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▼四章「奴隷船」
数日後、体調がよくなった私は試験通過を祝して孔玉くんと蒼と一緒に酒場に来ていた。ほどよく酔いも回り、私たちはいつもより高いテンションで話す。
「ここ、蘭が奢ってくれるんでしょ。財布の中、空っぽにするつもりだから覚悟しなよね」
孔玉くんが謎の絡みをしてくる。相当、酔っているようだ。
「それ、もしも試験時間内に陽煌宮に戻れなかったらって話じゃなかったでしたっけ?」
おかしいな、記憶違いでなければ私が奢る義理はないはず。そんな私たちのやり取りを見ていた蒼は、初めてふっと笑みを見せる。
「俺にも奢ってくれるのか、ならば遠慮はしない」
「蒼まで!? 味方してくれると思ってたのに! ひどいですよおー」
お財布がすっからかんにならないかが心配だ。机に突っ伏す私に、孔玉くんはムッとした様子で頬杖をつくと、お銚子を手にしたまま人差し指を向けてくる。
「ていうーか、なんでまだ敬語? あと、蒼だけ呼び捨てなのに、俺だけくん付けの意味わかんないんだけど?」
「歳もそう変わらない。敬語はやめないか」
「え、蒼って俺たちよりもっと上じゃないの?」
蒼は長身でがたいもいい。見てくれのせいで年長に見えるのだ。私も驚いていると、「俺は二十歳だ」と答えた。
「俺とふたつしか変わらないのに、なんでこんなに成長度合いが違うわけ!? 不公平なんだけど!」
「身長のことを気にしているのか? それとも童顔か? どっちも若く見られて得だと俺は思うが」
「ねえ、気にしてることズバズバ言わないでよ、このノッポ!」
ああ、蒼が孔玉くんに絡まれている。なんというか、孔玉くんは酒が入ると、いろいろ面倒くさい。蒼はまだぐちぐち文句を述べている孔玉くんの口につまみのイカを突っ込み、私のほうを向く。
「蘭は孔玉と同じくらいか?」
「あ、私は三十……十七かな」
危ない、うっかり本当の歳を言いかけた。
冷や汗をかきながら笑ってごまかすと、イカを飲み込んだ孔玉くんが「どんな間違い方してんの、グズ!」と、罵ってくる。
この人が酔っていてよかった。
ただでさえ女であることを知られているので、素面ならあれこれ詮索されそうだ。
なので私もつまみの卵焼きで孔玉くんの口を塞いだとき、酒場にいた男性客が「おおっ」「別嬪だな」と騒ぎだす。
何事かと入口に視線を向ければ、綺麗な女性を連れた龍焔が立っていた。
「あの人、なんでこんなところに?」
じっと見ていたからか、龍焔と目が合った。
その瞬間、ぱっと瞳を輝かせ、女性の肩を抱きながら私たちの席へやってくる。
孔玉くんと蒼は龍焔を見た途端、背筋を伸ばして頭を下げた。
「え?」
かしこまっているふたりを見て不思議に思っていると、孔玉くんが私の頭をガシッと掴んで無理やり下げさせる。
「なにしてんの! 王子に失礼でしょ!」
「え……」
――王子!? 武官の間違いでしょう!?
耳を疑い、私は確認するように龍焔を見る。
「ここにお前がいたとは、誤算だったな。俺を知らない相手は貴重だったってのに、残念だ。改めて、俺は武官じゃなくて第一王子だ。騙して悪かったな」
「蘭、龍焔王子と面識があったのに今まで気づいてなかったの? やっぱクズ」
孔玉くんが半目で私を見るけれど、思考が追いつかなくて返事ができない。
「医者としては優秀なのにな、こういうときは鈍いのか」
蒼まで私をからかうけれど、頭の中は龍焔のことでいっぱいだった。
確か、陽煌国は世襲制だったはず。ということは、第一王子である龍焔は、委元を陥れた龍芽国王の息子になるということ?
事前に情報を収集してはいたけれど、日本とは違い写真もネットもない。一介の試験生では宮殿への出入りは許されていないため、顔までは特定できなかったのだ。とはいえ、最初に龍焔の名前を耳にしたときに、どうして息子かもしれないって考えなかったんだろう。
委元を殺した人間の血縁者が目の前にいる。許せない気持ちが胸にわきあがるが、今は噴火するときではないと我慢する。
「お前たち、今日は王子ではなく龍焔としてここにいるんだ。あまり、『王子、王子』連呼しないでくれると助かる」
「あの、顔を隠さなくても、よろしいのですか?」
蒼は周囲を気にするように店内に視線を向けつつ、龍焔に問う。
「コソコソするほうが目立つ。堂々としてるほうが他人の空似だと思われやすいし、案外気づかれねえもんなんだよ」
龍焔王子は委元を殺した盗賊を必ず牢にぶちこんでやると言ってくれた。それがせめてもの、俺ができる恩返しだからと。あの言葉は、私が委元の義理の息子だとわかって、勘繰られないための嘘? 父親の罪を明るみに出さないための演技である可能性もある。
「それにしても、俺としては、もう少しお前の反応を見ていたかったんだがな。だが、これからも友として気さくに接してくれよ、蘭」
龍焔が私を見る。視線が交わると、全身の血が沸騰するような怒りが込み上げてくる。
友として? 無茶言わないで。委元の仇の息子と友になんてなれるはずがない。
龍焔が父親のしでかしたことを知っているかどうかはわからないけれど、知らないことすら許せなくて、私はすっと目を逸らす。
「蘭……?」
しまった、今のは不自然だった。自分の感情を抑えられなかった。案の定、龍焔が眉を寄せる。私は慌てて作り笑いを返そうとしたのだが、視線を感じて龍焔の隣にいる女性を見た。艶やかな梅色の髪と緑の瞳、豊満な胸を強調する桃色の着物。きめの細かい乳白色の肌は手触りがよさそうで、ふっくらとした赤い唇はまるで果実のようだ。
「あなた……」
不思議そうにしている美女の動きに合わせて、私も首を傾ける。なんで、こんなにまじまじと見られているんだろう。思考を巡らせているうちに、ふと思い当たる。
もしかして、女だって気づかれた?
