▼七章「反撃」

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▼七章「反撃」

 袈裟の頭巾を深く被り、都に続く林道をひたすらに進む。人目のない砂浜に船を泊めてから三日近く歩き通しだった。  木の根がぼこぼこと地面から顔を出し、足場が悪いために下肢の疲労が強い。何度もよろけそうになる私の手を引いてくれたのは、龍焔だった。 「悪いな、夜にこんな道を歩かせて」 「いえ、暗いほうが追っ手の目につきにくくなりますから」  足元が見えないのは彼も同じはずなのだが、先ほどからつまずくのは私だけだった。  薬草採りで足腰は強いほうだと思ってたんだけどな。鍛え方が違うのだろうか。足手まといになっている気がして、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。 「あと数刻もすれば、都に着く。もう少し耐えてく――」  龍焔が唐突に口を噤んだ。ただごとでないことはすぐに察しがつき、息を潜めると近くの茂みが揺れる。龍焔が私を庇うように前に出て剣を抜いたとき、複数の黒装束の男たちが飛び出してきた。  ――刺客だ!  幾度となくその姿を目の当たりにした私は、彼らが敵であることを瞬時に理解する。 「死ねええ!」  まっすぐに向けられる殺気に足が竦む。いくつも迫りくる短剣の切っ先が、キラリと光るのを視界の端々に捉えた。  私を庇いながら、この数の刺客を龍焔ひとりで退けるのは不可能だ。 「龍焔、逃げて!」  ――私のことはいいから!  祈るように叫ぶも、龍焔は頑としてその場に居座る。無数の刃に身体を突かれる――そんな最悪の事態を想像して、ぎゅっと目をつぶった。  だが、代わりに聞こえてきたのは「ぎゃあああっ」という刺客たちの悲鳴。うっすら目を開ければ、鮮やかな着物をはためかせて宙を舞うように飛び、双剣で刺客たちを斬る女性の姿があった。着ている物からするに、妓生。なびく梅色の髪と、敵を鋭く見据える緑の瞳。思い当たるのは、ひとりしかいない。 「ゆ、楪さん!?」 「待ってたぞ、絶妙にして最高な登場だ」  龍焔はさほど驚いた様子もなく、楪さんとともに私たちを囲む刺客たちを倒していった。  やがて、すべての刺客が動かなくなると、楪さんがさっと着物の裾についた砂埃を叩きながら近づいてくる。 「ご無事でなによりです、お二方」 「そ、それは楪さんが助っ人に来てくれたから……というか楪さん、何者なんですか?」  戦える妓生など、聞いたことがない。楪さんは双剣を下衣の中にしまい、人差し指を自分の唇にすっとあてて妖艶に微笑む。 「詳しいお話は花楽院でいたしましょう」  楪さんに渡された服に着替え、妓生とその客として花楽院へ入る。  今は妓楼が賑わう時間。ごった返す客を部屋に誘導する妓生たちの様子を遠目に見ていたら、その中のひとりが楪さんの耳元でなにかを囁く。それにひとつ頷いた楪さんは、私たちのほうを振り向いた。 「今、龍水様がいらしているようです。美楊が相手をしています」 「なるほど、放った刺客に心当たりがないか、直接尋ねてみるのもよさそうだ。案内しろ」  堂々と相席を申し出る龍焔に、目を剥きそうになったのは言うまでもない。従兄弟とはいえ、自分を殺そうとした相手だ。いくらなんでも、側近も連れずに会いに行くのは危険すぎる。それに、私たちがここにいるのを知られたら刺客に狙われる。だが、龍焔には考えがあるのだろう。止めたい気持ちを抑えて、私はふたりのあとをついていく。 「失礼いたします。龍水様にお客様がお越しです」  軽く頭を垂れ、楪さんが声をかける。 「客? 通せ」  扉越しに返事があり中に入ると、龍水様ははだけた着物を整えもせずに美楊の首筋に顔を埋めている。対する美楊は、着物の襟を手繰り寄せて身体を隠していた。情事の最中だというのは誰の目から見てもわかる。  