここは黙っておいてあげる」
「そ、そうですよね。やっぱり試験官に報告して……え?」
絶対に上に報告されてしまうと思っていたのだが、耳を疑う答えが返ってきた。
きょとんとしていると、孔玉くんはムッとした表情で「なに? 突き出されたいの?」と言ってきたので、慌てて首を横に振る。
「でも、いいの? 理由とか、なにも話してないのに……」
「逆に話さないでよ? 俺はあんたの秘密は知らない、で通す。だから、これ以上、俺になにも吹き込まないで。わかった?」
「はい……ありがとうございます、孔玉くん」
「別に、じゃあ早く出てって。俺、風呂入るから。ノロノロしてないでよね、グズ」
私は孔玉くんに追い出されるようにして、大浴場を出る。なんというか、まだ試行が追いついていない。
「私、裸……見られたよね? 秘密、知られたんだよね?」
夢かと錯覚するくらい、あっさり見なかったことにしてくれた孔玉くんに戸惑いつつも、私は宿舎へ帰るのだった。
***
翌日、最悪なコンディションで私は試験に参加していた。バケツの水を被ったのが原因なのか、秘密を知られたショックからなのか、運悪く風邪をひいてしまったのだ。
「これより、第二回、宮廷医試験を行う! 同室の試験性と三人一組になり、配布する紙に書かれた薬を集める試験だ。薬の採取も立派な宮廷医の仕事だからな、心してかかれ!」
唐九試験官の話が終わると、私たちのところにも集める薬の一覧が書かれた紙が配られる。一覧に視線を走らせた孔玉くんがくるりと背を向けた。
「三人一組でとは言われたけど、俺、クズと仲良しごっこする気ないから。俺は上から五個目まで担当する」
「そうだな、手分けして探した方が効率がいい。俺は中間の五つを担当する」
賛同して、蒼もその場から離れようとしたので、私は慌ててふたりの手を掴む。
「ま、待っ――ごほっ、げほっ、げえっ」
「ちょっ、離してくんない? う、うつったらどうすんの? 責任とれんの? グズ!」
慌てて手を引っ込める孔玉くんの顔は赤く、それを横目に見た蒼はその額に手を当てる。
「お前も顔が赤いように思えるが? 熱でも出ているんじゃないか?」
「これは違うから!」
孔玉くんは蒼の手を振り払い、私をじとりと見る。なんだろう、一応マスクがわりに布を口に当てて頭の後ろで結んではいるのだが、菌をうつされそうで不愉快なのかな。
「あんた、そうやって誰にでも触るわけ?」
「え? いや、今のはふたりを引き留めようと思って、けほっ、しただけだよ。ごめん、風邪をうつさないように、極力触れないようにしますので……」
「そういうことじゃないから!」
孔玉くんは私の頭を拳でぐりぐりと痛めつけてくる。これでも病人だというのに、ひどい仕打ちだ。
「おい、試験は始まってる。俺たちも早く動くべきだ」
蒼に窘められて、私は本題を思い出す。
「そ、そうそう、三人一組で行動させたのには意味があると思うんです」
「どんな意味があるってのさ。まともな答えじゃなかったら沼に沈めるから、そのつもりでいなよ、クズ」
風邪をひいているのに沼に沈めるだなんて、なんたる鬼畜の所業。
「つ、つまりですね? バラバラで行動して解決できる試練なら、わざわざ三人一組にする必要はないと思うんです。一回目の試練みたいに個人戦でもいいかと。けど、そうしなかった。ということは、三人でないと乗り越えられないなにかがあるんじゃないかなあ……と、思いまして」
「一理あるな」
どうやら蒼は納得してくれたようだ。あとは孔玉くんの考えを知れればと窺い見れば、ため息をつかれる。
「まあ、あんたにしては冴えてるんじゃない? なら、さっさと行くよ。他の試験生ももう出ちゃってるし」