その考えに至った私は、彼女が先に口を開く前に話しかける。
「び、美人ですね! 龍焔が羨ましいな。お、俺もこんな美人と一緒に街を歩きたいよ。あははは……」
「蘭、お前は妓楼に興味がないんじゃなかったか?」
そういえば、そんな話を酔っぱらっていた龍焔としたような気がする。
覚えてたんだ、あんな雑談。
「花楽院一の妓生、楪(ゆずりは)だ。花楽院は身体ではなく芸事を売る」
龍焔に紹介された美女――楪さんは優雅にお辞儀をする。それに、店にいた男たちがはあっと切ないため息をつく。無論、私の同期二名の視線も釘付けだ。
「楪です。興味がおありでしたら、花楽院にぜひ遊びに来てくださいな。龍焔様のお客様なら、私たちのお客様でもありますから」
孔玉くんと蒼が頬をほんのり赤く染め、「えっ」と期待に満ちた顔をしている中、私はお銚子の中で揺れている酒に視線を落とす。
知り合った人間がまさか、敵の息子だったなんて……。私は龍焔とどう接すればいいのだろうか。
来たるべき時が来るまで、ただの試験生として振る舞う。宮廷医になり、龍芽国王に近づく。そのために龍焔の存在は必要不可欠。仲良くなっておいて損はないが、近づきすぎればそれだけボロが出る可能性もある。
宮殿で、私の味方は寸さん以外いない。
今の時点でこんなに動揺しているのだ。女であることを知られたことといい、もっと慎重に動かなければ。やっぱり、今日は退散しよう。
「眠くなってきてしまったので、帰ります。お金はここに置いておくので」
私は少し多めにお金を机の上に置き、席を立つ。
「もう帰るのか?」
残念そうに見上げてくる龍焔に変に思われないよう「また誘ってください」と社交辞令を返し、酒場を出た。
お店の外に出ると、火照った身体に夜風が心地いい。陽煌宮に向かって夜の町をひとりで歩いていると、背後から誰かが駆けてくる足音が聞こえた。振り返れば、龍焔がいる。私を追いかけてきたようだ。
「間に合ったな。どうしたんだよ、蘭」
「どうしたって?」
不自然に席を立ったことを言っているのだろうことは察しがついたが、追及されてもうまく返せる自信がなかった私は、しらばっくれる。すると、龍焔の目がすっと細められた。
「俺が王子だって知ってから、様子がおかしかっただろ」
鋭い。まさかその時点から怪しまれていただなんて。私は心まで見透かしてしまいそうな龍焔のまっすぐな瞳から目を背け、引きつりそうになる顔に無理やり笑みを張り付ける。
「明日も早いし、そろそろ帰りたいなって思っただけですよ。だけどほら、帰りづらくて」
「そんな早口かつ棒読みで、この俺が信じると思うか?」
「そんなこと言われましても。というか……なんで私のことなんて追いかけてくるんです? お連れの方は、置いてきてしまっていいのですか?」
もしかして、私がどこまで龍芽国王のことを突き止めたのか探ってる?
わざわざ追いかけてきたくらいだ。龍焔は私の素性を知っているのかもしれない。
「なんだ、俺は友の心配もできないほど、薄情な男に見えるか?」
咎めを含んだような口調。不服だと言わんばかりに寄せられた眉。どこか怒った様子で、私を見る彼に目を瞬かせる。
「……心配、してくれてるんですか?」
どういう魂胆? それとも本当に心配してくれている? ああ、疑うのって、嫌だな。
複雑な気持ちが、声に現れていたのかもしれない。龍焔は私に一歩近づき距離を縮めてくると、顔を覗き込んでくる。
「お前、様子がおかしいぞ」
「……疲れただけです。病み上がりだったので。それじゃ、私はここで……」
早く退散しなければ。龍焔は王子ゆえか、人の感情の機微に鋭い。私はそそくさと彼に背を向けて、歩き出したのだが──。
「送る」
後ろから手首を掴まれ、隣に龍焔が並んだ。
「俺は男ですよ。ひとりで帰れます」
「可愛げのないやつだな。俺はお前の俺に対して物怖じしないところが気に入ってる。でも、今日はわかりやすいくらい目を見ねえだろ。本調子じゃないお前をほっておけない」
こちらの意思はお構いなしに、龍焔は私の手を引きながら陽煌宮まで送ってくれる。
そして、龍旋門を潜ろうとしたときだった。
「龍焔王子……と、蘭さん?」
背後から聞き覚えのある声がして振り返る。そこには、寸さんが立っていた。寸さんは龍焔に恭しく首を垂れると、私たちのところまで歩いてくる。
「寸か、宮廷医がこんな時間までどこへ行っていた? 寸みたいな男でも、夜に飲み歩くことがあるのか」
からかいとは違う、どこか挑発的な言い方だった。人に好かれやすそうな、物腰の柔らかい寸さんが嫌われる理由が思い浮かばないが、少なくとも龍焔の口調はあまり友好的ではない。
「ええ、旧友に会っておりました。龍焔王子たちは、どちらへ?」
「俺たちのことが気になるか? なに、今日はただ飲んでいただけだ。安心しろ、いきなり寝首を掻いたりはしねえ」
──寝首を搔く!?
不穏な単語が耳にこびりつくみたいに残る。ぴりぴりとした空気に完全に委縮していると、寸さんの気遣うような眼差しが向けられた。
「蘭さん、大丈夫ですか?」
「あ……」
きっと、私が敵の身内である龍焔といて辛い思いをしていないかを心配してくれている。
それに少しだけ肩の力を抜き、私は寸さんに小さく笑みを返す。
「ありがとうございます、寸さん……なにからなにまで」
この王宮に来れるようにしてくれたのも、試験生であるうちは純粋に学ぶことを楽しんでほしいと言ってくれたことも、私の身を案じてくれたことも。
委元の娘だという理由だけで、ここまでしてくれる彼には感謝してもしたりない。
「蘭さん、近々時間をとれますか? お伝えしたいことが」
「あっ、なら今お願いします」
繋いでいた手を振りほどき、私は寸さんに駆け寄る。振り返れば、龍焔はなにも言わず、その場を離れる私と寸さんを見送っていた。
誰かに聞かれるとまずい話なのか、寸さんは私を内医院の裏手まで連れてきた。
「蘭さん、龍焔王子にはお気をつけください」
「えっ……」
先ほどまで一緒にいた相手の名前が寸さんの口から出ると、一気に緊張感が高まる。
おそらく、私も寸さん同様に彼を警戒していたからかもしれない。
「龍焔王子は委元先生の息子――威安(いあん)さんと親しくしていました」
「十七歳で亡くなったっていう……?」
確か、前に寸さんが宮廷医として働いていたのだと話してくれた。委元が龍芽国王に王弟の龍辱様を殺すようそそのかされたとき、命令に従わなかったがために、ご子息も奥方も殺されたのだと。だから委元は、今度は自分が抹消されることを危惧して宮殿から姿を消した。
「そうです。龍芽国王の命で威安さんに近づき、信頼させて油断を誘うと手にかけた。龍焔王子の部屋から、威安さんを殺したときに使ったとされる凶器が出てきたと証言も上がっています」
「そんなっ……でも、それだけじゃ証拠には……」
誰かが龍焔に罪を被せようとして、凶器を置いた可能性もある。決めつけるには早計な気もするが、聡明な寸さんがそう言うのだ。なにか根拠があるのだろう。