楪さんは冷ややかに美楊を一瞥すると、客人である私たちを促すように横へずれた。 「今は取り込み中だ。手短に用を済ませ……」  こちらに視線を寄越した龍水様は、途端に顔色を変える。 「お前っ、なぜ――」 「なぜ生きてるのか、疑問に思うか? まるで、俺たちが海に落ちたことを知っているみたいな反応だな」  じわじわと、でも確実に龍焔は黒幕をであろう眼前の敵を追い詰める。後ずさる龍水様は、さながら猫に狙われたネズミだ。 「刺客を放ったのはお前か」  獲物を逃がさないとばかりに、龍焔はだらしのない格好で座り込んでいる龍水様の胸倉を掴む。 「なんのことだ」 「まだとぼける余裕があるのか。それはお前を助ける人間がいるからか? 血の契りの絆は思いの外、強固なようだな」  〝血の契り〟の単語を耳にした瞬間、龍水様の顔は青ざめた。龍焔の腕を振り解き、いきなり美楊のかんざしを引き抜く。  えっ、なにをする気――。  突拍子もない行動に目を見開いたとき、龍水はかんざしで美楊の右太ももを突き刺した。  血飛沫が飛び、「あああああっ」と美楊の悲鳴がこだまする。全員の気が彼女に向いた隙に、龍水様は窓から花楽院を飛び出していった。自分が逃げるために、美楊を使ったのだ。  私は抑えきれない怒りに拳を握り締め、美楊に走り寄る。  太ももに刺さったままのかんざしを押さえている美楊の手に、私は手を重ねた。 「かんざしを引き抜かないで。痺れたりしていない? 足先の感覚はある?」  私が足の指を触ると、美楊は大丈夫だと首を縦に振った。自分の傷よりも、龍水様が姿を消した窓に目を向けている。  もしかして、美楊は置いて行かれたことを悲しんでいる?  彼女の切なげな横顔を見たら、思い違いではないと、どこか確信めいたものを感じた。 「神経は傷ついてないみたい。すみません、ここに治療道具はありますか?」 「すぐにお持ちします。他に必要なものはありますか?」 「では、人肌程度の湯と清潔な布を」  楪さんは「かしこまりました」と言って、足早に部屋を出る。道具が揃うのを待つ間、ひと言も話さない美楊に龍焔が声をかける。 「お前は、なぜ龍水に協力してるんだ」 「……なんのことやら」 「ごまかすな。お前が奴隷船の一件に一枚噛んでいるのは調査済みだ」 「お答えする義理はありません」 「恋情か、それとも龍水が王になれば権力の恩恵を受けられると思ったゆえの行動か?」  口を閉ざし質問に答えない美楊。自分を囮にして逃げていった龍水様を見送るのは、どんな気持ちだっただろう。それが愛していた相手なら、私なら絶望するかもしれない。所詮、自分は彼の駒に過ぎなかったのだと。 「どんな感情だったにせよ、文句を言うくらい許されるはずです」  傷口に布を当てて止血しながらそう言えば、「え?」と困惑の声が降ってくる。  私は刺さったままのかんざしから、視線を彼女に移した。 「あなたに、そんな悲しい顔させたんですから」 「……、……それでも、私はあの人のお役に立てた。恨み言はいいません」  絞り出された言葉に込められた悲哀。私はそれ以上、彼女になにも言わなかった。  はたから見れば理不尽だと思うが、美楊にとっては違うのかもしれない。置いて行かれた悲しみの中には、愛する人を守れたという達成感や安堵感もまた存在するのだろうから。  それを否定する権利は誰にもない。彼女が感じたことがすべてだ。 「お待たせしました」  楪さんが戻ってくると、私は鍼を止血作用のある后渓、臨泣、通告、前谷に刺し、かつ右鼠径部にある動脈を指で圧迫するよう楪さんに頼んだ。  これで、できるだけ出血を押さえることはできる。あとはかんざしを抜くだけだ。 「龍焔、美楊の足を押さえていてください」 「了解した」 「美楊、痛みを鈍らせる鍼は打ちましたが、完全に取りきれるわけではありません。この布を噛んで、少しの間辛抱を」  痛みを想像してか、美楊は顔を強張らせながら首を縦に振る。  