先頭を切る孔玉くんに続いて、私たちは歩き出した。
目的地は、ここから馬で一時間ほどの距離にある壁山(へきさん)だった。
一覧にある薬草を生息地から目星をつけて探していると、先ほどから孔玉くんが一番乗りで発見していることに気づく。
「止血作用のある治黄(じおう)、東帰(とうき)、巻草(かんそう)! 色鮮やかな花々よりも断然、きみたちのほうが美しいっ。この安らぎの緑が人を助けるんだねっ。なんて、なんて尊い……!」
しかも発見時のテンションがややおかしい。
「あれ、どなた様?」
衝撃的な光景を目の当たりにして放心状態でいると、隣にいた蒼は自分の鞄の中を漁りだす。
「混乱作用のある植物にでも触れたか。解毒薬を飲ませよう」
「いや、違うかと。目はしっかり焦点合ってるし、呂律も良好だし。あきらか、薬草オタク……なのでは?」
そういえば、この間の寸さんの薬学の講義で行われた小テストでも孔玉くんは全問正解していた。
「けほっ、孔玉くんは薬学が得意なんですね」
「そうみたいだな。俺は苦手だ。鍼なら自信があるんだがな」
蒼は苦い顔で採ったばかりの薬草に視線を落とす。
「へえ、蒼は鍼が……。俺は、どれが得意とかってないなあ」
「一回目の試験の首席がなにを言ってるんだ。それよりも……」
ふと蒼の手が私の頬に触れる。
冷たい……。そこで初めて、自分の体温が高いことを自覚する。
「どんどん顔が赤くなっている。解熱剤は飲んだのか?」
「はい、ちょっと前に……。けど、あまり飲みすぎると眠くなるから、量少なめにしたんです」
首をすぼめていると、「ちょっと!」という叫び声とともにぐいっと後ろから肩を引っ張られる。背中になにかにあたって振り返れば、そこには目尻を吊り上げた孔玉くんがいた。
「だからあんたはグズなんだよ! 近いから! もっと自覚しなよ!」
ああ、孔玉くんの声が頭に響く。
少し気が遠くなっていると、私たちの周りにある茂みがガサガサと揺れた。そこから、人相の悪い男たちがぞろぞろと出てくる。
肩に斧を立てかけている者、手に剣を握っている者。物騒な武器を持ち、こちらを舌なめずりしながら見ている男たちの身なりは薄汚れている。この感じ、覚えがある。流刑で仙の島に流れ着いた男たちは、皆このような目つきや格好をしていた。
「山賊か。逃げるぞ」
蒼は薬草を鞄にしまうと、警戒するように周囲に視線を走らせて腰を低くする。
「ひとりは病人だよ? この状況でどう逃げるって言うの!」
孔玉くんは山賊に目を向けたまま、私の手を握る。もしかして、一緒に連れて逃げてくれるつもりなのだろうか。こんな時に場違いだとは思うが、いつもグズグズ言われていたからか、感動してしまう。
「仕方ない。できれば手荒な真似はしたくなかったんだがな」
前に出る蒼の言葉に、私と孔玉くんの「手荒な真似?」と言う声が重なる。
「なにごちゃごちゃ話してんだ? さっさと金目のものを寄越せ! でねえと……」
山賊たちが「痛い目見せてやるぞ!」と襲い掛かってきた。
「お金置いて逃げるよ――って、なにしてんの!」
孔玉くんの声も聞こえていないのか、蒼は山賊に向かって駆け出す。
そして、あろうことか相手の斧を奪い、慣れたように山賊の武器を叩き落としたあと、うなじに手刀を叩きこんで気絶させていく。
「ぐはっ、き、貴様……何者、だ……」
「前職は、とある名家の用心棒をしていた」
そんな特技があったなんて。鍼が得意だって言ったのも、まさか武器を扱うのと同じ感覚でできるから、だろうか。
斧を振り回す蒼に唖然としていると、倒れていた山賊が短剣を投げた。それは真っ先に蒼へ飛んでいき、私と孔玉くんは「危ない!」と叫んだ。けれども、蒼は気づいていたらしい。なんなく身を捩って避けたのだが、その背後にいた山賊の腹部に突き刺さる。