「威安さんが死んだとき、そばにいたのは龍焔王子なんです。他に人はおらず、発見したときには威安さんの亡骸を龍焔王子が抱きかかえていた」
委元がいちばん信頼してた寸さんの言葉なら、きっと嘘じゃない。でも、龍焔の『なんだ、俺は友の心配もできないほど、薄情な男に見えるか?』という声が脳裏に響く。
人を殺すような人間には思えない。だけど、そういう人こそ犯罪を犯すのかもしれない。私に近づいたのが、国王の差し金だったとしたら……。思いつめる私の両肩に、寸さんが手を乗せる。
「くれぐれも気をつけてください。あなたはひとりではないことを覚えておいてください。私はあなたの味方です」
「ありがとうございます、寸さん」
「いいえ、宮廷医なら王様にも近づける。できる限り、私も王様の身辺を探りましょう」
危険なことばかり、寸さんにさせてしまっている。私も早く宮廷医になって、自分で王様のことを探らないと──。
***
翌日、私はひとりで内医院の薬室に残り、昼間に受けた講義の復習をしていた。
龍焔のこと、国王のこと、考えなければならないことは山ほどあるが、私は試験生だ。勉学も疎かにはできない。
それにしても、さすがは都。仙の島とは違い薬草も豊富。今日の授業で取り扱った解毒薬である灯連解毒湯(とうれんげどくとう)は、灯連と呼ばれるホオズキに似た色と形をした植物を使う。
だが、良薬口に苦しとはよく言ったもので、灯連は煎じ薬にする前に苦味を取らなければ、とてもじゃないが飲めたものではない。
そして、その薬草処理が難しく、先ほどまで孔玉くんの個別指導を受けていたのだが、いつまでも突き合わせるのは申し訳ないので、今はひとりで激苦の灯連と格闘中だ。
「百度を超える熱湯の中に灯連を入れて、三回かき混ぜたらすぐに引き上げる」
私は薬窯(くすりなべ)の中から灯連を取り出すと、苦み成分がたっぷり出た鍋の湯を一度捨てる。処理をした灯連を新しい湯で煎じると、味見皿で苦味の確認をする。
「うげっ、にっがーい!」
なんで? 工程も分量も間違えていないはず。それなのにどうして、苦味が残っているのだろう。そもそも三回かき混ぜたら引き上げる、だなんてアバウトすぎるのだ。
味見皿の中にいる橙色の物体を睨みつけていると、背後からぶっと誰かが吹き出す声が聞こえた。弾かれるように振り返れば、そこにいた男――龍焔は戸口に寄りかかりながら片手を上げる。
「よう、蘭。昨日ぶりだな」
――龍焔が委元の息子を殺した。
彼の顔を見た途端、昨日寸さんから知らされた事実を思い出す。
どんな顔をして話せばいいのだろう。
親であり師匠の仇である男の息子を前に、複雑な感情が胸で渦を巻く。
「花楽院の楪、覚えてるか?」
話しかけられて反射的に視線を逸らすと、王子相手に失礼な態度をとったのにも関わらず、龍焔は私のところまで歩いてくる。
この距離で返事をしないのはさすがに不審がられるので、私は心を決めた。
「はい、昨日の今日ですからね」
なぜ、唐突に楪さんの話を? なにげない会話を装って、私と寸さんのことを探ろうとしている? 寸さんと会っていたところを見られたのは、まずかったかもしれない。すでに、なにか勘ぐって接触してきたのかも。
警戒しながら龍焔を見ていると、無理やり手を掴まれる。
「――やっ、やめて!」
とっさにその手を振り払えば、龍焔は手の甲をさすりながら私を真顔で見つめ返す。
「落ち着け、今日は楪に呼ばれていてな。お前もついてこい。こんなところに箱詰めになっていても、作業はいいほうには転ばねえぞ」
「……は?」
てっきり、寸さんとの関係を問い詰められるのだと身構えていたのだが、ここでなぜ花楽院が出てくるのだろうか。
私が口をぽかんと開けて拍子抜けしていると、龍焔は腕を組みながらくっくっくと喉の奥で笑う。
「お前の反応は面白ぇな。考えてることが顔にもろに出る。これじゃあ、刺客には向かねえな」
なにげなく龍焔の口からこぼれた『刺客』の単語に、緊張感が走る。
近づきすぎれば、私の目的が暴かれてしまうかもしれない。適度な距離感をとるべきだ。
「復習はこれで終わりにするところだったんです。すみません、明日も早いので、俺は宿舎に戻ります」
作ったばかりの解毒薬――灯連解毒湯を道具箱に詰め、そそくさと薬室を出ようとしたのだが、後ろから伸びてきた腕が首に回る。
「おっと、逃げられると思うなよ? 蘭」
で、ですよねー……。
こちらの意思は完全無視で、龍焔は私を引きずるようにしてに花楽院へと連行した。
徒歩で十五分。灯篭に照らされた大橋を渡り、赤を基調とした外壁や屋根からなる花楽院へとやってきた。内装は金装飾がふんだんに使われ、妓生たちも高価な絹の着物を纏い、煌びやかな雰囲気に包まれている。
「龍焔様、蘭様もご足労感謝いたします」
私たちは個室に案内され、座敷に腰を下ろすと楪さんに酒を注いでもらう。
私、かなり場違いなところにいる気がする。
花楽院の華やかな空気にのまれていると、目の前で龍焔が楪さんの肩を自然に抱く。さすが、『俺にとって恋愛は遊び、結婚は契約だ』発言をしただけのことはある。ここまで堂々と恋愛を謳歌されると、いっそ清々しい。
「それで楪、例の件だが、話してくれ」
例の件?と首を傾げる私を置いてけぼりに、楪さんは目を伏せると憂いを滲ませた表情で重い口を開く。
「最近、妓生がかどわかされる事件が起こっているのです。この花楽院からも、何人か妓生が行方不明になっています」
「えっ、それって警安庁には相談したんですか?」
「はい。ですが、卑しい身分の妓生がいなくなったところで警安庁の警吏は動きません」
この世界に来て知ったのだが、陽煌国には通常の民衆である良民と官僚や要職に就いている華人(かじん)、奴隷や妓生などの賤民(せんみん)と呼ばれる三つの階級が存在する。
仙の島にいた警吏もスリに遭おうが、人が死のうが、民のいざこざに、いちいち首は突っ込めないと言って仕事を放棄していた。
「すまない。警安庁の警吏も華人しかなれない職だからな。本来であれば、志の高い者が正式な試験を踏み、警吏に就ければいんだが……これじゃ、質が悪くなる一方だ」
悔しげに顔をしかめる龍焔に、楪さんは静かに首を横に振った。
「龍焔様は十分、民に尽くしておいでです。身分関係なく宮廷医を目指せるよう国王にかけあっていたではありませんか」
「え……そうなんですか?」
確認するように龍焔を見れば、小さく頷く。
「だが、王子の立場ではできることに限りがある。この国の民が身分、性別関係なく、就きたい職を選べる。そんな世の中に俺はしたいんだがな。そうすれば、もっと優秀な人材が集まるってのに」
宮廷医の受験資格が今も華人でなければ受けられない決まりになっていたとしたら、私はこうして宮殿に来ることも叶わなかった。
この話だけを聞けば、龍焔が意味なく委元の息子を手にかけるような真似はしないように思える。だがこれも、私を信用させる龍焔の策だったら?