私は準備が整うとかんざしに手をかけ、「抜きます」と言い、慎重にかんざしを引く。「あああああっ」と美楊が声をあげたが、私は皮下組織を傷つけないようにまっすぐにかんざしを取り除くことだけに集中した。 「ぐうううっ」  美楊は強く悲鳴をかみ殺す。私はかんざしが抜けた傷口に止血作用と邪気の侵入を防ぐ抗菌作用のある薬を直接塗り、再び圧迫する。  やがて出血が治まってきたところで、あまりの激痛に意識を失った美楊の太ももに布を巻いた。 「これでひとまず大丈夫。あとは傷口の腫れや発熱に注意して、経過を診ましょう」  感染の兆候を説明して、楪さんを見上げる。 「美楊の治療は、ここで続けられますか?」  間接的にとはいえ、謀反に加担した。宮殿に連行されれば、牢に放り込まれるのは目に見えている。日本とは違い、そこで治療を受けられるほどこの世界は罪人に甘くはない。  楪さんは指示を仰ぐように龍焔に視線を向ける。 「美楊には聞きたいことが山ほどあるからな。ただ、自由は与えるな。常に見張りを置き、情報を吐かせたあとで警吏に突き出す」  見たこともない冷淡な声音と眼差し。これが王子としての別の顔なのだ。  たとえ龍水様に利用されていただけだとしても、加担すると決めたのは美楊自身。その結果、奴隷船の妓生を含め多くの犠牲者を出したことへの免罪はされない。厳しい処罰を下すのは当然のこと。それを責めるつもりはない。私は医者として彼女を診るだけだ。  楪さんは花楽院の用心棒を呼び、美楊を部屋の外へ運び出させた。 「龍焔、どうして龍水様を追いかけなかったんですか? 今頃、龍水様は私たちの居場所を龍辱様に報告しているはずです。すぐにでも刺客を差し向けてくるかも……」  私の不安を他所に、龍焔は「それでいい」と口端を吊り上げた。 「俺たちが死ねば、あいつらは堂々と王様の命を奪いにかかるだろうからな。俺たちが生きてここにいる。それであいつらの目がこちらに向けば、王様への意識が多少は薄れるだろ」 「牽制もかねてるんですね」 「そういうこった。それにな、花楽院の妓生長は国王に仕えている諜報官だ」 「えっ、じゃあ楪さんも……」  先刻、双剣で華麗に刺客を倒していた楪さんの姿が脳裏に浮かぶ。  楪さんを見上げると、ふふっと女性ですら魅了される微笑が返ってきた。 「私は龍焔様に使えている諜報官なのです」 「楪は妓生としても優秀だがな、本業はさらに腕が立つ。刺客を送り込めば、返り討ちに遭うぞ」  い、今まで全然気づかなかった……。だから、あんなに強かったんだ、楪さん。  絶句している私の反応をふたりは楽しげに眺めている。少しばかり恨めしいが、味方になると心強い。 「お二方、今日は休まれてはどうでしょう」  楪さんの提案に、私も龍焔も頷く。  追われて仙の島を飛び出してから、心休まる暇がなかった。船旅のあとに夜通し歩き続け、身体も疲労困憊だ。 「明日は忙しくなるからな、ちゃんと寝ろよ」  意味深な発言とともに、頭に乗る手。心が通じ合ったとはいえ、閨(ねや)をともにするのは早すぎるので、私は龍焔とは別の部屋で休むことになった。  だが、ずっと寄り添うようにして寝ていたせいか離れがたい。そんな私の心を見透かしたように、龍焔が耳元に唇を寄せてくる。 「人肌恋しくなったら、いつでも俺のところへ来い。大歓迎だ」  鼓膜を甘くくすぐる囁きに、顔がかあっ熱くなる。私をからかっているのだ、この男は。 「行きません!」  大声ではっきりとお断りし、私は部屋を出る。背後で満足げに笑っているだろう龍焔を想像しながら、私は鼻息荒く楪さんのあとをついていくのだった。 ***  翌日、楪さんに連れられてやってきた部屋には龍焔とその側近である兆雲さんと明翼さん、そして――。 「蘭!」 「蘭……?」  目を丸くして、私を凝視している孔玉くんと蒼がいた。私は今、女性ものの着物を身に着けているため、衝撃は二倍だろう。