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▼五章「動き出すそれぞれの思惑」
数日後、楪さんの協力を得て私は女装し、花楽院で働いていた。
昼間は宮廷医の試験生として講義や試験を受け、夜は花楽院で情報収集。正直、眠る時間もないが、少しでも委元の死の真相に近づけるのならば耐えられる。
それにしても、楪さんには頭が上がらないな。小遣い稼ぎにここで働かせてほしいと伝えたのだが、それだけの理由で妓生になる変わり者はなかなかいない。
でも、楪さんはなにも聞かずに協力してくれた。『奴隷船での一件で、うちの妓生がお世話になりましたので』と。
「蘭花(らんふぁん)、酌をせんか。手が止まっておるぞ」
どこのお偉方だか知らないが、酔っぱらった男が私の源氏名を呼んで腰を抱いてくる。それどころか、いやらしい手つきで尻までさすってくる始末。不愉快極まりない。
「はい、ただいま」
そう返事をしつつ、今日もハズレかとため息をつきそうになった。
この五日間、花楽院で龍水様が現れるのを待っていたのだが、なかなか姿を現さない。奴隷船の件が明るみになり、警戒している可能性もある。
だが、今のところ主犯は龍焔が捕らえた男たちということになっているので、龍水様の関与はあくまで憶測の域を出ない。
確かな手応えを感じられずに、客が帰る時間になり花楽院の出口まで送る。
楪さんに声をかけて帰ろうとしたとき、「……威安……報い……自業自得」と言う男の声が聞こえて、私は足を止める。
威安、今委元の息子さんの名前が聞こえた気が……。私は廊下に誰もいないことを確認し、声が聞こえた部屋の扉に耳をくっつける。
「美楊(みよう)、赤き龍に守られるというこの陽煌国では、王になる者の夢に炎龍が現れるという」
美楊? 花楽院の妓生だろうか。それに、王になる者の夢に現れる龍――これは、私がこの世界に来るきっかけとなった炎龍が告げていた。
――赤き龍、夢に現る時。それ即ち、王誕生の吉兆なり。
陽煌国に伝わる炎龍伝説の一節だ。
「あいつは、その炎龍の夢を見たらしい。どこまで真実かはわからないがな。ならば、その選ばれし者に降りかかる災厄。それを退ける光の遣いは、本当に現れるのか。愉しみだ」
――選ばれし者、災厄降りかかる時。光を遣わし、王を導く。
脳裏に、この世界に来たばかりの頃の記憶が蘇る。
『お前は龍に遣わされ、この陽煌国に来たのではないか?』
『お前はいずれ、王を導く光になる』
どれも委元から言われた言葉だった。
王を導く光だなんて、私には荷が重すぎる。せいぜい、目の前の命を救うので手一杯だ。
「龍水様、ただの伝説ではありませんか。王への道は、自ら切り開くもの。龍水様は着実に、その茨の道を歩んでおられます」
龍水、様……? ここでようやくその名を耳にした私は、つい声を上げそうになったものの口元を手で押さえて耐える。耳をそばだてれば、「頭のいい女はいい」という龍水様の艶めかしい声とともに衣擦れの音がした。
「王とは人に在らず、血も通わぬ自らの欲望に貪欲な化け物よ。そうでなければ、国など支配できん。龍焔は龍芽に似て甘いからな。親友を殺されても身内の情を捨てきれず、こうして我らを手にかけることすらできない。愚鈍なことよ」
「ええ、そのような軟弱者は、王の器ではありません」
荒い吐息と甘い嬌声が漏れ聞こえてくる部屋の前で、すううっと血の気が失せるのを感じる。
龍焔の親友、それは威安さんのことだ。龍水様は身内に威安さんが殺された、と言った。ここで考えられる龍焔の身内は、王位を狙っているだろう叔父にあたる龍辱様と龍水様自身が妥当だろう。
寸さんの話では、龍芽国王が龍辱様暗殺の命に背いた腹いせに委元を手にかけたことになっている。ならば、威安さんを殺すのも国王のはず。なのになぜ、龍辱様と龍水様が威安さんを殺すの?
明確な動機はわからないが、王位争いに委元の家族が巻き込まれたのは確実だろう。
誰が敵なのか、わからなくなってきた。
軽く眩暈がしてよろけた拍子に、つま先が部屋の扉に当たってしまう。ガタンッと無情にも音が廊下に響き、肝が冷える。
――しまった!
「そこに、誰かいるのか!」
鋭い龍水様の声がして、足音がこちらに近づいてくる。
――まずい! 私はとっさに廊下の端まで駆け、角部屋に飛び込むような形で身を隠す。
乱れる呼吸を閉じ込めるように唇を固く引き結び、扉に耳を寄せる。
「確かに、逃げ去る足音が聞こえたんだがな」
「失礼いたしました、龍水様。不審な輩がいないか、用心棒に確認させます」
息を殺していると、美楊と龍水様の話し声が段々と遠くなる。
ここで問題を起こせば、協力してくれた楪さんにも迷惑がかかってしまう。これ以上の潜入は厳しいだろう。
私はバクバクとうるさいくらい音を立てている心臓の辺りを服の上から押さえ、脱力した。そのときだった。
「まさか、こんなところでお前に会うとはな」
突然、耳元で囁かれ、「ひっ」と悲鳴をあげかけたとき、背後から伸びてきた手に口元を覆われる。
「んぐっ」
――なに!?
力の限り暴れれば、お腹に腕が回っていっそう動きを封じられる。
「んーっ!」
離して!
渾身の力で私の口を塞いでいる誰かの手を外そうとしたのだが、びくともしない。
殺されるのだろうか、それとも辱められる?
最悪の事態が頭の中を埋め尽くし、恐怖に身を震わせたとき、少しだけ拘束が緩まる。
「静かにしてろ、ここで目立つ行為は避けたいんだろ?」
あれ、この声……。
その主を知っているような気がした私は、恐る恐る首を捻って後ろを向く。真っ先に視界に入ったのは、燃えるような赤い髪。続いて、月をくり抜いたような金の双眼。
どうしてここに?
なんて疑問が頭の中を一瞬、過ったが、考えてみれば花楽院は彼の行きつけだった。この数日、鉢合わせなかったほうが奇跡に等しかったのだ。
「龍、焔……」
私は口元の手を剥がして、絶望的な気持ちで目の前の男の名を口にする。
「蘭、ここでなにをしてる」
「えっと……小遣い稼ぎです」
「現役の宮廷医に比べれば微々たるものだが、生活に困らない程度の給金は宮廷医の試験生にも出るだろ?」
そこを突かれると痛い。自分でも無理がある動機だとわかってはいるのだが、楪さんにもこれで通してしまっている以上、今さら別の理由で言い逃れようとすれば一貫性がなくて怪しまれる。
「仙の島にいるときに、借金をしてしまいまして……。給金だけでは、返しきれないんです。ですから、楪さんに頼んで妓生として働かせてもらっていたんです」
「なら、質問を変える」
龍焔は退路を塞がんとばかりに、扉に手をつき私をその腕の中に閉じ込める。
「お前は今、なにから逃げていた」
「酔っぱらったお客さんの手癖が悪くて……」
「そうきたか。お前は謎が多いやつだな、本当に」
「はは……は」
乾いた笑みをこぼし、私は改めて龍焔を見上げる。
「それで、龍焔はどうしてここに?」
部屋にはひとり分の箱膳。側近と飲みに来た様子でもないし、酌をする妓生もいない。妓楼まで来てひとり酒ってことはないだろう。だとしたら他に目的が?