そう疑念を抱いたとき、隣の部屋から「このあとも、俺たちの相手をしてくれるんだろう?」という下卑た男の声がする。
楪さんは隣の壁を見やって、すぐに申し訳なさそうに頭を下げた。
「夜伽の相手は花楽院では御法度です。ですが、お金のため、隠れてしている者もいるのが現状。お耳汚しを失礼いたしました」
「いや待て。そうして男たちの策にのり、花楽院を出た妓生が攫われているとは考えられねえか?」
龍焔は声を潜めて自論を述べると、お銚子に口をつける。
「行方不明になった妓生は奴隷市場にでも売られているのかもしれねえな。男たちをつけてみるか。蘭、悪いが一緒に来てくれ」
「――お、俺ですか?」
剣も握れない私では逆に足手まといになりそうなのだが、なぜここで自分の名前が出てくるのかがわからない。
「連中のあとをつけるぞ。犯行を犯したところで、やつらを捕らえる」
龍焔は立ち上がり、壁に耳をつけた。隣の部屋の動きを探っているのだろう。
私は彼を見上げ、小声で懸念を口にする。
「待ってください、それじゃあ隣の部屋にいる妓生が危険では? もし、助けに入る機会を逃したら……」
「言い逃れをさせないためだ。男たちが妓生を攫ってどこへ連れていくのか、根城も特定する必要がある」
つまり、妓生を囮にするということだろう。
「その根城を見つけるまでは、妓生が怪我をしても助けに入れないってことですよね?」
「場合による。当然、黙認できない範囲の暴行を働けば、根城を突き止めるより妓生の安全を優先する。だが、お前の言う状況に陥る可能性も、もちろん否めない。だから、蘭を呼んだんだ」
救護要員ということだろうか?
であれば、もっとベテランの宮廷医を連れてくるべきだ。私はこのような事態を経験したことがないし、ヘマをしかねない。
「行方不明になった妓生は、乱暴を受けている可能性がある。その手当ては、華奢で女顔のお前が適任だろう」
それって、男性に乱暴された妓生を怖がらせないために? 龍焔はそこまで妓生のことを考えて、私を……。自分が連れてこられた理由が腑に落ちて、私は心を決める。
「でしたら、俺に案があります。犯行を確認してから捕まえるんじゃ、妓生が怪我をするやも。俺が女装して男たちに攫われればいいのでは?」
「なにを言ってやがる。それだと、お前が怪我をするかもしれねえだろ。大事な宮廷医の卵に、そんな危険な真似はさせられない」
「俺は男です。多少怪我をしようが、問題ありません。でも、妓生は女性で、しかも美しさを売る仕事です。怪我ひとつで生きる術を失うかもしれない」
もし、自分が手を負傷し、もう二度と鍼を持てなくなったとしたら。私は委元から授けてもらった生きるための力も、託された思いも、幼い頃から夢見ていた医者という仕事も、なにもかも失うことになる。
「男も女も関係ない。お前は守られるべき民なんだぞ。ここでじっとしてろ」
「俺は大丈夫です。ほとんど毎日、薬草採りに山に登ってるし、逃げ足も早い自信があります。少なくとも、ここの妓生よりは逃げられる可能性は高い」
龍焔は口をつぐんだ。静かに目を閉じ、黙考している。龍焔の決断を待っていると、静かに開かれた瞼から月光色の瞳が現れ、まっすぐに私を見据えた。
「わかった。力を貸してくれ、蘭」
悩んだ末、龍焔は私が囮役をすることに賛同してくれた。楪さんから化粧をしてもらい、深紅色の絹の着物を身に着ける。袖には今にも空に羽ばたかんとするかのような金糸の鳥の刺繍が施されている。
「これは……驚いたな」
別室で着替えて、最初に案内された部屋に戻ってくると、恍惚とした表情で龍焔は私を眺める。まともな化粧なんて、異世界に来る前からしていなかったので、そう熱心に見られると気恥ずかしい。
「穴が開きます。それ以上はご勘弁を」
私は両腕を上げ、袖で顔を隠した。
「悪いが、それは聞けない。もったいねえだろ、綺麗なのに」
「は? 綺麗……ですか?」
空耳だろうか。男として接してきた相手に、綺麗だなんて。
呆気に取られていると、龍焔がさりげなく私の腰を抱いた。まるで壊れ物に触れるかのように優しい力加減で、完全に女性に対する扱いだった。
「今のお前なら、抱けそうだ」
「俺は男です!」
「だが、この腰なら男でもいける気がするぞ」
龍焔の手がなまめかしく、私の腰をさすってくる。そういえば、この男は『女の美は腰の線に出る』だとか、『つい、手を滑らせたくなる』だとか、抜かしていた気がする。
「戯れもいい加減になさってください、この下種男!」
私はむんずと龍焔の鼻を摘み、勢いよく引く。そのまま近づいてきた龍焔の額に、頭突きを見舞ってやった。
「――ぐっ、くっくく」
最初は痛がっていた龍焔だったが、すぐに笑いだす。下種なだけでなく、痛ぶられると悦に入る危険人物でもあったようだ。
付き合いきれない。私は龍焔を押し退けて、楪さんのほうへ身体を向ける。
「案内、よろしくお願いします」
「承知いたしました。こちらです」
楪さんの案内で、部屋を出ようとする。
「気をつけろよ」
そんな声が背中にかけられ、私はひとつ頷くと隣の部屋に妓生として潜入した。
花楽院一の妓生である楪さんが交代を告げると、元々部屋にいた妓生は逆らえないのか、悔し気に私を睨んで部屋を出ていった。
くわばらくわばら、刺されないようにしなければ。
「新人か? 初々しい感じが、たまらないな」
楪さんの協力もあり、私は男とふたりきりになることに成功した。
だが、膝を撫でてきたり、耳元に酒臭い息を吹きかけられたりと不愉快極まりない。妓生というのは、本当に大変な仕事だ。
私はやんわりとその手を払い、酒をついでは男を酔わせていく。
「このあとも、俺に付き合ってくれるだろう?」
――来た! 私は待ちに待った誘いに、さも乗り気であるかのように男の肩にしなだれかかると、できるだけ甘ったるい声を出す。
「はい、優しくしてくださいませね」
男と花楽院を出ると私は密かに背後を窺う。
龍焔たち、近くにいてくれてるんだよね?