かく言う私も、こんなところで遭遇するとは思っていなかった同期のふたりに混乱する。  またどこかで絶対に会おうとは言ったけど、それがまさか妓楼とは。誰が想像できようか。 「なんで、こんなところにいるのさ!」  先に我に返った孔玉くんが駆け寄ってくる。 「まさか、宮廷医になれなかったから妓生になったとか、ぬかさないでよ!」  孔玉くんは私の腕を掴み、揺らしてくる。本気で私が妓生になったかもしれないと、早とちりをしているようだ。それにしても、頭がぐらぐらとして気持ち悪い。 「蘭が女装……いや、女装なのか? 実は女?」  蒼はぶつぶつと呟いている。   そういえば、私が女であることを知っているのは龍焔と孔玉くんだけだ。その辺り、私の口から説明する必要があるだろう。 「ご、ごめんね。ちゃんとぜんぶ説明するから」  私は孔玉くんの腕から抜け出し、改めて皆の前に立つ。視線が集まってきて、ごくりと生唾を飲み込むと心を決めた。 「龍焔と孔玉くんは知ってると思うけど、私は女です」  それに驚いていたのは蒼と兆雲さんだけだった。むしろ、その他の人たちが無反応なことに衝撃を受ける。 「えっと……私、女です、よ?」  困惑気味に同じ言葉を繰り返すと、楪さんがくすっと笑った。 「すみません、私は酒場で蘭様にお会いしたときから、薄々勘づいておりました」  言われてみればあのとき、楪さんにじっと見られていたような気がする。女性は勘が鋭い。雰囲気で気づかれてしまったのだろう。 「じゃあ、他の人は……」 「僕は疑ってはいなかったけど、蘭ちゃん可愛いし。女の子だって知って、むしろ納得したから驚かないかなあ」  明翼さんは子首を傾げながら、にこっと愛くるしく笑った。 「俺はまったく気づかなかった。孔玉はなぜ知ってる」  棒立ちになっていた蒼は動揺を隠し切れないらしい。いつもの無表情を珍しく崩して、孔玉を横目に見た。 「俺は……その、事故があって」  歯切れの悪い孔玉くんに、龍焔の眉がぴくりと動く。 「事故とはなんだ?」 「……宿舎の大浴場で鉢合わせました」  王子からの追及を突っぱねるわけにはいかなかったのだろう。孔玉くんが白状した途端、龍焔の背に黒いオーラが漂うのがわかった。 「そうか……孔玉。ちょっとそこの花瓶で頭殴って、記憶を抹消してこい」 「話が脱線してますから! それで、なんでここに孔玉くんと蒼が?」  なにを口走っているんだろう、この男は。  王子の威厳が損なわれる前に話題を変えれば、すかさず蒼の背に隠れた孔玉くんがほっと息をついたのが見えた。  ごめんね、孔玉くん。いや、なぜそこで私が謝るのかも謎だが、とにかく申し訳ない。 「その話に入る前に、まずは報告を済ませていいだろうか?」  事の成り行きを静かに見守っていた兆雲さんが一歩前に出る。 「宮殿では龍焔様は行方不明ということになっています。そこで龍辱様が龍水王子の王位継承を進めるため、政務官たちを懐柔しようと王様に内密に宴を開いているようです」 「龍水様は龍焔様に奴隷船での裏金調達を阻止されて、十分な兵を雇えなかったみたい。だから宮殿に攻め入るのは中止して、雇った兵を宮殿の武官として潜入させてる。王様の暗殺を企てているかと」  続けて明翼さんの報告が終わり、龍焔は「やっぱりな」と腕を組んだ。  昨日、龍焔が話していた通りだ。龍焔が死ねば、龍辱様たちは堂々と王様の命を奪いにかかる。それを見越して、龍焔は自分が生きていることを知らしめ、王様を守ろうとしたのだ。 「ちょ、ちょっと待ってください。王様の暗殺って?」  挙手をして割り込んできた孔玉くんの顔色は悪い。同じく隣にいた蒼の表情も張りつめている。当然だ、なんの前振りもなく、王弟の謀反について耳にしてしまったのだから。 「よく聞け、お前たちに来てもらったのは、謀反を阻止するためだ。