「奴隷船の件で龍水の身辺を探ってたんだが、まさかお前がいるとはな」
「ああ、龍水様が主犯じゃないかって、疑ってましたもんね。それで、なにか有益な情報は得られたんですか?」
「ああ、自分で客をとれない妓生を奴隷船の犯人たちに引き合わせてやがったのは、美楊って名前の中堅の妓生のようだな。龍水が贔屓にしてる女だ」
それには心当たりがあった。夜伽はご法度の花楽院で、龍水様と美楊は親密な様子だった。それも、王位に誰が相応しいかなどと踏み込んだ睦言をする仲。龍水様の命令で、美楊が暗躍していたとしてもなんらおかしくはない。
「客をとらせてあげると言えば、売れない妓生は美楊の誘いにのりますもんね。どうして、そこまでして龍水様を助けるんでしょうか。同じ女性なのに……胸が痛まないの?」
裸で牢に繋がれ、男の欲望のはけ口にされた奴隷船の女性たちの痛々しい姿を思い出す。
「身体だけじゃない、心も尊厳も傷つけられた彼女たちのことを思うと、許せない気持ちでいっぱいになります。魂を殺したも同然だというのに」
「蘭、お前がどうしてここにいるのか、なにを隠してるのか、わからないけどな。誰かのために心を裂けるお前は好ましいと思うぞ」
「どうして……俺を怪しんでいるのでは?」
今の質問は、純粋な疑問だった。
こんなふうに自分の感情を曝け出してしまっている時点で、私も王子でありながら民のために自ら行動しようとする彼を好ましいと思っているのだろう。
なにを企んでいるのか疑いながらも、龍焔を信じたい。相反する自分が心にいるのだ。
「言っただろ、人を見る目はあるほうだって」
私は俯きながら龍焔の胸を押し返し、その腕からするりと抜け出る。そのまま彼に背を向けて、掠れる声で呟く。
「人をホイホイ信じると危ないですよって、忠告したのに」
「これまでお前を見てきて、信じるに値すると判断したってだけだ。今は疑ってるっつーより、俺に背を向けてるお前がなにかしょい込んでねえかが気がかりだな」
これ以上はダメだ。本当に絆されてしまう。
龍焔が本当に白だとはっきりするまでは、私は気を許してはいけない。少しの油断が破滅に繋がるのだから。
「帰ります。お酒はほどほどにしてくださいね。もう森で倒れてても、介抱なんてしてあげませんから」
それだけ言い残し、逃げるように部屋を出る。私は手身近に楪さんに挨拶をして、陽煌宮へと戻るのだった。
内医院の宿舎に帰ってきた私は、自分の部屋ではなく寸さんの部屋を訪ねた。
「寸さん、夜分にすみません」
日付も変わろうとしている時間に非常識だとは思うが、寸さんから聞いていたことと花楽院で知った事実があまりにも違いすぎて、自分では整理しきれなかったのだ。
「威安さんを殺したのは、龍焔ではありませんでした。恐らく……ううん、確実に龍水様と龍辱様です」
誰に聞かれているかわからないので、できるだけ声を潜めて切り出す。
寸さんはお茶を淹れていた手を止め、椅子に腰かけている私を見ると、目を見張ったまま固まっていた。
「今日、花楽院に行ったんです。そこで龍水様が……美楊という妓生と話していたんです。本人がそう言ってたので、間違いはないかと」
「そうでしたか……」
俯き加減に返事をした寸さんの顔に陰が落ちる。表情は見えないが、信じられない事実を聞かされ、動揺しているのかもしれない。無理もない、私もまだ混乱している。
「委元は龍芽国王の追っ手に殺され、委元の息子である威安さんは王弟の龍辱様に殺された。おかしくありませんか? 委元に王弟の龍辱様を殺すようそそのかしたのは龍芽国王なんですよね? でも、その命令に従わなかったから、委元も委元の家族も殺された。だとしたら、威安さんを殺したのも龍芽国王でないと不自然です」
「……本当に威安さんの死に龍辱様や龍水様が関わっていたのだとしたら、あなたの言う通りおかしいですね。でも、蘭さんはなぜ急に花楽院に行かれたのですか?」
「え? それは……」
奴隷船のことを話そうと思ったのだが、囮役を引き受けたなどと知られれば、寸さんに余計な心配をかけそうだ。
「それは、同期の試験生に誘われて仕方なく。変に断っても、女であることを勘づかれてしまう気がしたので」
「そうですね。でも蘭さん、今回は無事で済んだものの……もし龍水様にあなたが探っていることを知られていたら、殺されていたのかもしれないのですよ」
厳しい口調で諭す寸さんに、少し迂闊だったかもしれないと反省する。
「どうか、私の目が届かないところで無茶をしないでください。必ず、相談してくださいね。龍水様のことは、私も調べてみますから」
寸さんは私の肩に手を乗せ、目線を合わせてくる。
妓生のふりをして接触しようとするなんて、考えなしだったとは思う。けれど、委元の死の真相に繋がりそうな龍水様が奴隷船で国王に知られないよう裏金を調達しようとしていた。今動かなければ、なにかを見逃してしまうような気がして焦りがあったのだ。
もし、同じような事態になったとしても、私は無茶をするだろう。だが今は、寸さんを不安にさせないよう「次からは相談します」と嘘をつく。
もう、寸さんに相談するのはやめたほうがいいのかもしれない。深入りすればするほど、寸さんや寸さんの大事な人たちにまで危険が及ぶ。委元の義理の息子という時点で、敵はすでに私に目をつけているはずだ。頻繁に会うのもよくない。今日からはなるべくひとりで調べようと、密かに心に決めるのだった。
***
翌日、ついに五度目にして長期に渡る最終試験が行われることになった。
試験生は医師が不足している陽煌国の町の医院へ配属され、蔓延している疫病を一ヶ月以内に収束させるのが試験だ。
「よりにもよって北山(ほくさん)に派遣されるとか、ついてない」
孔玉くんは年季が入って傾いた町の門を見上げる。その隣には蒼の姿もあり、険しい眼差しで殺伐とした町を見回していた。
「町を歩くときは、なるべくひとりで行動しないようにしたほうがいい」
北山は都から六日ほど馬を走らせたところにある山の麓の町で、働き出である男が次々と病に倒れたがために貧困が進んだ地だ。
盗賊や物乞いが多く治安が悪いため、今も昼間だと言うのに人っ子ひとり歩いていない。みんな、安全のために家の中で息を潜めて生活しているのだろう。
「遠路はるばる、ご足労いただきありがとうございます」
少しして、この町の医院で医者をしているという五十代くらいの男性が私たちを出迎えてくれた。
「私は遜徳(そんとく)といいます。申し訳ございません、都から来てくださった試験生様方には過ごしにくい場所かと思いますが、医院にご案内しますね」
やけに恐縮しきっている遜徳さんに我慢できず、私は「そんなにかしこまらないでください」と声をかけた。
「いいえ、将来、宮廷医になられる方々ですから」
宮廷医は官職に匹敵する身分が与えられる。それゆえに怒らせたらどんな目に遭うかわからない、というのが正直なところなのだろう。
「まだ、宮廷医になれるかわからない身ですし、これから一緒に働く仲間なのによそよそしすぎますよ。どうか、俺のことは蘭と呼んでください」
「そんなっ、恐れ多いですよ!」
「お世話になるのは俺たちなんですから、ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、どうぞご指導のほどよろしくお願いします」
頭を下げると、遜徳さんが「変わったお方だ……」と呟き、すぐに自分の発言を振り返ったのだろう。手で口を覆い、首振り人形のごとく何度も頭を下げる。
「すみません、すみません! 私みたいな町医者などに丁寧に挨拶をされたので、つい。都の宮廷医様方は高圧的な方が多いので、驚いてしまって……」
「確かに変わってるよね、蘭って。手伝いに来てあげたんだから、お願いする意味わかんないし」
上から目線な孔玉くんに変わって、私は「すみません」と謝罪する。
これだから、尊家のお坊ちゃまは。
無言で抗議の視線を送っていると、孔玉くんから「なにか言いたいことあんの、グズ」とお決まりの暴言が飛んでくる。
「俺たちは試験を〝受けさせてもらいに〟来たんだからね?」
「まあ、仕事はする男だ。口の悪さは聞き流してくれ」
蒼は遜徳さんに助言する。それを聞いていた孔玉くんは憤慨していたが、私たちは無視して医院の中に足を踏み入れる。そこは、あふれかえるほどの患者で埋め尽くされていた。
患者をかき分けるようにして医院の中に進みながら、遜徳さんが状況を話し出す。
「全員、天然痘(てんねんとう)患者です。増える一方で、寝台も足りません」
――天然痘!