姿は見えない。おそらく気づかれないようどこかに身を潜めているのだろうが、不安はある。失敗すれば、私がどこかに売られる可能性もあるからだ。
落ち着け、やると決めたからにはいなくなった妓生たちを見つけてあげなければ。その糸口が少しでも掴めればいい。
私は男の腕に抱き着き、妓生を演じきる。
「ねーえ、どこに行かれるんです? 私、もう我慢できません」
「なあに、そう急ぐな。もう少しで着く」
あれだけ酒を盛ったのにも関わらず、夜風に当たったせいか男の足取りも返答もしっかりしている。意識もはっきりしているようなので、非常事態が起こった際に逃げ切れるのかが心配だ。
手に汗を握りながら、平静を装って彼についていくこと十分。私たちは岸壁に囲まれた海岸へ到着する。そこには木造の大型船が停まっており、砂浜に足をとられながら、男に引きずられるようにして舷梯(げんてい)の前までやってきた。
「あの、この船は一体……」
私の手を痛いくらいに握って離さない男に問いかける。
「いい場所だ。お前も気に入るだろ」
男が下卑た笑みを浮かべたとき、背後にある大型船からぞろぞろと屈強な男たちが降りてくる。
「おー、随分と若い女を連れてきたなあ」
「十六、十七くらいか? 犯したら、さぞ締まりもいいんだろうよ」
女を軽んじる下品な言葉と視線で私を蔑みながら、男たちが周囲を囲むように立つ。
「あなたたち、私をどうするつもりですか?」
後ずさりながら尋ねると、男のひとりが「はっ」と嘲るように笑う。
「お嬢ちゃん、親切に教えてやるよ。ここは奴隷船だ。肉欲を満たしたい男たちの相手をする女が大勢いる」
「か、花楽院の妓生がいなくなってるのは、あ……あなたたちの仕業?」
「そうだ。賤民がいなくなったところで、警吏は気にも留めないからな。攫うなら格好の獲物だ」
ひどい。力のない人間を、それもか弱い女性を無理やり攫って辱めるなんて。ふつふつと込み上げてくる怒りに拳を握り締めると、いきなり背後から羽交い締めにされる。
「きゃああっ、離して!」
じたばたと暴れるも男の力には敵わず、ざらついた舌に首筋を舐められる。
――気持ち悪いっ。ぞわぞわっと嫌悪感が全身に走った、そのとき――。
「そいつを返してもらうぞ」
聞き馴染みのある声とともに拘束が解け、代わりに私を羽交い締めにしていた男のうめきが耳に届く。今まで私を捕らえていた男は、砂浜に勢いよく転がり気絶した。私は体勢を崩して砂浜に倒れそうになる。だが、一本の腕がお腹に回り勢いよく引き寄せられた。
「怪我はしてないな? 蘭」
振り返れば、私を後ろから抱きしめている龍焔の顔が間近にある。背中越しに感じる体温に張りつめていた緊張の糸が切れ、涙が目に滲んだ。自分で思っている以上に、私は不安だったらしい。
「よくやった。これで心おきなく、あいつらを警吏に突き出せる」
龍焔は私の目尻を指先で拭うと、腰の帯に差さっている龍の金装飾があしらわれた剣を抜く。その切っ先を男たちに突きつけ、「兆雲、明翼!」と叫んだ。
「――はっ」という勇ましい声とともに、ふたりの武官が岩陰から姿を現し、龍焔の両脇に立つと、勢いよくその場に膝をつく。
「第一王子付き、側近の兆雲」
「第一王子付き、側近の明翼」
ふたりは一拍置いて、「参上いたしました!」と声高らかに叫ぶ。
男たちは対峙した相手が王子だと知り、一瞬、後ずさって怯んだ様子を見せたものの、すぐに武器を構えた。
「一斉摘発する。全員生かしたまま捕らえろ」
龍焔の命令に再び「は!」と答え、敵陣に突っ込んでいったのは兆雲さんだ。取り囲む男たちを大振りの槍で薙ぎ払う。
「バカめ、背中ががら空きだ!」
男が兆雲の背後から斬りかかったとき、ビュンッと風を切る音がする。その途端、男は「ぐあああっ」と悲鳴を上げ、その場に倒れ込む。男の肩には一本の矢が突き刺さり、じわりと赤い血が服に滲んでいた。
「バカなのは、きみのほうじゃない? 僕がいること、忘れないでよ」
初めて会ったときは、明翼さんのことを可愛らしくて愛嬌のある人だと思っていた。だが、弓矢を構える彼の顔には悪魔の微笑が浮かんでいる。そんなふたりの姿を目の当たりにしながら、動き出そうとしない龍焔の前に男がひとり現れた。
「側近にだけ戦わせて、安全な場所で高みの見物か? 王子さんよお。人間を駒みてえに扱うお前と、俺たちの違いってなんだよ? 同じだろ、結局」
「兆雲と明翼は俺の腕と同じだ。お前は自分の手足の働きを疑うか? 俺は信じているから、こうして守りに徹してんだよ」
龍焔の視線が背後の私に注がれる。
私を守るために、龍焔は前に出なかったということ?
目を瞬かせる私に、龍焔はまるで〝大丈夫だ〟というように、ふっと笑みをこぼし、再び男に向き直る。
「つーわけで、俺の領域に入ったお前は――」
足場の悪い砂浜に大きく一歩踏み込んだ龍焔は、瞬時に男との距離を縮める。
「俺の獲物ってことになるな」
抵抗する間も与えず、龍焔は男の手に握られていた剣を弾き飛ばす。キーンッという甲高い音とともに剣は宙を舞い、何度も回転しながら砂浜に突き刺さった。
男はというと、圧倒的な龍焔の強さを前にして腰を抜かす。ややあって立ち上がり逃げようとしたが、生まれたての小鹿のように膝が震えて何度も座り込むを繰り返していた。
「どうやら、これで終いみてえだな」
龍焔が男の喉元に突きつけた剣先は、月光を浴びて銀色に煌めく。それに男が「ひいっ」と悲鳴をあげたとき、どこに潜んでいたのか、大勢の警吏が駆けつけてくる。
「龍焔様、蘭様! ご無事でなによりです」
警吏を率いているのは、花楽院で待っているはずの楪さんだった。
「楪、ご苦労だったな。絶妙な登場だったぞ」
「恐れ入ります、龍焔様。龍焔様の書状のおかげで、妓生の私でも難なく警吏を連れてくることができました」
私が囮になっている間に、そんな手筈になっていたとは。早めに教えておいてくれると、もっと不安も和らいだはずなのだが、知っていたら知っていたで態度に出てしまいそうだ。なので結果よければすべてよし、ということにしよう。
「おい、奴隷船の中にも仲間がいるのか?」
龍焔は砂浜に座り込んで震えている男の前にしゃがみ込み、尋ねる。
「い、いねえよ! これで全員だ」
「本当だな?」
「ああ、誓って嘘はついてねえ!」
ダラダラと汗をかきながら、男は「命だけは助けてくれえ~」と情けない命乞いを始める。それを見下ろす龍焔の瞳は、普段の気さくな姿からは想像できないほど冷めていた。
「ここに捕らわれた女たちも、そうしてお前に懇願したはずだ。『助けて』ってな。だが、お前たちはそうしなかった。なのに、助かりたいだと?」