被害を最小限に抑えるため、俺が信用に足ると判断した人間を厳選してここに集めた」  龍焔は厳しい顔つきで私たちの顔を見回したあと、にやりとする。 「叔父上がもう一度王様に毒を盛るよう仕向ける」  ――なっ、それって王様を囮に使うってことなんじゃ……。いくら自分の父親でも、相手は国王。こんな策、口にしただけで罰せられる。誰もが息を呑む中、主の考えをいち早く察知したのは側近のふたりだった。 「王様に毒を盛るよう命令したのが龍辱様だと証明できれば、罪は明るみに出ますからね」  兆雲さんは命知らずな策に怯むことなく、真剣に自身の見解を述べる。 「その代わり、毒を運ぶ宮廷医の協力がいるよね」  一方、明翼さんも適任者はきみたちだとばかりに蒼と孔玉くんへ視線を投げた。 「……なら、俺がやるよ」  立候補したのは、意外にも孔玉くんだった。絶対に面倒事には首を突っ込みたくないタイプだというのに、どういう風の吹き回しだろうか。 「悪者のふりなら得意だし」  ああ、なるほど――と思ったのは、蒼も同じだったようで、「適任かも」と声がかぶる。 「そこのグズふたり、なにか言った?」   黒い笑みが孔玉くんから放たれ、私は蒼とほとんど同時にぶんぶんと首を横に振る。  さて、冗談はここまでにして……。 「それなら、私にやらせてください」  私は龍焔の前に出た。 「毒を盛る役目、下手したら孔玉くんが本当に罪を着せられる可能性もありますよね? そんなことになったら、今宮殿で働いてる尊家の宮廷医が全員職を失うことになります」 「待て、落第した蘭が宮殿を歩き回るのは無理がある。まだ宮廷医ではありませんが、見習いとして医院や宮殿に出入りできる俺がやります」  私と一緒になって孔玉くんが適任だと言っていた蒼が名乗り出る。 「毒薬を運ぶ役は、この策の要だ。敵に悟られない堂々とした振る舞いと、もし嘘がバレて命を狙われても切り抜けられる技術が必要になる。そういう点で、元用心棒出身のお前が適任だな、蒼。やってくれるか?」  龍焔の手が蒼の肩に乗る。 「はい」  蒼が端的に答え、静かに頷いたとき――。「楪さん」と、花楽院の用心棒が部屋の扉の前で頭を下げる。 「なにかありましたか?」 「美楊さんが話がしたいと申しております」  楪さんはかすかに目を見張り、指示を仰ぐように龍焔を振り向く。 「構わない。兆雲、明翼、お前たちがここへ連れてこい」  脱走を危惧してか、側近に命令を出す龍焔。少しして、ふたりに連れられて美楊が部屋に入ってきた。まだ太ももの傷が痛むのだろう。右足を引きずりながら、私たちの前に立つ。 「蘭さん、昨日は助けて下さり……ありがとう、ございます」  美楊は痛みを堪えながら頭を下げる。  「自分のすべきことをしただけですから」  そう言ったのだが、美楊はもう一度頭を下げて龍焔のほうを向く。 「なにか、私がお役に立てることがあれば、させていただけないでしょうか」 「お前を信用すると思うか?」  龍焔は嘲笑交じりにそう言って、品定めするような目で美楊を見る。 「証明するものは、なにもありませんが……」  ふいに美楊の視線が私を捉えた。  なに? 目を瞬かせていると、美楊の唇が弧を描いた。 「龍水様は私を駒としか見ていません。でも、蘭さんは妓生の私の命を道具ではなく命として扱ってくださった。その礼では安すぎるかと思いますが、龍水様を陥れる手助けをしましょう。殺されかけた腹いせでもあります」  その言葉の信憑性について、吟味している時間はない。今、この瞬間にも王様が暗殺されるかもしれないのだ。この作戦では龍辱様と龍水様の信頼を得られるほうが有利に事が進む。  龍焔はどうするんだろう。決定権を持つ彼をちらりと見れば、「いいだろう」と即決した。  いくらなんでも、美楊の言葉を鵜呑みにするのは浅はかすぎやしないだろうか。思わず口を挟もうとしたとき、向かいに立っていた楪さんがしっと人差し指を唇に当てる仕草をする。  