急激な発熱、口や喉から始まり、顔面や四肢にまで広がる発疹が特徴だ。
日本では予防接種ができてから根絶されていたが、この世界では天然痘の邪気が内臓に入り込むと死に至ると恐れられている。
私たちは医師が駐在する部屋にやってくると、さっそくこれからの治療方針を話し合う。
「天然痘には、根本的な治療はない。症状に対して治療していくしかないだろうな」
蒼の言うように、天然痘は医療が発展している日本でも治療法はなかったはず。
「けどさー、ここの患者、見るからに骨と皮だよ? 症状はひとつじゃないんだし、当然使う薬も増える。耐えられると思う?」
孔玉くんは腕を組んで、ちらりと廊下を見やる。薄い布の上に寝そべっている患者たちの頬はげっそりとこけていて、生気のない目でただぼんやりと宙を見上げていた。
「ここまで天然痘が蔓延したのも、十分な食事や休息がとれていなかったせいかもしれないね……」
田畑を耕す人手が不足すれば、食料は減る。貧困が病を悪化させているのだ。免疫力が下がっている状態での強い薬の使用は、余計に患者の体力を奪うことになる。
「同じ薬効で弱い薬を使って、あとは患者の自然治癒力を高められるような食事と環境を整えてあげるのが今できる最善の治療かも」
「症状がよくなってきたところで、段階的に薬の強さを上げていけばいいってわけね。それなら、俺が調剤を担当する」
立候補したのは薬学に長けている孔玉くんだ。安心して任せられる。そう思ったのは蒼も同じだったようで、異論はないと首肯する。
「発疹がかさぶたになって脱落するまでは、他の者に感染する可能性がある。それまで完全隔離になるな。あとは食料と寝床だが……」
「食料は宮殿から支給してもらうとして、寝台はさすがに運んでこれないし、医院の寝台が空くまでは家で診るしかないかも。それから、まだ天然痘にかかってない患者はこの医院からできるだけ遠い場所に移動してもらおう。完全に天然痘が収束するまでは、家族であっても面会謝絶で」
私たちは顔を見合わせて頷き合うと、さっそく治療にあたった。だが、想像以上に患者の衰弱が激しく、特に子供や老人は発熱や下痢による脱水ですぐに息絶えていく。
「ちょっと、しっかりしなよ!」
孔玉くんの声が聞こえて駆け寄ると、その腕の中で六歳くらいの男の子がぐったりとしていた。
天然痘の症状である手足の水疱は黒く変色していて、腹部も張り、呼吸も苦しそうに乱れている。なにより脱水が進んで皮膚は乾燥し、目も落ち窪んで、まるで老人のような顔貌だった。
――この子は末期だ。
「孔玉くん、その子は諦めて、次の患者を診よう」
彼の着物の裾を引くと、強く手を振り払われる。怒りに満ちた目に射貫かれ、私は息を呑んだ。彼が本気で怒ったところを初めて見たからだ。
「諦めろってなに?」
「孔玉くん……」
「これまで散々、患者を見捨てたらその瞬間から医者じゃなくなるとか、助けなかったことを後悔するとか、医者の前では性別も立場も関係ないとか、命の重さは等しいとか言ってたじゃん!」
今のは、私が悪かった。孔玉くんがこの子を助けたい気持ちを踏みにじるような言い方だった。
「ごめん、酷いことを言って……。だけどね、医者は神様じゃない」
昔、仙の島に流れ着いた罪人の男を助けようとしたときに委元から言われた言葉だ。
あれは私が医者を目指すきっかけになった出来事だった。
「薬にも限りがある、この身ひとつで救える命は限られている。だから身の丈にあった治療をする。それが俺たちのすべきことだよ」
「だからって、こんな子供を見捨てられるわけ? まだ、生まれてからたったの数年しか経ってない。もっと生きなきゃいけないって、生きてほしいって思わないの?」
孔玉くんの瞳は潤んでいる。本当は気づいているのかもしれない。この子が助からないことも、迷っている間にも他の患者の命が奪われていくということも。ただ、心が追いつかないのだ。
「私も……昔、大事な人を助けられなかったんだ」
「え?」
孔玉くんは私が女であることを知っている。それから、今は嘘偽りなくありのままの紅葉蘭として話をしたかった気持ちもあり、自分を〝俺〟ではなく〝私〟と呼ぶことにした。
「紅葉委元、私の義父で師匠だった人だった。駆けつけたときには血の海に沈んでて、頭では助からないってわかってたけど、信じたくなくて助けようとしたの。だけど、娘との最期の時間を削るんじゃないって怒られたんだ。医者は、救うだけが仕事じゃない。患者の望む最期を迎えられるようにするのも大事なんだって」
「それで、蘭はどうしたの? 治療は……」
「私は苦痛を取り除くために、委元の手に鍼を刺した。なにもできないなら、せめて痛みだけでも取り除いてあげたかったから。それが私にできる最期の親孝行だった」
今でも、あの時の選択が正しかったのか不安になることがある。私が委元のような名医だったなら、諦めなければ、救えたのではないだろうか。そんな後悔に心をがんじがらめにされそうになるけれど、でもあそこで私が無理にでも委元を生かそうとしたならば、別れの言葉は交わせなかっただろう。
「私は、いつも委元から『なんでも救えると思うな、その力量もないのに一度に多くを救おうとすれば、命はその手からこぼれ落ちる。だから生きる意思のある者を救え』って言われてきたの。その意味を本当に理解したのは、委元を看取ったとき。自分にできることと、そうでないことを見極めるのも、線引きするのも怖いことだけど、命を扱う以上は必要なことだと思う」
はっきりとそう言い切れば、孔玉くんは長い息を吐き、それからゆっくりと男の子の身体を布の上に横たえる。
「ごめん、せめてその苦しみが和らぐようにしてあげるから」
孔玉くんは痛みを鈍らせるために合谷に鍼を打つと、こちらに向き直った。
そして、「本当にバカ」と言いながら、私の頬を服の裾でごしごしと拭く。
「え? 急になに?」
彼の行動の意図が読めずにきょとんとしていると、呆れ交じりのため息が返ってきた。
「気づいてないわけ? 泣いてるんだけど、あんた」
「嘘!」
慌てて顔を触ると、じんわり湿っている。最近は試験生として忙しい日々を送っていたので、委元のことを嘆く時間もなかった。
けれど、こうして委元のことを話すだけでまだ涙が出るのだ。自分の心の傷が塞がっていなかったことを改めて思い知る。
「俺のこと説得するために、捨て身すぎ。でも……ありがと」
最後の『ありがとう』は小さな声だったが、ちゃんと私に届いた。
胸がいっぱいになり首を横に振ると、私は男の子の手を握って目を瞑る。
「ごめんね、本当にごめんね。許してとは言わない。だけど、約束する。人の身でありながら、人の命を選別した私は、生涯医者として命に向き合い続けると」
それが諦められた命への敬意。自己満足でしかないのかもしれないが、それでも伝えずにはいられなかった。
一部始終を見ていた孔玉くんも、男の子の手を取り告げる。
「俺も約束する。きみの命を無駄にはしないから」
私たちは風前の灯火ともいえる男の子の命に背を向けるように立ち上がり、他の患者を一心不乱に治療した。
***
天然痘の治療を始めてから三日。
患者の症状に合わせた治療がさっそく功を奏し、重症化までは抑えられている。
とはいえ、完治しているわけではない。いつ急変してもいいよう、私たちは交代で夜勤をすることにした。今日は私が担当なので、手燭台を持ち真っ暗な医院の中を巡回する。
廊下を歩いていると、突き当りのところでなにかが動いた気がした。灯りで先を照らすようにし、目を凝らしてみる。すると、人影のようなものが勢いよく医院の出口に向かって駆け出す。
「待って!」
――見間違いじゃなかった!
私は反射的に駆け出し、人影を追って医院を飛び出した。その瞬間、視界の端で銀の閃光が煌めき、耳が風を切るような音を捉える。
「え――」
顔を上げれば、殺気だった黒づくめの男と振り下ろされた剣。
――斬られる!