「ぐっ、あああっ」
山賊がその場に倒れ込み、はっとした様子で蒼は駆け寄った。その隙にとばかりに、動ける山賊たちが仲間を置いて逃走していく。
「く、くそお、俺を……連れて、けよおお」
玉のような汗を額にかき、お腹を押さえて叫んでいる山賊。孔玉くんはそれを冷ややかな目で見下ろすと、山賊に背を向けた。
「早く行くよ。日暮れまでに薬を揃えないと失格になる」
「武器を持ったのなら、こうなることを覚悟していなかったわけではないだろう。あとで警安庁に報告しておこう」
蒼は斧を地面に放り投げると、孔玉くんの隣に並んだ。
「そうそう、自業自得」
「え……? 待って、この人をこのまま置いていくの?」
「どういう意味? まさか、あんた治療しようとしてる? 俺たちを襲った山賊でしょ。グズに構ってる時間ないから。試験、落ちてもいいわけ?」
孔玉くんは腕組みをして、呆れた視線を向けてくる。
「俺たちは医者なのに、命よりも試験を優先するんですか?」
「こいつらは無抵抗な者を襲った。因果応報だ。自分の罪の重さをこいつらは身をもって知るべきだ。でなければ、またこいつらは人を襲う」
蒼の口調は、信念のようなものが根底にあるような厳しいものだった。
「でも、この人を見捨てたら……。俺たちは、少なくとも俺は、その瞬間から医者ではなくなってしまう! きっとこの先も……この人を助けなかったことを後悔する! 医者の前では性別も立場も関係ない。命の重さは等しい」
そう言い切れば、ふたりは戸惑うように顔を見合わせる。それから、視線を落とすと、真っ先に孔玉くんが「あーもうっ」と声を上げた。
「やればいいんでしょ、やれば!」
私の隣に腰を落とした孔玉くんに続き、蒼も患者を挟むようにして向かいに腰を落とす。
「お前に言われるまで、忘れていた」
山賊の服を破り肌を露出させながら、蒼がぽつりと話し出す。
「俺も用心棒だからと、仕えていた人間に平然と賊が振りかざした剣の盾に使われてな。死にかけていたところを町医者に救われた。身分関係なく、救われた身だというのに、俺は医者とはなんたるかを忘れていたようだ」
「蒼……俺も考えが甘いんだと思います。けど、これが俺の信念ですから」
委元の『立派な医者になる必要は……ない。ただ、誰かに流される……な。信念を……貫ける医者で……いろ』と言う言葉を思い出しながら、私は山賊の腹部を見る。
「ちょっと、お腹を触りますね」
私は腹部を手で徐々に押していき、しばらくして急に離す。
「押したところ、痛くないですか?」
「き、傷のほうが痛え……」
山賊は荒い呼吸で答えた。
「腹壁も固くないし、内臓も脱出してない。吐血も下血もない。刺さったのが短剣だったから、傷は浅い。胃と結腸、膵臓に損傷はないみたいですね」
刺さった短剣を引き抜きたいけれど、大きな動脈をかすりでもしていたら危険だ。なので蒼を見ると、私の意思を汲むように首を縦に振る。
「俺は止血作用のある后渓(こうけい)、臨泣(りんきゅう)、通告(つうこく)、前谷(ぜんこく)に鍼を打つ。孔玉は――」
「俺に命令しないでよね。俺は邪気を鎮める柴生膏を作る。短剣が汚染してたら、そこから破傷風を起こすかもしれないし」
破傷風、傷口から邪気――菌が入って起こる病気だ。高熱、痙攣をおこし、重傷であれば数時間で死に至る。だから、こういった切り傷はまず感染症への治療がされる。
「ふたりとも、ありがとう」
私はふたりの準備が整うと、短剣に手をかける。そのとき、くらりと眩暈がした。熱のせいだろう。
私は深呼吸をして、意識をしっかりと保つ。
「引き抜きます」
「慎重にね」