楪さんが止めるってことは、龍焔にもなにか考えがあるってこと? 私は楪さんとのやりとりを美楊に悟られないよう、頷いたり返事をしたりせずに大人しく引き下がる。  龍焔が先ほどの作戦をかいつまんで美楊に話す間、本当にこちらの手の内を教えてしまっていいのかと気が気じゃなかった。 「では、私は蒼さんを王様暗殺の協力者として龍辱様に紹介しましょう。家族を人質にとり、手駒として扱えるようにしたと話します」 「いいだろう、それなら叔父上も信じるだろうからな」  龍焔は微塵も悩まずに許可し、間髪入れずに続ける。 「決行は五日後だ。それまでに細かい役割分担と当日の流れについて決める」  龍辱様を失脚させる策の決行日が決まり、私たちは一時解散する。楪さんも見送りに外へ出たため、部屋には私と龍焔のふたりきりになった。 「龍焔、美楊を作戦に参加させていいんですか?」  誰もいなくなったのを見計らい、開口一番に疑問をぶつける。 「そうだな、情に流される女には思えねえ。殺されかけた腹いせだと言いながらも、美楊は一度たりとも叔父上を呼び捨てにしなかった。普通は憎んでいる相手に敬称はつけねえ。家族でもない限りな」 「だったら、どうして美楊に策を話したりしたんです? 蒼を犯人に仕立て上げて、芋ずる式に私たちのことも罪人として引っ張り出すつもりかもしれませんよ?」 「それを俺たちが逆手にとる。まあ、俺に任せろ」  釣り上がった口角に、ぎらついた眼差し。これは悪巧みをしているときの顔だ。 「俺と委安が親友だったことは知ってるだろ?」 「え? はい、知ってますけど……」  唐突に変わった話題に戸惑いながらも、私は答える。 「委安はお前に似て、医者の仕事を誇りに思い、決して命から逃げない。王子相手にも物をはっきり言う男だった」  龍焔は窓辺まで歩いていくと、外に広がる青空を見上げた。その目は昔を懐かしむように遠い。 「あいつと出会った頃、俺は王子として生まれたことに不満があってな。少し……いや、かなりやさぐれてた。やれなんで自由がないんだ、媚びへつらって政務官どもの機嫌を窺わなきゃならねえんだって、文句ばかり垂れてたんだよ」  苦い笑みを口元にたたえ、龍焔は目を伏せる。私は彼の話に横やりを入れないよう、相槌もせずに話に耳を傾けた。 「だが、その悩みは贅沢だと委安は言った。本当に自由がないというのは、命や尊厳すら他者に支配された妓生や奴隷のことを言うんだってな。それをお前はもっとその目で見て学べって叱られたよ。だから俺は宮殿を抜け出しては妓楼や町に行き、人の暮らしを知るところから始めて、ようやく辿り着いた」  龍焔は青空から私へ視線を移した。どこまでも澄んだ瞳が煌めきを増したような気がして、私は目を奪われる。 「俺は身分をなくす。生き方を自分で選び、他者に尊厳を踏みにじられることのない国を築いてみせる。それが、俺が王子として生まれた意味だってな」 「それに気づかせてくれた委安さんは、最高の親友ですね」 「ああ、だが……王位争いに巻き込まれたばっかりに、委安は……殺された」  悔しさの滲んだ声が龍焔の口からこぼれる。握られた拳に爪が食い込み、ぽたっと血が床に落ち赤い染みを作った。  私はその手を掴み、一本一本指を開かせる。 「委安さんの死体を発見したのは、その……龍焔だと聞きました」 「そうだ。でも、見つけたのはあいつの頭だけだ」  耳を疑うような言葉に、「え……」と小さな呟きだけが唇から漏れる。  龍焔は憎悪に満ち溢れた瞳で、持て余した怒りに耐えていた。彼の身の内に抱える消えない闇を覗き見たような気分だ。 「龍水が俺の部屋にわざわざ置いていきやがったんだよ。このまま王位に就くつもりなら、俺の大事な者をひとりずつ奪っていく。そういう意味だったんだろ」 「ひどい……」  なんて惨い真似をするのだろう。龍水様は王位に目が眩んでいるのだ。王としての器どころか、人として大切な心が欠落している。