その場にしゃがみ込むのと、私の前に誰かが滑り込んでくるのは同時。振り下ろされた剣を流れるような仕草で弾き飛ばし、私に襲いかかってきた男を叩き斬る〝誰か〟。茶色い袈裟に身を包んだ彼は、赤い髪を靡かせこちらを振り返る。
「間に合ったようでなによりだ、蘭」
「な――りゅ、龍焔!?」
なぜここに、彼がいるのだろうか。いや、それよりも私を襲ったこの男は何者なのだろうか。頭の中に疑問がいくつも飛び交う。
「立てるか?」
手を差し伸べてくる龍焔に、私は放心状態のまま「はい……」と返して、その手を取る。そのまま強い力で引き上げられて立ち上がると、ここ数日の激務のせいか、はたまた生きた心地がしないせいか、眩暈がした。
「……っと、平気か?」
とっさに抱き留めてくれた龍焔の胸に顔を埋めたまま動けずにいると、別の足音が近づいてくるのがわかり、私は億劫ながらも顔を上げる。
「龍焔様、あっちに隠れてた虫は片付け終わりましたよー」
軽い口調でそう言って、明翼さんが手を振りながら走ってくる。
「声が大きいぞ」
明翼さんを窘めたのは兆雲さんだ。律儀にこちらへお辞儀をしてくる。
側近まで連れて、なぜ北山に?
状況を飲み込めないでいると、龍焔は剣についた血を振り落として鞘に戻す。
「花楽院でお前と会った日から、龍水が刺客を仕向けてきてな。お前のほうにも被害が出てるかもしれねえと思って来てみれば、嫌な予感が的中しやがった」
「そんなっ、あのとき龍水様たちに姿は見られてないはず……」
つい、ぽろっと口からでた失言。私はすぐに口を手で押さえたが、龍焔は無言で眉をひそめただけで、それっきり追及してくることはなかった。
彼は、私がなにかを隠しているのに気づいている。それでいて責めたりしない。私が敵かもしれないのに、その広い懐につい、なにもかも打ち明けて助けてほしいと縋ってしまいたい気になるからたちが悪い。
「試験は一ヶ月だったな。俺たちもその間、ここに滞在する」
「――え、そ、それはいけません! ここは天然痘患者であふれかえっています。万が一あなたに感染したりすれば、国の存亡に関わる!」
目的のためなら賤民の命を物のように扱う龍水様が国王になる未来など、想像するだけで恐ろしい。
「なら人手が必要だろ。国王の目が届かない辺境の地の状況を実際に見て触れ、改善するよう進言するのも王子の仕事だ」
「もう……それは武官や文官の役目では? 屁理屈が得意ですね」
王子相手だろうが、呆れ果てる。その私の態度は咎められるどころかお気に召したようで、龍焔は笑いを堪えるように唇をむずむずと震わせていた。
「相変わらず、歯に布着せねえな。でも、そこがいい」
「とにかく、医院の中はダメです。町の西側で滞在先を探してください」
「なぜ、西側なんだ」
説明してくれ、と龍焔の目が語っている。
「感染していない町人は町の西側に非難させています。この医院のある東側は、感染者を隔離しているんです。だから……」
「なるほど、俺たちに安全地帯にいろと」
こちらの考えを先回りした龍焔が苦笑いする。
「当然です。病に倒れては龍水様の刺客と戦えませんよ」
「一理あるな。ただ、顔は出す」
「行き来は基本禁止です。感染を広める危険があるので」
「ならば、俺はここに留まるしかないな。言っただろ、刺客の狙いはお前でもある。そばにいねえと、守ってやれねえ」
龍焔は私の頭をわしゃわしゃと撫でると、決定事項だとばかりに医院の中へ歩いて行ってしまう。その背中を唖然としながら見送っていると、明翼さんが肩をぽんぽんと叩いてくる。
「龍焔様は一度決めたら梃子でも動かないから、諦めるしかないよー?」
「思い立ったら即行動、誰にも止められん。すまないが世話になる」
悟りを開いたような兆雲さんの目を見れば、これまでの度重なる王子の自由行動に悩まされてきたことが窺える。
足元に転がっている刺客の遺体。王子自らこの疫病の蔓延する地に踏み込んできたことといい、私の知らないところでなにか大きな事件が動き出そうとしている?
底知れない闇がすぐそばまで迫っている気がして、私は身震いするのだった。
***
龍焔が北山に来てから一週間。
龍水様の刺客から私を護衛しつつ、龍焔はこの内医院で政務をしている。あわよくば、私と龍焔自身をエサにして刺客をおびき出せれば上々だと考えているようだ。
さすがに刺客の話は孔玉くんや蒼、そして遜徳さんにはできず伏せられている。彼らまで龍水様に狙われるような事態にならないよう、念には念を入れたのだ。
命を狙われているだけでも心労が祟りそうなのだが、今はもうひとつ私の頭を悩ませていることがある。
「おかしい、西側でも天然痘患者が出るだなんて……。それも、東側の患者より重症。行き来は禁止していたはずなのに」
「様子を見に行く必要があるな」
端的な言い方ではあるが、いつも憮然としている蒼の表情は珍しく重々しい。
「今日の夜勤は孔玉くんだったよね」
「ああ、起こしてくるか?」
蒼の言葉に一瞬、悩んだものの私は首を横に振る。
「私が様子を見てくる」
夜勤は長いので、昼間のうちにしっかり睡眠をとらなければあとがもたない。本当なら手を借りたいが、患者は夜から朝方にかけて急変が起こりやすい。寝不足は作業効率を下げるどころか治療ミスにも繋がりかねないので、致し方ない。
「患者は医院に移動する気力もないはずだ。向こうに滞在して治療することになる。重症患者をひとりで診るのは無理だ」
蒼の指摘は的を射ているが、ここに医者は四人しかいないのだ。医者とて疲れが祟れば病にかかる確率が上がるので、夜勤の孔玉くんを駆り出すわけにはいかない。今、私たちが倒れるわけにはいかないのだ。なら、私が行く他ないのだが、果たしてひとりで診きれるかどうか……。困り果てていたとき、遜徳さんが自分の胸を叩く。
「ここは私にお任せください。この医院の患者の症状は落ち着いています。これなら、私ひとりでも見れます。どうぞ、蒼殿と蘭殿で西側の患者の治療にあたってください」
症状は落ち着いているが、まだ予断を許さない患者がほとんどだ。
日中、三人で患者の治療にあたってもまだ、猫の手も借りたいくらいだというのに、大変な役割を引き受けると言ってくれた。
「今はそれが最善だな。行くぞ、蘭」
「うん、そうだね……遜徳さん、ありがとうございます」
私は頭を下げると、先に歩き出した蒼の背を追った。
町の西側には徒歩で三十分ほどで辿り着いた。蒼と町人の家に上がり患者を診ると、その手になにかの草を圧縮したような固形物が握られているのに気づく。
「これ、なに?」
首を傾げる私に、患者の家族が「天然痘が治る薬です」と教えてくれた。
「天然痘が治る薬? 天然痘に根本的な治療薬はありません。一体誰がこんなものを……」
「数日前に、この町を訪ねてきた祈祷師から頂いたものなのです」
「数日前……」
嫌な予感がして、蒼と顔を見合わせる。
この地区で天然痘が発症した時期と被るのは、偶然なのだろうか。
不穏な空気が流れる中、私は患者から謎の固形物を借りて色や匂いを確認した。
ほんのり甘い匂い。よく見ると、桃色の花のようなものが固形物に交じっている。
「これ、利水剤?」
代謝異常により排尿ができず、水分や毒素が体内に滞る状態を水滞を呼ぶ。それを外に出す働きをするのが利尿作用のある利水剤だ。
「天然痘の患者が利水剤なんて飲んだら、脱水になって汗が出にくくなる。体温は汗によって調節されてるから、引き起こされるのは発熱……!」
「患者はますます体力を消耗し、重症化する。西側で天然痘の重症患者が出たのは、その祈祷師が原因か」
「蒼、どうしてその祈祷師は病を広めるような真似をしたのかな」