孔玉くんの注意に頷きつつ、私はバクバクと鳴る心臓を深呼吸で宥めながら、ゆっくり慎重に短剣を抜く。
すると、ぶわっと血液が傷口からあふれ出る。山賊は「ぐああああっ」と痛みに悲鳴をあげ、私は直接圧迫して止血する。
――落ち着け、想定の範囲内だ。
「孔玉くん、止血作用のある薬は――」
「さっき採った治黄、東帰、巻草で作った。さっさと止血するよ」
私たちは額にびっしり汗をかきながら、止血すると私はいつも持ち歩いている朱塗りの小さな道具箱から針と糸を取り出す。
「蘭、なにをするつもりだ」
私の手元を見た蒼が驚愕の表情を浮かべ、強い力で私の腕を掴む。
忘れていた。仙の島では当たり前にやっていたが、この世界の医療は鍼と灸、薬物治療が基本。委元から教わった外科手術は、おそらく私以外の誰にも継承されていない。
「それで傷口を縫うつもり!? こんなときに冗談とか、笑えないから!」
「本気だよ、孔玉くん。だから蒼、合谷に鍼を打って」
私の動きを封じたままの彼を見ると、眉を寄せられる。賛成していない、そんな顔だ。
「麻酔作用はあるが、それだけでは補えない。人の身体に侵襲があるとわかっていて、手を貸すことはできない」
「傷をよく見て。深さは浅いけど、範囲が広い。これじゃあ、綺麗に皮膚がくっつかないんです。今は一刻を争います。すべて、俺がやったということにして構いませんから、手を貸して!」
強い口調で頼み込めば、私に気圧されたようにふたりは黙り込む。
それから苦渋の決断だったのだろう。やけくそとばかりに、蒼たちは手を動かした。
「けほっ」
私は患者の痛みが鈍麻すると、縫い目の感覚を均等に皮膚を縫合していく。
このとき、いつも世界の音が遠ざかる。熱でぼんやりとしていた頭が嘘みたいに冴え渡る。糸が皮膚を通過し、縫い合わさる感覚。それだけに神経が研ぎ澄まされていくのだ。
「よし、これで創部の縫合止血は終わり」
パチンッと糸を切ると、私はひと息つく。それから治療に耐え抜いた山賊の肩に手を載せて、笑みを向ける。
「感染しないようにする薬と痛み止めの薬を渡しておきます。それから、傷の具合見て抜糸するので、一週間後に陽煌宮の内医院に来てください」
「ちょっと! なに勝手なことしてんのさ、グズ! こんな治療したって知られたら、死刑にされるよ、死刑!」
私の肩をグイッと後ろから引いて、怒る孔玉くんに「ごめん」と謝る。
「でも、俺は信念を貫ける医者で在りたい。それが師匠との約束だし、俺自身も、師匠が見つけたこの外科手術は正しいって信じてるから」
「あんた……」
「なにも恥じることはない。私が恥じちゃいけない。それでも裁かれるっていうなら、そのときは仕方ないかなって」
迷わず言い切れば、孔玉くんは目を見張った。そんな彼から、私は山賊に視線を移す。
「内医院で俺――紅葉 蘭を呼んでくれれば、対応しますから」
「あ、ありがてえ。ありがてえ。すまねえ、さっきあんたらに襲い掛かったりして。この恩は忘れねえからよ」
こうして山賊を町の医院まで案内すると、孔玉くんと蒼は道端にぐったりと座り込む。
「あーあ、出世が遠のいた。お人好しの誰かさんのせいで」
恨めしそうにこちらを見る孔玉くんだったが、その表情はどこか晴れやかだ。
蒼も後悔がないというような顔をしている。
私はふたりに、すっと手を差し出した。
「まだ、間に合いますよ」
「だが、もう日が傾いている」
空を仰ぐ蒼は、完全に諦めモードだ。
「行ってみてダメならしかたないけど、行く前から諦めるのはもったいないですよ!」
私は一向に立ち上がらないふたりの手を強引に握る。
孔玉くんは繋いだ手を見てぎょっとしていたが、すぐに顔を真っ赤にして抗議してくる。
「ま、間に合わなかったら、落とし前どうとってくれんの?」