やはり龍水様に王位を渡してはいけない。私はなんとしても龍焔を守らなければならないと、強い使命感が湧いてくる。 「委安は、この先も陽煌国に必要な人間だった。俺にとってもな。誰よりも人を救ってきたあいつが、あんな形で死んでいいはずがねえ。だからずっと証拠を探してきたんだ。これでようやく、いい報告ができる」 「絶対に失敗するわけにはいきませんね。私にとっても委元の無念を果たせる最後の機会もしれない。だから、一緒に戦いましょう。これからは私が、あなたの力になります」  委安さんの代わりになるのは難しいだろうが、彼を恋い慕う者として、悲願を成し遂げる同志として、たとえこれから向かうのが血塗られた道だったとしてもともに歩む。 「私たちは互いに守り合える」 「ああ、必ずふたりで生きてやり遂げる」  私たちは向かい合い、繋ぎ合った手に力を込める。どちらともなく唇を寄せ、勇気を分かち合うように口づけを交わした。  ***   五日後、陽煌宮の広間では陽煌一族が集まる宴が開かれていた。  美楊の助力もあり、この宴で龍辱様は王様暗殺計画を実行することに決めたようだ。  あとは蒼が偽物の毒を運び、作戦を知っている王様が息絶えたふりをする。指示したのが龍辱様であることを龍焔が誘導尋問で明らかにする手筈になっている。  ただ、どう誘導するのか、龍焔は詳しく話さなかった。そして、謀反の密書のことも今日まで誰にも明かしていない。  私は下女に扮して宮殿に入り、そのときが来るまで龍焔の部屋で待機していた。 「そろそろだな」 「龍焔、これから広間に行くんですよね? どう龍辱様に罪を認めさせるつもりなんですか?」 「それはこれからわかる。だが、その前に行くところがある。広間じゃなくて、医院にな」  今頃、医院には美楊と蒼が偽物の毒薬を作りに向かっているはずだ。当初の予定では私たちはこのまま広間へ行くはずだったのだが、なにか心配事でもあるのだろうか。  私は怪訝に思いながらも、彼を信じて部屋を出る。人目を忍んで医院までやってくると、龍焔はしっと唇に人差し指を当てた。  龍焔はなにをしようとしてるの?   一気に緊張感が増し、私は頷くのがやっとだった。忍び足で薬室へ近づき、わずかに開いている扉の隙間から中を窺う。そこに蒼の姿はない。  おかしい、蒼が薬を運ぶことになっていたはずなのに。  予定と違うことが起こっているのは確実なのだが、隣にいる龍焔は少しも焦りを見せない。そのとき、中でカチャンッと音がした。龍焔と顔を見合わせ、すぐに物音がしたほうへ視線を移せば、美楊が器の上で銀の石のようなものを削っていた。  あれは……ヒ素! 悲鳴をあげそうになった口元を両手で押さえる。  美楊は本気で国王を殺すつもり?  王様が実際に口にするため、用意するのは毒ではなく、飲酒の前に飲むと肝臓の負担が和らぐ薬草茶のはず。それを美楊は本物の毒にすり替えようとしているのだ。 「――そこまでだ」  なんの合図もなく、龍焔は薬室に入る。美楊は宴に向かったはずの龍焔が現れ、目を剥いて後ずさった。慌てて彼の後を追うと、私は床に蒼が倒れているのに気づいた。 「蒼!」  慌てて駆け寄り、彼の口元に耳を寄せる。息はあったのだが、鼻を掠める甘い匂いが気になった。 「これ、睡蓮(すいれん)の花粉の匂い……眠り薬を嗅がせたの?」  美楊を見上げれば、「さすがは医者ですね」と、どこか諦めにも似た笑みを浮かべていた。 「お前が裏切ることは想定の範囲内だ。大方、本当に父上を亡き者にし、蒼や蒼に指示をした俺に国王暗殺の罪を着せるつもりだったんだろ」 「わかっていて泳がせていたなんて、ひどいお方。でも安心して? 蒼さんはすぐに目覚めます。彼が寝ている間に毒を混ぜ、起きたら運んでもらうつもりでしたから」  そう言って、すっと調剤台に手を伸ばす。まさか――と思ったときには手遅れだった。