「祈祷師は人の信仰心を利用して金を稼ぐ。例えば飲めばどんな病も治る万能薬、死者が蘇る水、などと謳ってな」
私たちは病以外に、私利私欲のために人の命をも商売の道具にする輩とも戦わなければならないのか。同じ怒りを感じているだろう蒼と、私の手の中にある利水剤を見下ろす。
早期に天然痘の症状を快方に向かわせ、幸先がいいと思われた試験だったが、祈祷師の登場で早くも暗雲が立ち込めることになった。
蒼と手分けして治療に当たったものの、症状が進み手の施しようがない患者がほとんどだった。しばらくは町の西側地区に泊まり込むことになり、町人に借りた空き家にやってくると、すでに蒼がいた。
「蒼、調剤ありがとう! 私も手伝うね」
道具箱を机の上に置き、蒼の隣に立つ。そのとき、蒼の身体がぐらりと揺れた。
え――……。やけにゆっくりと地面に崩れ落ちる身体。ガシャンッと薬の載った盆が床にぶつかる音で我に返り、私はすぐに蒼のそばに腰を落とす。
「蒼! 蒼!」
名前を呼びながら身体を抱き起すと、尋常じゃないほど熱を持っていた。
「うっ……悪い、目が回って……」
「蒼、まさか……」
目の焦点が合わないほど、意識が朦朧するほどの高熱。私は「ごめん」とひと言謝って、彼の口腔内を確認する。そこにあるのは天然痘の証である発疹。
「そんなっ、蒼が……感染した?」
頭が真っ白になり、蒼が感染した事実に放心する。そんな私を叱咤したのは、縋るように私の着物を握った蒼の手だった。
――蒼を寝台に運ぼう。
私は大きい蒼の身体を死に物狂いで寝台に運び横にする。すぐに解熱剤を彼の口に運んだのだが、咳き込んで全部吐き出してしまう。
「蒼、お願いだから飲んで……っ」
取り乱している場合でないことは承知しているが、涙で視界がぼやけた。
彼の唇に吸い飲みを当てて呼びかけていると、うっすら蒼の瞼が開く。
「薬、飲める?」
怠そうではあるが、蒼は首を縦に振った。
私は彼の上半身を軽く起こし、そっと吸い飲みを傾ける。今度はむせることなく薬を嚥下したので、ほっと息をつくと、蒼が浅い呼吸で「すま……な、い」と謝ってきた。
「試験のことを気にしてるなら、なにも謝ることないよ。仲間の体調不良に気づけなかった俺の落ち度だから。今は自分の身体のことを心配して」
安心させるように言い聞かせれば、蒼は答える気力がないのか、ひとつ頷き目を閉じる。眠りに落ちたようだ。
「絶対に大丈夫だからね」
医術の世界に絶対などないことは知っている。だが、それでも〝大丈夫〟だと信じたかったのだ。私は祈るような気持ちで蒼の手を握り、すぐに頭を切り替える。
――蒼のことも、町の人たちのことも助ける。だから、不安に項垂れるのはもう終わり。
私はそっと寝台から離れ、明日患者が飲む薬を作る。蒼の熱も一時は解熱剤で下がったものの夜中にまたぶり返し、看病で一睡もできずに夜を明かした。
「先生! 妻は妻は、どうなってしまうんでしょうか……っ」
翌日、動ける町人の力を借りて広場に寝台を並べると簡易的な診察場所を作った。
そこで私は危篤状態の女性の治療をしていたのだが、他の患者と違う経過を辿っており、出血しやすいという傾向が見られていた。
「天然痘の中でも、こういった出血が見られるものは予後が悪いとされています」
私の服にすがりつく女性の夫に、慎重に宣告をする。
女性はもう助からない。この町に来てからというもの、幾度となくこの瞬間に立ち会ってきた。心がすり減るが、それでも医者である私には説明する責任がある。残された時間をふたりが悔いのないように過ごすためにも。
「これ以上の治療は……奥様の大事な命の灯火を吹き消すのと同じことになります」
「そんな……嘘ですよね、先生?」
大事な人をこれから看取るだなんて、当然、簡単には受け入れられないだろう。
私は残酷な言葉だと自覚しながら、反感を買う覚悟で「悔いのないように」と告げる。予想していた通り、女性の夫は眉尻を吊り上げ、怒りにくらんだ目で鋭く睨みつけてくる。
「ふざけるな! あんたは医者だろ!」
怒鳴り声が辺りに響き渡り、胸倉を掴まれた。その様子を町人たちは困惑した様子で見ていたが、助けに入る者は誰もいない。
おそらく、誰もがこの男性と同じ感情を抱いているのだ。大事な人の死という理不尽への怒りの矛先を誰しも探している。それが私に向くことは想像の範囲内だ。
この病を治せるのは医者だけで、その医者が救うことを放棄した。そう思えば、私に行き場のない悲しみや怒りをぶつけられるから。
「なんとかしろよ! それとも、賤民は助ける価値もないってか? あんたは高貴な宮廷医見習い様だからなあ!」
胸倉を掴まれたまま、何度も揺さぶられた。首が絞まって息ができない。
この苦しさこそが、目の前の男性が感じている悲しみそのものなのかもしれない。
掴まれたところから男性の心の痛みが流れ込んでくるようで、振り払うこともできず、されるがままになっていると――。
「そこまでにしておけ」
ふいに気道に酸素が入り込み、私はその場に膝をつくと咳き込みながらも深呼吸を繰り返す。
「蘭! まったく、世話がやける!」
「この声……孔玉、くん?」
私の顔を覗き込んできたのは、紛れもなく孔玉くんだった。医院のほうはどうしたのだろうか、遜徳さんひとりで大丈夫なのだろうか。いろいろ問いたいことはあるが、これ以上声を出すのは億劫だった。
「試験のためだけに疫病が蔓延した地にやってきたのなら、患者を診ずに安全な建物で薬だけ作っていればある程度の治療はできる。だが、この者は自ら患者を診ている」
先ほど、男性から解放されたときにも聞こえた声。涙目で顔を上げると、龍焔が男性の腕を掴んでいた。その両脇には兆雲さんや明翼さんの姿もある。
「賤民だからと命を選別するような人間でないことは、それだけでわかるはずだ」
まったく、この男は……王子だって自覚があるのだろうか。心配になるほどまっすぐで、躊躇わず人のために行動してしまう人。やっぱり敵だとは思えない。
ずっと自分の中にあったこの考えを否定することは、もうできなかった。
「想像もできないほどのやるせなさを、お前は抱えてるんだろう。だが、誰かのために身を尽くす医者の心を傷つけないでほしい。その痛みは、お前にも返ってくるんだからな」
いつしか、龍焔の言葉に誰もが耳を傾けていた。心を奪われていた。男性は力なくその場に座り込み、両手で顔を覆って慟哭する。
「けほっ、立って……くだ、さい」
私は咳き込みながら腰を上げ、泣いている男性に歩み寄る。
「バカっ、まだ休んでなよ!」
ごめん、孔玉くん。だけど、女性に残された時間は少ないから……。
背後から孔玉くんの制止の声がしたけれど、構わず男性の腕を掴んで引く。
「声、を……かけて、あげて……」
酸素が足りないせいか、寝不足のせいか、頭に靄がかかったみたいだ。もっと他に彼を鼓舞する言葉があるだろうに、考えが至らない。でも私は「声をかけて」と繰り返した。
「蘭……」
その様子を見守っていた龍焔に名を呼ばれた気がしたけれど、私の目には男性しか映らない。
「もう、今しか……ない、から」
「なんで、あんた……」
男性は酷いことをしたのに、と言いたげな顔だ。
「いいから、早く……行って、あげて。ひとりで……旅立たせては、だ……め……」
そう口にした途端、世界が暗転する。身体が重力に従って地面に吸い込まれる感覚。受け身を取ることも敵わず、衝撃を覚悟したのだが――。ぽすんっと、想像に反して柔らかく温かいなにかに抱き留められる。
「本当に、無茶ばかりするやつだな」
ああ、龍焔だ――。
顔を見なくとも、彼の困ったような笑みが容易に瞼の裏に浮かび上がった。
「ん……んう?」