剣を構え直した龍焔は、その刃を男の首に強く押し当てる。その拍子に皮膚が切れ、つううっと首から血が流れると、男は「ぎゃああっ」と叫んだ。
「命までは奪わねえ。生きて、生き地獄を味わうほうが、お前への罰になるからな。警吏、こいつを捕らえろ。他の男どももな」
男たちを警吏に預けると、龍焔は立ち尽くしていた私の前まで歩いてくる。
「平気か? 怖かっただろ」
「……い、いえ、大丈夫です」
この男に弱みを見せるのは気が引けた。いつつけ込まれるか、わかったものじゃない。
けれど、賤民である妓生のために静かな怒りをあらわにし、私を守ってくれた龍焔に、少しだけ気を許してしまいそうになる。
この人は、私の大事な人を奪った人間の息子だ。それだけは忘れてはいけない。私に協力してくれた寸さんのためにも、なにより委元のためにも。そう気を引き締め直していたとき、龍焔に腕を掴まれる。
「嘘をつくな。さっき泣いてただろ。今だって手が震えてるじゃねえか」
「生理現象です。本気で奴隷船に連れていかれると思ったので」
「可愛げねえやつだな。もっと怖かったって、泣けばいいものを」
「男に可愛げを求めないでください」
「ああ、そうだったな。そういう格好してると、お前が男だってこと忘れそうになるな」
私を見つめる龍焔の目が艶を帯びた気がした。男だと口外しているのに性別関係なく誰にでも欲情するのか、この男は。
「なんだ、その虫を見るような目は」
「すみません、目がうるさくて」
「ったく、もっと素直に甘えてくれればいいのによ」
龍焔さんは、私の頭をくしゃりと撫でる。
ああ、やめてほしい。こんなふうに優しくされると、この人の父親を陥れようとしている自分の汚さが入り鮮明に浮き彫りになるようで嫌になる。
「蘭、顔色が悪いな。平気か?」
腰を屈めた龍焔は、知らず知らずのうちに俯いていた私の顔を下から覗き込んでくる。
「あまり、私を信用しないでください」
「……なんでだ?」
聞き返してきたくせに、龍焔はすべて察しているかのような目で私を見据える。
私、なんで信用するな、なんて言ってしまったんだろう。これでは疑ってくれ、と言っているようなものだ。いや、龍焔はすでになにかを掴んでいるのかもしれない。
これはただの勘だが、龍焔からは嘘や偽りは感じられない。きっと悪い人じゃない。そう思い始めている自分がいる。
でも、委元の息子を殺した張本人だという噂もある。なにを信じて、なにを疑えばいいのかわからない。ただ、私のせいで寸さんが宮殿から追われるような事態には絶対にしてはいけない。だとしたら私は、疑うくらいでちょうどいいのかもしれない。
「王子なのに、人をホイホイ信じると危ないですよって忠告です」
龍焔の腕の中から逃れて、私は奴隷船のほうへ足を向ける。
「ほら、行きましょう。中に怪我人がいるかもしれないですし。ここで油を売ってる暇はないはずです」
「手厳しいな、蘭は。けどな、これだけは言わせてくれ。俺は、人を見る目はあるほうだ。だから、お前とも親しくしたいと思ってる」
それは、私を信じているということだろうか。私が本当に宮廷医の試験を受けに来ただけの試験生だったなら、きっと心から喜べたはずだ。けれど、私はまっすぐな心を見せてくれる龍焔とは違い、女であること、宮廷医の試験を受けに来た理由、多くの嘘を重ねてここに立っている。龍焔の思いを受け取る資格がなかった。
「これ、は……」
奴隷船の中に入ると、行方不明の妓生たちがざっと十人ほど牢のような場所に収容されていた。それも服は一切纏っておらず、裸だ。首や手足には見るからに重そうな鉄枷がはめられており、妓生たちの目はどこか虚ろ。
地獄絵図さながらの光景に絶句していると、私の隣にいた龍焔が裸の女性たちから目を逸らし、船室の入口に控えている警吏たちに指示を飛ばす。
「毛布と着替えを用意してくれ」
「――はっ」
機敏に頭を下げ、警吏は踵を返すと走り去った。
「なんて惨いことを」
楪さんは着物の裾で口元を覆い、忌々しそうに言う。私は女ということにして、彼女たちと接したほうがよさそうだ。乱暴を受けたのであれば、いくら華奢だろうと男に触れられることに恐怖心を抱かずにはいられないだろう。そうと決まれば、さっそく私は龍焔の着物の裾を軽く引っ張る。
「ここでは、私は女で通してください」
詳しい説明も飛ばして要望だけを小声で口にした私に、龍焔は狐につままれたような顔をした。
だがすぐに周囲に視線を走らせ、私の言わんとすることを察知してくれたようだ。
「――わかった。俺たちにできることがあれば言え」
龍焔は即答する。そこへ警吏に指示を出していた兆雲さんと明翼さんが戻ってきた。
「龍焔様、外にいた主犯の男たちは全員警安庁に連行しました。それにしても、まさか、こんな惨状になってるとは……」
険しい顔つきで船内を見回す兆雲さんとは対照的に、明翼さんはずいっと私の顔を覗き込んで不思議そうに首を傾げる。
「蘭ちゃん、女装してると女の子にしか見えな――」
私が男であるとバラしかけた明翼さんの口を龍焔が後ろから手を回して塞ぎ、かつ私から引き離す。
「明翼、蘭は女だ。少なくともここではそう扱え」
「ふ、ふあい」
こくこくと明翼さんが首を縦に振った。
「蘭様、これを」
楪さんが私の道具箱を差し出す。試験生の制服と一緒に花楽院に置いてきていたのだが、持ってきてくれたらしい。
「ありがとうございます」
道具箱を受け取ると、さっそく船内の女性たちがいる牢を回る。そんな私のあとを楪さんがすかさず追いかけてくる。
「私も女ですから、お手伝いできることがあればなんなりとお申しつけください」
「楪さん……はい、よろしくお願いします!」
私たちは船内にいる女性たちの中に、重傷の者がいないかをまず確認した。
すると、ひとりの女性が「お願いっ、彼女を先に見てあげて!」と格子を掴みながら私たちに訴えかけてくる。牢の中を覗けば、壁に寄りかかりぐったりとしている女性がいた。腹が大きく膨れ、呼吸も苦しそうだ。
「あれは――妊、婦……?」
冷や汗が背筋を伝うのがわかる。私はふうっと息をつき、龍焔に視線を送った。彼はすぐに牢を開けるよう兆雲さんに目配せをしてくれる。そして扉が開くと、私は飛び込む勢いで中へ入り彼女のそばに腰を落とした。
「最後の月経はいつ?」
「わからない、わ……ここに連れてこられて、どのくらい経っているのかも。けど、さっきからお腹の痛みの感覚が、狭くな――いっつううううっ」
女性は額にびっしりと汗をかき、痛みに唇を噛む。つうっと血が口端を伝い、私は自分の着物の裾を引きちぎる。