「えーっと、ご飯奢るっていうのはどうでしょう?」
試験の間、患者の治療をしているので陽煌宮から給金が出ている。それも仙で働いていたときより、うんと高額。委元と生活していたときは無償の治療のほうが多く、貧乏生活だったので、お金の使い道に困っていたころだ。奢るくらい、なんてことはないだろう……たぶん。いや、妓楼とかで豪遊されたらどうしよう。いろいろ不安だが、致し方ない。
「そうと決まれば、話している暇はない。走るぞ」
「うん! それじゃあ、いこ――」
行こう、と言おうとしたとき、蒼が私と孔玉くんを小脇に抱えた。
私と孔玉くんが「え?」と同時に声を発すると、蒼は「口を閉じていろ。舌を噛むからな」と言って、全力疾走した。
無事に日暮れまでに陽煌宮に到着した私たちは、他の試験生がいないことに気づき、顔を見合わせた。
そこへ、唐九試験官と寸さんがやってくる。
「いちばん乗りは、お前らか」
「異例の事態に巻き込まれましたのに、優秀ですね」
ふたりの言葉の意味がわからず首を傾げていると、唐九試験官は面倒そうに頭を掻きながら説明してくれる。
「お前たち、山賊に遭遇しただろ。あれは、俺たちが用意した試験だ。今回、薬を揃えるという目的を果たすために、俺たちが用意した患者を見捨てても、時間内に薬を集められなくても失格だった」
「あの盗賊たちの中に、急病で倒れてもらう予定の患者役がいたのですよ。でも、演技のはずが本当に事故が起きてしまいました。山賊役の方に短剣が刺さってしまうなんて……」
「朴 蒼、お前が用心棒だったとは、俺らも想定外だったぞ……」
疲れの滲んだ面持ちで、じとりと蒼を見る唐紅試験官。どうやら蒼が本気で対峙してきたので、山賊役の人間も死にもの狂いで応戦せざるおえなかったらしい。それで起きた事故のようだ。
「私は山であなた方の試験の監督をしていたんです。本来であればあのとき、私が出ていくべきだったのでしょう。ですが、あなたたちの腕前も見たかった。治療が不可能だと判断した段階で、試験を中断させるつもりでした。でも……」
寸さんは私たちの顔を見回して、ふっと微笑む。
「見事な腕前でした。そして、仲間を信じたところも、合格点です」
「寸試験官、あの場にいたということは……蘭のあれも見た、ということでしょうか」
緊張した様子で蒼が尋ねると、寸さんは遠い目をして答える。
「私も先生のことを信じていますから」
その言葉に、胸がじんとした。唐紅試験官のも耳にも私の治療のことが入っているのか、意味深な眼差しを向けてくる。
けれど、追及されることはなかった。むしろ話題を変えるように唐紅試験官は「それにしても」と苛立った様子で舌打ちした。
「今回は試験生の半分以上が試験を達成することばかり考え、患者を見捨てやがった。正直、幻滅だな。患者を見捨てた阿呆は、ここで全員失格だ」
それを聞いた孔玉は身震いをすると、小声で私に話しかけてくる。
「これはあんたと同じ組でよかったかも、クズだけど」
「いや、いちばんの功労者は蒼ですよ。人間をふたりも抱えながら、物凄い速さで走ってくれましたし」
「それを言うなら全員でいいんじゃないのか。誰が欠けても、この結果は得られなかった」
私たちは顔を見合わせて、合図をしたわけじゃないのにハイタッチをする。
そこで限界がきたらしい。グラリと身体が傾き、顔面から地面に突っ込みそうになったとき――。二本の腕が後ろから両脇に差し込まれ、身体を支えられる。孔玉くんと蒼だ。
「手間かけさせないでよね、グズ」
「部屋まで送る」
ふたりの存在が頼もしくて、私の目にはじわっと涙が浮かぶ。
「ありがとう」
ふたりと同室になれて、本当によかった。
最初のコメントを投稿しよう!