ゆっくり重い瞼を持ち上げる。眩い日の光が容赦なく差し込み、私は思わず目を細めた。
「よう、蘭。目が覚めたみたいだな」
顔を覗き込んできたのは、寝台の横の椅子に腰かけている龍焔だった。
「あ……あの、男性、は……ちゃんとお別れ……でき、ましたか?」
「お前は……丸一日眠って、ようやく起きたと思ったら他人の心配か」
龍焔は困ったように笑い、「できてたから心配するな」と言った。私は安堵して、寝台に深く沈みこむように身体を預ける。
「よかった……」
けど、王子が重症患者のいるこの地区にいるのは問題ではないだろうか。というか、どうして私が心配しているのだろう。王子って自覚あるのかな、まったく。
なんでここにいるのか、咎めるつもりで彼をじとりと睨みつける。私の言いたいことを察知したらしい龍焔は、首をすぼめた。
「心配で来たって言ったら、お前は怒りそうだな」
「当たり前です」
「はっ、想像通りの反応だ。じゃあ、もうひとつの理由を話すとするか」
「もうひとつの理由、ですか?」
上半身を起こそうとすると、龍焔は「そのまま休んでろ」と言って、私の身体を寝台に押し戻した。
「天然痘の偽万能薬をばらまいた祈祷師の話だ」
「……! なにか、わかったんですか?」
「ああ、従来の祈祷師は、なんの効能もない水や気分を高揚させる酒、麻薬を売って、元気になったような錯覚をさせるか、飲み続ければ完治するかもしれないと期待を持たせて継続的に偽の薬を買わせる手法を使う者が多い。万能薬と謳っている以上、患者の症状が悪化すれば嘘の薬を売ったとすぐに露見するからな。だから、今回はこれまでの祈祷師とは目的が違う」
考えてみれば、確かにおかしい。祈祷師は信仰心を利用して金を稼ぐ。それなのに利水剤などを使えば患者は病と闘うための気力を発熱に奪われ、すぐに死に至る。
「その祈祷師は患者を殺したかったってことですか?」
「そうだ。そして、その万能薬の正体は利水剤だと孔玉から聞いてな」
さすがは薬草オタク。彼なら、私や蒼よりも早く偽万能薬の正体に気づけるだろう。
「普通、人を殺すときは毒を使おうとする。だが、利水剤を使った」
龍焔の顔に嘲笑が浮かぶ。その言葉の裏に隠された、信じたくもない可能性。
知るのは怖い。けど、それ以上に気になって尋ねずにはいられない。
私は冷や汗をかきながら、ゆっくりと答え合わせをするように口を開いた。
「天然痘の患者が利水剤を服薬すればどうなるのか、知ってて万能薬として配った。なら、その祈祷師は医術の心得がある……ってこと、ですか」
同じ医者が人の命を奪うような真似をしただなんて、信じたくなかった。医者は救いたいという気持ちが少なからず心の中にあって、目指すものだと思っていたからだ。
「医術の心得がある祈祷師がこの町を狙った理由は、十中八九お前だ。お前を宮廷医試験から落とそうとしている人間がいる」
犯人が祈祷師である可能性を龍焔は否定しなかった。それどころか、この事件が私を蹴落とすために引き起こされたのだと言う。
私を宮廷医にしたくないのは、委元の死の真相を探っているからだろうか。それだけのために人の願いと命を踏みにじったのだとしたら、医師にあるまじき行為だ。
胸の底が冷え切っていく。
そして、自分のせいで町人を巻き込んだかもしれないという事実が罪悪感という重りになって肩にのしかかってくる。
「勘違いすんな。お前のせいじゃねえ。誰かの罪まで背負うな。悪いのは人を救うべき医術で、人の命を蹂躙した人間だ」
龍焔の手が私の頭をいつものようにわしゃわしゃと撫でる。少しだけ心が軽くなった気がして、ぎこちなくはあるが笑みを返した。
「蘭が宮廷医になると困る人間がいるとすれば、委元と因縁がある者だろうな」
「委元と因縁……」
これまでの私なら真っ先に、委元に王弟の龍辱様を殺すようそそのかした龍芽国王を疑っただろう。暗殺を断られた腹いせに、委元を宮殿から追放し殺した人物だから。
けれど、委元の息子である威安さんが龍辱様と龍水様に殺されたと判明した以上はそうとも言えない。命令に背いたのが理由で委元も委元の家族も殺されたのだとしたら、威安さんを手にかけるのは龍芽国王のはずなのに、矛盾しているからだ。
刺客を放ってきた龍水様、委元を殺した龍芽国王。一体、誰が私を狙って……。
「――入るよ!」
私の思考を断ち切るように、勢いよく明翼さんが部屋に入ってくる。
「蘭ちゃん、目が覚めててよかった」
「明翼さん?」
「動ける? 蒼ちゃんの容態が悪くなったみたい。今、孔ちゃんがひとりで治療してるんだけど、蘭ちゃんの手を借りたいって」
いつもにこにこしている明翼さんの表情が曇っている。顔からサーッと血の気が引く気配がした。
「蒼が……蒼!」
気づいたときには、部屋を飛び出していた。
「蘭、急に動くな、まだ万全じゃないだろ!」
龍焔に呼び止められたけれど、私は力の入らない足を無理やり動かして蒼のいる部屋まで駆けていく。
「――蒼!」
倒れ込む勢いで寝台に手をつく。急いで固く瞳を閉じ、ぐったりとしている蒼の手首で脈を図った。その拍動が弱いことに気づき目頭が熱くなる。
しっかりしろ、泣いてなんになる。
強く唇を噛み、痛みで頭を冷やす。目を瞑りふうっと息を吐くと、「私は医者だ」と何度も自分の役目を思い出した。
ゆっくりと開眼し、私は蒼――患者を診る。
「孔玉くん、見立てを教えて」
「蘭、身体は……」
「平気だから。患者の容態は?」
あえて、蒼とは呼ばなかった。身内や親しい人間が病になるのは、医者とて冷静ではいられない。だから、私は線引きをする。一患者の彼に向き合う。その決意を感じ取ったのか、目を見張っていた孔玉くんは静かに頷く。
「……わかった。蒼……患者の発疹から邪気が入って膿瘍(のうよう)ができてる。右足は真っ赤に腫れてパンパン。この炎症のせいで、さらに発熱してる」
天然痘ではこういった皮膚の二次感染が起こりやすい。発疹部分は膿瘍――膿がたまって皮膚が赤く腫れあがっている。
「これ以上の発熱は、患者の負担になるね」
「柴生膏を炎症の起きてる皮膚に塗って、邪気を消滅させよう」
孔玉くんの言う柴生膏は邪気――菌や炎症に効く薬だ。処方は間違っていないが、膿を排除しなければ十分な効果が得られない。膿があるせいで薬が皮膚内部に届かないからだ。
「薬を塗るのは膿を外に出して、皮膚を洗浄してからでないと、邪気が広がってく一方だよ」
「なに言って……膿を出す? そんなこと、できるわけ……」
「切開して、排膿するんだよ」
これなら、気性が荒くて怪我が絶えない仙の患者たちの治療で何度もしてきた。
迷わず道具箱を開けて切開用の刃物を取り出すと、孔玉くんと壁際に控えていた兆雲さんの顔に緊張が走った。
後から駆けつけてきた龍焔と明翼さんは、部屋に立ち込める重苦しい空気を感じ取ったのだろう。困惑の表情を浮かべた。
「なにがあった」
龍焔の問いに、兆雲さんは側近の務めだからか、「実は……」と報告を始める。
無論、龍焔の顔が険しくなっていく。
「蘭、お前の医術の腕は実際にこの目で見たから疑ってはいねえ」
兆雲さんの話が終わると、龍焔は私に鋭い眼光を向けてきた。
「だが、さすがに人の身体に侵襲がある医術は容認できない」
「……私にこの技を授けたのは委元です。そして、たとえ王子が認めなくても、私は彼を助けるために切開します」
「助けられる保証はあるのか? 悪化の可能性は? お前が蒼の命を背負う覚悟はあるのか?」
矢継ぎ早に問われ、私は息を呑む。龍焔の放つ威圧感が肩に重くのしかかり、気を抜いたら膝から崩れ落ちてしまいそうだ。
けれど、この医術を授けてもらった時点で反感を受ける覚悟はしていた。委元から『いつか、お前の医術を見て、異端だと罵る者も現れるだろう』と言われていたからだ。