「蘭、なにしてる」
龍焔が焦ったように声をかけてくるが、私は振り返ることなく返事をする。
「このままでは、唇も舌も噛み切ってしまいそうですから。代わりに、この布を噛んでもらうんです」
私は布を細く丸めて分厚くし、女性の口に入れた。女性は顔を真っ赤にするほど力んでおり、同室の女性に聞くと陣痛を一、二分おきに繰り返しているとのことだった。
「すみません、男性陣は外へ出てください。代わりに他の女性たちの中に重傷者がいないかどうか、様子を見てきてくれますか?」
「了解した。だが、なにをするつもりだ?」
「この陣痛間隔では、おそらくもう子供が生まれます。それを確かめるために、子宮口の開き具合を確認するんです」
お産の介助は、生まれてこの方初めてだ。仙の島にはあまり年若い女性はいなかったので、委元にも教わっていない。書物で読んだ程度の知識しかないが、私以外に今ここで彼女を助けられる人間はいない。だとしたら、今持ちうる私のすべての知識と技術で母子ともに救わなくては。
「うううっ、はあっはあっ」
荒い呼吸を繰り返し、女性は朦朧とした様子で天井を仰いだ。その口から噛ませていた布が落ちる。私は男性陣が全員この牢から出たのを確認すると、楪さんに手伝ってもらいながら女性を横にして開脚させる。
「子宮口は……九、十センチ。まずい、もうじき生まれる」
「彼女は花楽院の妓生です。なにか、私にできることはありますか?」
「ありがとうございます、楪さん。では、ありったけの毛布と布、それから温かいお湯を準備してもらえますか?」
「かしこまりました」
楪さんがすぐさま牢を出ていく。
私は妊婦の手を握り、状況を説明しようとしたのだが、向けられた生気のない瞳に声をかける機会を見失う。虚無を覗き込んでしまったかのような、胸のざわつき。なにか言わなければと口を開きかけたとき、女性はカサカサに荒れている唇をゆっくりと動かした。
「私、産み……たく、ない」
「あ……」
なぜ、どうして、私は今の今までその考えに至らなかったのだろう。
助けることに必死で、私は彼女の心に負った傷に気を配ることができていなかった。
「無理やり、犯されてできた子よ。顔も見たくない、憎いっ、この腹の子なんて、死んでしまえばいい!」
呪詛を吐き、大きく拳を振り降ろす。その先にあるのは、新たな命が宿った女性の腹部だった。私は「やめて!」と叫びながら、女性の手首を掴む。
「離してっ、離してよーっ」
暴れる女性の爪が私の頬を掠り、生温かい血が頬を伝う感触がした。ひりっとしたが、それよりも目の前の女性の悲痛な叫びのほうが胸に突き刺さる。
「どうしてっ、こんな目に! 賤民の私は、妓生になるしかなかった。それでもっ、どんなに周りに蔑まれようと必死に生きてきたの! それなのに、それなのに……っ、神様はどこまで私を苦しめれば、気が済むのよっ」
無理やり犯され、愛してもない人の子を産まなければならない苦痛を私は知らない。ゆえに安易な慰めも無責任な共感も、私にはできない。ならば、私に言えることはひとつだろう。
「お腹の子のために、産むんじゃない」
先ほどまで叫んでいたのが嘘のように、か細い声で「え……?」とこぼす女性の顔には〝意味がわからない〟と書いてある。
「このまま出産しなければ、あなたの身体の中で赤ちゃんが育ちすぎてしまう。それは赤ちゃんだけでなく、あなたにとっても危険なんです。最悪の場合、膣からではなくお腹を切って赤ちゃんを取り出さなければならなくなるかもしれません」
「なら、私にどうしろって言うのよっ」
「あなたの身体のために、産みましょう。顔も見たくない、憎いなら、無理に生まれた子を愛する必要なんてない。あなたはなにも悪くない。だから、もう自分を責めないで」
「なにを、言って……」
女性の声が怯えるように震える。
「普通、ここまでお腹が大きくなっていると、胎動……赤ちゃんが動くのを感じるはずなんです。それにそのお腹の膨らみ。自分の身体のことです。もっと早い段階で、あなたは妊娠したことに気づいたはず」
「それがなんだって言うの」
「本当に死んでほしいと思っていたなら、妊娠がわかった時点でさっきみたいにお腹を殴るなり、わざと転ぶなりして赤ちゃんを殺すことだってできた。でも、あなたはしなかった。それはなぜです?」
問いかけると、女性はうっと嗚咽漏らして両手で顔を覆い、泣きじゃくった。
「お腹を蹴られるたび、生きてるんだって……、そう思って……っ」
「はい……」
「この子は、私の一存で生き死にが決まる。生きる道を選べなかった自分と重なって見えたのよ。そうしたら、殺すなんて……できなかったっ。だって、それじゃあ、私を身分で蔑んだ人間たちと同じだものっ」
涙でぐちゃぐちゃの顔で、女性は正直な気持ちを話してくれる。こんな場所に捕らわれて無理やり孕まされたというのに、腐らず、自暴自棄になることなく、お腹の子のことを考えられる彼女の強さに胸を打たれる。
「お腹の子はきっと、どんなに身分が低くても、親がいなくても、あなたのように強く生きていけるでしょうね」
「なんで、そんなことわかるのよ?」
「わかります。だって、この子はあなたの優しさが生かしたんですから。人の温かみをあなたがこの子に与えた。この子がいつか自分の人生を嘆く日が来たとしても、きっとこの子は思い出すはず。望まない妊娠でも産む決心をしたあなたの強さを」
私は彼女の手をしっかり握って、安心させるように笑いかけた。そんな私の顔を見て目を見張った女性は、徐々に頬を緩めていく。
「……わかったわ、産む。だけど、母親にはなれない。きっと、今の私じゃこの子のことすら、責めてしまいそうだから」
「ありがとうございます、心を決めてくれて」
絶対に、この人も子供も助けよう。
込み上げてくる使命感に改めて強く頷いたとき、「話は聞かせてもらった」と後ろで声がした。振り返ると、楪さんと一緒に頼んでいた荷物を運んできた龍焔が立っている。
龍焔は私の頬の傷を見て口を開きかけたが、すぐに妊婦に視線を向けた。
「子供のことは、俺が孤児院に入れるよう手配しておく。今は自分の身だけを案じてくれ」
「ありがとう、ございます」
女性の表情が吹っ切れたように清々しいものへ変わったとき、「うううううっ」と、またもや陣痛が襲ってきたのか、痛みに喘ぐ。それと同時に破水し、私は牢の壁からぶらさがる鎖を手に取り、女性が握る部分に布を巻く。
「力みやすくなるから、これを握ってください」
「はあっ、はあっ、わか――うううっ」