でも、私は迷わない。だって、委元が『お前はお前の信じた道を行け』と背中を押してくれたから。
「私にとって命を背負うというのは、向き合うことから逃げないことです。だから必要なら、私は周りの声も目も意識から排除し、迷わず己の成すべきことだけを成す」
はっきり言い切ったとき、服の裾を掴まれた。驚いて下を見ると、いつ目を覚ましたのか、青い顔をした蒼が苦しげにこちらを見上げている。その瞳には迫るものがあり、私は圧倒されて言葉を紡げない。
「やれ……蘭」
蒼の手は私の腕から手へと移動し、どこにそんな力が残っているのか強く握られる。
「お前の腕、なら……安心して、この身を任せられる」
「蒼……」
「なにかあった……として、も……孔玉なら補える。だから、やれ……」
かすかに笑みを浮かべた蒼に、彼を救いたいと思う気持ちが先ほどよりも強くなる。
それは孔玉くんも同じだったようで、反対側の青の手を握りふんっと鼻を鳴らした。
「俺がついてるんだから、ヘマなんてさせないよ」
「ああ、信じてる……」
蒼が再び目を閉じ、私は孔玉くんと視線で合図をすると、周囲の目を完全に遮断して切開と洗浄の準備に取りかかった。私は痛みで舌を噛まないよう蒼の口を布で縛る。
「合谷に鍼、打つよ。痛みは鈍るけど、完全に取りきれるわけじゃない。俺が身体を押さえておくから、蘭は切開して」
「わかった」
孔玉くんが鍼を打ち終えるのを確認して、私は蒼のふくらはぎにある膿瘍の前に立つ。すると龍焔が「待て」と言って前に出てきた。
「龍焔、邪魔するならここから追い出しますよ」
王子相手だろうと、仲間の命がかかっている。引くわけにはいかないと彼に対峙すれば、ため息をつかれた。
「お前の覚悟は十分に伝わった。なにより、蒼自身が望むのなら俺に止める権利はねえ。だから、手伝う。押さえるくらいなら、俺にもできそうだからな」
「え……いいんですか?」
「ああ、足を押さえればいいか?」
「あ、はい!」
切開の最中に足が動けば、余計な傷を作ることになる。今はできるだけ多くの手が必要だったので、助かった。
「俺たちにも、できることがあれば言ってくれ」
「雑用でもなんでもするからね!」
兆雲さんや明翼さんまで助力を申し出てくれる。私はふたりにも蒼の身体を押さえてもらい、さっそく膿瘍に刃をあてた。
「――行きます」
膿瘍に刃を食い込ませると蒼が口に挟んだ布の隙間から「があああああっ」と叫び、激しく手足を動かした。用心棒をしていただけあって力が強く、男四人がかりで押さえても動きは大きくなる。鍼の麻酔はあくまで感覚を鈍らすこと。日本のようにすべての感覚を遮断することはできないので、意識がある中で皮膚を切られているのと同じ痛みに等しい。
痛いよね。でも、どうか耐えて――。
汗がつうっと額から落ちてきて、頬を伝う。それでも私は刃をぶらすことなく、一本の線を描くように切っていく。
「ああああっ、ふうっ、ふうっ」
背中を限界まで反らせ、獣のようにうめく姿に皆の瞳には動揺が映り込む。私は「手を緩めないで!」と声を張り、刃を滑らせる。切り口からドロッと黄緑色の膿が流れ出て、腐った卵のような匂いが鼻を突いた。
私はまだ傷口の中に残っているだろう膿を洗い流すべく、人肌程度に温めた湯をかける。
「よし、丸麦を塗布して縫合します。孔玉くん」
「わかってる」
孔玉くんが薬を塗っている間に、私は縫合用の針に糸を通した。
「行きます」ともう一度、声をかけると皆が蒼の身体を押さえつける。
緊張感が弾けそうなほど高まり、針が皮膚を貫くと同時に耳をつんざくほどの蒼の絶叫が部屋に響き渡った。
「ぐうっ……う……」
悲鳴の糸が途切れ、蒼の手足がぱたんっと力なく寝台に落ちる。静寂が訪れると同時に、私は縫合を終えて額の汗を手の甲で拭った。
「ひとまず、これで終了です」
その夜、なかなか寝付けなかった私は、窓際の椅子に腰かけてぼんやりと月を見上げていた。
「なんだ、まだ起きてたのか」
振り返らずとも声の主が誰なのかわかった。
足音が近づいてきて、ようやく私は隣に立った龍焔を見上げる。
「手術をした日は、眠れなくなるんです」
「俺たち武人が戦場を駆けたあとに、妙に気分が高揚するのと同じ感覚か」
「戦場……たしかに、そうかも」
病という敵と戦ったあとだからか、無性に血がたぎっているのかもしれない。
開いた窓から吹き込む夜風がほんのり冷たくて心地いいのも、そのせいだろう。
「刃を皮膚にあてがっても、まったく取り乱さなかったお前の度胸。今思い出しても、痺れるもんがあるな」
「それ、褒めてます? まるで冷徹な人間だと言われてるみたいに聞こえます」
あまり嬉しくない、心境は微妙だ。
苦い顔をしていたからか、龍焔が「言い方が悪かったな」と肩をすくめる。
「褒めてはいるが、ますますお前という人間が危ういなとは思ったぞ」
「危うい……龍焔には、心配されてばかりですね。俺が無鉄砲に見えるんでしょう?」
自分でも自覚がある。この世界に来るまでは、私はなにに対しても無気力で無関心な人間だと思っていた。けれど紅煌国に来て毎日たくさんの患者に出会い、委元と生活し、都に来て同じ志を持つ仲間と夢に向かって学び、自分の中の感情がどんどん引き出されていったような気がする。それが龍焔の目には、感情的で危なっかしく映るのだろう。
「そう拗ねるなよ。ただ、俺が勝手に気になっちまうだけだ」
「それを言うなら、俺は龍焔を見ているほうが気が気じゃないです」
この際だからきちんとお伝えしておこう。彼は王子だというのに奴隷船の件といい、なんでも自分で解決しようとしすぎなのだ。
「王子なのに酒に酔って庭で倒れてたり、王子なのに疫病の広まってる町まで俺を助けに来たり、本当に王子の自覚あるのかなって」
「なんだろうな、お前が王子王子言うと、嫌みに聞こえるぞ」
「気のせいじゃないです。もっと慎重に動いてください。でないと、いつ寝首をかかれるか、わかったもんじゃありません……よ」
声が萎んでいく。私は龍焔を欺き、彼の父親を失脚させるために情報を集めている。なのに、どの口がそれを言うのだと自己嫌悪に陥っていた。
「どうか、油断しないで」
私のことをもっと警戒してほしい。私があなたを陥れる前に――。
そんなことを考えてしまう時点で、すでに委元の無念を晴らすという決意が揺らぎ始めているのは明らかだった。胸に無数のガラス片が突き刺さっているかのように痛む。弱い自分に情けなくなって、私は俯いた。
「お前はときどき、迷子の子供みたいな顔を見せるな」
「え――」
思ったより近くで、柔和な響きを持った声が聞こえた。視線を上げるより先に武骨な手が私の後頭部に回り、強く引き寄せられる。鼻先が固い胸板にぶつかり、逞しい腕が背中と腰に回った。
「なんでか無性に守ってやらねえとって思うつったら……おかしいか?」
耳元に落ちてきた囁きには、少しだけ甘さが混じっている気がした。
龍焔に抱きしめられている。その事実がじわりじわりと思考に浸透していくのに合わせて、頬が焼けるように熱くなった。
なにか言わなくちゃ。
沈黙が焦燥を駆り立て、私は考えもまとまらないままに口を開く。
「おかしいって、なんで……でしょうか? 友人として、大切に思われてるんだって、俺はうれしいですよ?」
〝友人として〟をあえて強調した理由に心当たりはあるが、自意識過剰で思い違いの可能性大だ。だから私は、彼は〝友人として守りたい〟と言ってくれたのだと思い込むことにする。
「〝友人として〟、か。それ以外の言葉は受け入れない、そういう意思表示か?」
「なんですか、それ。それ以外になにがあるって言うんです? 俺は男なのに……」
まるで、恋い慕うからだと告げているみたいではないか。今の私は男の姿をしている。そして目の前にいる男は、花楽院に通い詰めている大の女好きだ。私を恋い慕う相手として見るはずがない。そう思っていたのに、少し身体を離した龍焔が指で私の顔の輪郭を優しく愛おしむようになぞった。
「男だろうが、女だろうが、関係ねえみたいだ」
早く、離れなければ。その先の言葉を聞いてしまったら、私はきっともう二度と彼を疑えなくなる。彼が向けてくれる感情は、委元の悲願を叶える道の妨げにしかならない。
「お前自身が俺にとって――」
「言わないで!」
男のふりも忘れて、ありのままの紅葉蘭が顔を出す。
龍焔を疑いたくない、信じたいと思ってしまう理由。本当はずっと前から予感があった。私の心は少しずつ、でも確実に彼に惹かれている。このまま流されるようにして、彼の腕の中に収まっていようか。そうできたなら、きっと女としては幸せになれただろう。性別も超えて、私自身を求めてくれた人だから。
でも私は、委元や委元の家族を殺した人間を許せないし、私を信じて力を貸してくれた寸さんを裏切ることはできない――。
「ごめんなさい」
彼の顔も見ずに、私は逃げるようにして部屋を飛び出した。
――どうしよう。
部屋を飛び出したら、行き場所がない。
「寝るところもないし、今戻っても龍焔がいるだろうし……」
ぐるぐると考えながら歩いていると、蒼の部屋の前を通りかかる。
そうだ、蒼の様子を見に行こう。切開のあとで傷口の痛みもあるだろうし、鎮痛剤の効果が切れていないかだけでも確認したい。
私は時間も時間なので、起こさないように静かに扉を開ける。最低限、人がひとり通れるくらいの隙間ができると、身体を滑り込ませるようにして中に入った。すると、先客が私を虫けらを見るような目で待ち受けていた。
「ちょっと、盗人が侵入してきたみたいだけど?」
「孔玉くん!? なんでここに?」
「それはこっちのセリフ。そんな忍び足で入ってくる必要ある?」
「いや、蒼が寝てたら申し訳ないなって思って」
寝台に近づきながら頬を掻くと、孔玉くんは私の顔を見て一瞬だけ目を見張った。
まさか龍焔とのこと、なにか悟られた?
いや、ありえない。あの場には私と龍焔しかいなかった。先ほどの一件を孔玉くんが知るはずがないのに、目ざとい彼のことだから見透かされてしまいそうな気がして視線を逸らすと、すぐに「蒼ならさっき目が覚めたよ」と言って横にずれる。
よかった、問い詰められなくて。私の様子がおかしいことに気づいているだろうに、知らぬふりをしてくれている。
ありがとう。心の中で感謝していると、寝台にいた蒼が苦笑しながら私を見上げているのに気づく。
「――蒼! 目が覚めたんだね!」
私は彼のそばに腰を落とし、思わずその肩に額を擦りつける。
「ああ、お前と孔玉のおかげだ」
まだ本調子でないのか、蒼はゆるゆると私の背に腕を回し、トントンと叩いてきた。
「蒼が俺と孔玉くんを信じてくれたからだよ」
「いつも近くで、お前たちの医術を見てきた。俺の知る限りでは、お前たち以上の医者はいない」
絶対的な信頼を寄せてくれる蒼に、私と孔玉くんは同時にひしっとしがみつく。
今ほど、自分が医者でよかったと思うことはない。この手で、大事な仲間で同士の彼を救うことができたのだから――。
***
蒼の体調が戻り完全に復帰すると、発疹のかさぶたが完全に脱落するまでは感染の可能性があるため、私たちは患者の隔離を徹底した。それが功を奏し、北山に来て一ヶ月が経とうとした頃、天然痘の新たな発症者をなくすことに成功した。
龍焔と側近のふたりは、祈祷師の情報を掴んだらしく一足先に宮殿に帰還している。
「北山に派遣された試験生が、あなた方で本当によかった……ううっ」
遜徳さんが無事に試験を終えて都に帰る私たちを見送りに来てくれたのだが、先ほどから号泣している。
ここへ来てから、休まる暇もなく治療に明け暮れた。あっという間で短かい期間だったけれど、私たちが過ごした時間は濃く、別れは辛い。
「また、必ず顔を出しに来ますから」
戦友ともいえる遜徳さんに、そう約束したとき――。
「おーい、気をつけて帰れよーっ」
え……? 大勢の足音と声が近づいてくる。振り向くと、町の入口に町人たちが集まってきた。その中にいたひとりの男性が私の前まで歩いてくる。私の胸倉を掴み、愛する妻を助けてくれと訴えていた男性だ。
「あのときは、本当にすみませんでした」
男性に勢いよく頭を下げられ、私は狼狽える。
「そんな! いいんです、顔を上げてください」
「ですが……」
「誰しも愛する人が助からないと聞いて、『はい、そうですか』なんて受け入れられるものではありません。その悲しみの矛先を受け止めるのも、私たち医者の役目ですから」
医者は薬を処方し、鍼を打つだけが仕事ではない。患者やその家族の心に寄り添うのも、立派な役目なのだ。だからあのときのことを責めるどころか、むしろ私の伝え方に問題があったのではないかと反省している。
「そう言ってもらえると、気が楽になります。あなたのおかげで、最後にちゃんと妻に『愛してる』と伝えることができました。届いているかは、わからないですが……」
そっか、最後に伝えたいこと、言えたんだ。
龍焔からちゃんとお別れはできてたと聞いてはいたのだが、私は見届けることができずに意識を失ってしまった。ここのところずっと忙しかったので、改めて男性の様子を見に行くこともできず、気がかりだったのだ。
間に合ってよかった。心底安堵して、私は男性にきっぱりと告げる。
「届いてます、奥さんにはきっと。嬉しかったはずです。愛に包まれて、眠られたんですから」
「そう……でしょうか。……っ、そうだと、いい……なあ」
嗚咽を堪えながら、男性は顔をくしゃくしゃにして泣く。
悲しい、嬉しい、愛しい。様々な感情がいくつも混じったような形容しがたい表情だった。泣いて泣いて、少しずつ胸の内にたまっていた悲しみを吐き出して、すっきりさせること。それが前を向いて明日を生きていくための近道なのかもしれない。
私もすべてが終わったら、委元のためにひたすらに涙を流そう。それはもう少し先になるだろうけれど、悲しむより先に今はやり遂げたいことがあるから――。
「それでは、皆さんまた会いましょう!」
いよいよ旅立ちのとき。私たちは馬に跨ると、町人たちに向けて大きく手を振った。
一ヶ月前は病に伏せって生気のない顔をしていた、そんな彼らが浮かべているはつらつとした笑顔。感慨深いものがあり、涙で視界が歪んだとき、隣から「泣くなよ、グズ!」と理不尽な怒声が飛んでくる。
「そう言う孔玉も泣いてるだろう」
「蒼だって、鼻すすってたの知ってるんだからね」
ふたりのくだらない漫才に、何気ない日常が私たちにも、そして町の人たちにも戻ってきたのだとわかって、私までふふっと笑ってしまう。
――ねえ委元、医者ってすごいね。
私は空を仰ぎ、きっとあの青の向こうから見守ってくれているだろう委元に話しかける。
当たり前に来る明日などない。だから、普通こそが最上の幸せなのだと思う。それを守る医師というのは、本当に尊い仕事だと気づかされた。
宮廷医を目指したのは委元の悲願のためだったけれど、今の私は違う。真相を暴くという目的を忘れることはできなくても、それ以前に私に救うための技を授けてくれた患者や師匠のためにも医者として成長したい。
苦しい一ヶ月だったけれど、いちばん見失ってはいけないことを思い出させてくれた試験だった。
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