私は女性の口に再び布を噛ませ、日本のテレビで見た出産の呼吸を思い出しながら声をかける。
「ふーって息を吐いたら、うん!っていきんでください!」
この世界では書物を見る限り、出産の呼吸法まで指導することはない。いきむために力を入れやすくする紐、出産したあとに赤ちゃんを温める湯、へその緒の切り方のみが記載されていた。私は出産経験がないため、完全に手探りだ。緊張でいつも以上に汗をかいてしまい、さっきからぽたぽたと額から顎を伝って垂れていく。私の手に、ふたりの命がかかっている。そう思うと、なんて荷が重い仕事だろうと改めて思った。
何度か陣痛の波が来て、呼吸法でお産を介助をしていると、ついに赤ちゃんの頭が顔を出す。その様子を龍焔たちも牢の外で緊張の面持ちで見守っていた。
「全身の力が抜いて、ゆっくり深く息を吐けますか?」
ふー、ふーっと女性と一緒に息遣いを誘導していたとき、もう一波が来た。
女性が「あああああっ」と叫ぶと、ついに赤ちゃんの身体が出てくる。
「うぎゃあ、うぎゃあっ」
船内に産声が響き渡り、私はへその緒を切った。牢の前にはいつの間にか奴隷船に監禁されていた女性たちの姿もあり、赤ちゃんの姿を見て安堵の表情を浮かべている。
外にいる警吏だろうか、拍手や歓声も聞こえてきた。
私は呼吸ができるよう赤ちゃんの鼻や口についた血液や羊水を布で拭き取り、すぐに温かいお湯の中へと身体を入れてやる。
母体の中と外界の温度差は、赤ちゃんにとっては命とり。低体温症を引き起こしてしまう可能性があるので、暖房器具などないこの世界ではこうしてお湯に浸けるのだ。
「ふたりとも、頑張りましたね……っ」
鼻の奥がつんとして、目の奥が熱を持つ。こんな奴隷船の牢の中で、ひとつの命が元気な産声をあげて誕生したのだ。奇跡でもなんでもない。生かしたい、生きたいと願ったふたりの頑張りがもたらした結果だ。
私は生まれたばかりの赤ちゃんを毛布に包み、女性の胸の上に乗せる。
「顔、見てあげてください」
「この子が……私の、お腹の中に……」
「そうです。辛い状況下にいながらも、あなたが守りきった命です」
女性は宝物を抱くように、そっと赤ちゃんの背に手を添えて自分の方へ引き寄せる。女性は赤ちゃんの手を掴み、まじまじと眺める。
「本当に小さいのね……」
そう呟いたとき、赤ちゃんはぎゅっと女性の指を握った。その瞬間、女性は「あ……っ」と声を漏らして目を見張る。
「私のこと……お母さんだと、思ってくれてる……の?」
女性の顔は徐々にくしゃくしゃになり、目尻から涙の粒をいくつもこぼす。
「そう、なのね。私……死んでしまえなんて最低なことを言ってしまったけど、もし許されるなら、この子の母親になりたい……っ」
赤ちゃんに触れて、女性の中でなにかが変わったらしい。強く我が子を抱きしめる女性は、誰の目から見ても母親だった。
「花楽院の妓生長に、私からも一緒にいられるよう進言します」
「楪さん……はい、ありがとうございます」
表情に疲れは見られるものの、女性はようやく笑みを見せた。
「つ、疲れました……」
龍焔とともに息抜きもかねて、甲板に出る。
奴隷船での出産介助、他の女性たちの怪我の処置が終えるころには海の地平線に朝日が顔を出していた。
「お前は、本当に委元の息子なんだな。手際のよさ、患者の心をも救う言葉。なにもかもが委元を連想させる」
「私では、まだまだ委元には程遠いですよ。それにしても、ひどい事件でしたね」
「……此度の事件、主犯は他にいる」
重苦しい響きを漂わせた返事に、私は「えっ」と隣を見上げる。龍焔は地平線を睨みつけていた。
「叔父上の息子、龍水だ」
「い、今なんて?」
叔父上――龍辱様の息子がこの奴隷船の一件に関わっていたなんて、それが本当ならば国家を揺るがす不祥事ではないか。
「この事件が起き始めたのは一週間前。龍水は花楽院に来て、楪に人気のない妓生の名前を聞いていったらしい。これがどういう意味がわかるか?」
「花楽院で夜伽は御法度、でしたよね。それでも誘いを受けるとしたら、花楽院の売れてない妓生……!」
「そうだ。動機は今の時点では、なんとも言えねえな。けど、足がつく国の資金じゃなく、裏金を調達して秘密裏になにか事を起こそうとしたってわけだ。やましいことがあるとしか思えねえ」
確か、龍水様は龍焔と同い年で従弟。龍水様が奴隷船の一件に関わってまで、国王に知られないよう裏金を調達しようとしているのはなぜだろう。
暗殺されかけた父親の龍辱様は国王を心底蹴落としたいはず。漠然としてしまうが、父親を王にするために資金が必要で、龍水様が此度の件を起こしたとしたら?
私も委元を殺され、国王を憎む気持ちは理解できる。だが、どんな理由があるにせよ、無関係の人間を傷つけてまで復讐を果たそうとするのは道理に反していると思う。なんにせよ、龍水様のことを調べてみなくちゃ。
「龍焔、龍水様は花楽院によく来るんですか?」
「……? ああ、俺は直接、あいつと花楽院で鉢合わせたことはないが、楪からそう聞いてるな」
「そう、ですか」
なら、今日みたいに妓生のふりをして龍水様に近づけば、なにか話を聞けるかもしれない。密かな作戦を胸に秘め、あとで楪さんに相談しようと思っていると、ふいに龍焔に手首を掴まれる。
「なにを考えてる」
「え――……」
目をしばたたかせながら顔を上げると、龍焔の探るような目に捉えられた。
「なにか危険なことに、首を突っ込んでるんじゃないのか?」
「そ……そんなわけない、でしょ。急に、どうしたの?」
慌てて浮かべた作り笑いは、引きつっている気がする。
龍焔の疑いの眼差しが肌に突き刺さる。
それでも素知らぬふりを貫いていると、龍焔にため息をつかれた。
「まあいい、無茶はするなよ」
龍焔の指が私の頬に触れる。チクリと痛みが走って初めて、先ほどの妊婦に引っかかれたことを思い出した。
「危なっかしくて、目が離せねえ」
頭に大きくて、ごつごつとした手が乗る。
心地よく、ほっとする重さだ。うっかり、絆されそうになってしまうくらいには。
「無茶なんて……しません。俺は宮廷医の試験を受けに来た、ただの試験生ですから。危険な目に遭うこともないです」
偽りを口にすることに、初めて躊躇いを覚える。
どうして今なのか、それは頭に触れている体温のせいだろうか。知りたいけれど、これ以上探っては行けないと心の中で警鐘が鳴る。
だから私は、考えるのをやめる。
けれど、龍焔の手から逃れようとは、どうしても思えなかった。
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