美楊は先ほど自分が作ったヒ素入りの薬草茶を飲み干してしまう。 「くそっ、なぜそこまでする!」  よろけた美楊を抱き留めた龍焔が、理解できないとばかりに声を張り上げた。  私も彼女のそばに行き、解毒薬を調合しようと薬草棚を開ける。その背後では、美楊が全身を痙攣させ、筋肉を硬直させていた。 「こんなにすぐ症状が出るなんておかしい。急性中毒は十分から数時間後のはず。あなたはもっと前からヒ素を飲んでたんじゃ……」 「……そう、です。龍水様が疑われるような証拠は完全に抹消……しなければ。たとえそれが……私自身、であっても……がはっ」  咳き込むのと同時に、美楊は吐血する。この世界では血証と呼ばれるが、ヒ素は消化管からの吸収が早い。これは消化管が出血している証拠だ。ということは、この痙攣は急激な血圧低下による瀕死状態であることを意味する。 「血証で血を失い、心臓が弱まっています。これでは、もう……」  彼女を救う手立てがない。私が首を横に振ると、龍焔が腕の中でぐったりと宙を見上げている美楊を悲痛な面持ちで見下ろした。 「お前が父上を殺そうとしたのは、龍水のためだろ! あいつは、そこまでするほど価値のある男か? お前を囮にして逃げた男だぞ!」 「……私の背に、は……火傷の痕が……あるのです。花楽院に来る前、子供の頃にいた妓楼、では……身体を売るのが妓生の仕事、でした。そのとき、客につけられた傷が……」  毒の痛みではなく、美楊は心の痛みを堪えるように語っている気がした。私は彼女の合谷に鍼を打ち、痛みを鈍らせる処置をする。 「私はこの傷を醜い烙印のようだと……思っておりました。それからは客もとれなくなり、私は妓楼を渡り歩いた。けれど、どこも傷物の妓生は雇いません。ようやく辿り着いた花楽院では、身体ではなく芸を売る。私にはありがたい条件でしたが……」  彼女の想いが胸に流れ込んできた気がした。無論、錯覚だろうが、私はほとんど無意識に口を開く。 「心は、満たされなかった?」  思わず尋ねれば、一瞬だけ美楊の目が見開かれた。それは徐々に細められ、青白い彼女の頬に儚い笑みが滲む。 「……ふふ、どこまで見透かされているのかしら。そうね……私はいつからか、この醜い身体を受け入れてくれる誰かを……探していたのでしょうね」  潰えそうになる最期の命を燃やして、彼女が思い浮かべているのはきっと、あの男なのだろう。 「そして、あの方が……龍水様だけが、傷など気にせずに私を抱いてくださった」  やっぱり、とはがゆい感情が込み上げてくる。人を道具のように扱い、踏みにじる最低な王子だけれど、龍水様のことを語る美楊は眩しいものでも見つめるような目をする。、私にはあの男に、そんな目を向けるほどの価値があるとは思えない。だが、そこに善意があったかどうかに関わらず、美楊の心を縛っていた烙印を解いたのが彼であることには変わりないのだ。 「あなたがしたことは間違ってる。だけど、だけど……っ」  どうしてか、自分でもわからない。彼女は私たちを裏切ったのに、どうしてもその細く力ない手を握らずにはいられなかった。 「女としては、命を懸けられるほどの恋をしたあなたの選択は、間違っていなかったのだと、そう思います」  私は甘いのだろう。ただ、最期くらい彼女のために心を寄せたとて罰せられないはずだ。背負っていた恨みや悲しみは、今生に置いて旅立つべきだ。 「あり……が、とう。変わった、医者の……お嬢さ……ん……」  そこで、美楊の声は途切れた。部屋には静寂の幕が下り、私は祈るように彼女の手の甲を額につける。 「どうか来世では、あなたの負った烙印が癒えていますように――」 「お前たち、準備はいいな」  龍焔の声で、気が引き締まる。  あのあと、目覚めた蒼に予定通り薬草茶を持たせ、私は美楊の服を借りて身に纏った。亡くなった彼女から拝借するのは気が引けたが、これは龍焔が本当に実行しようとしていた策。顔を隠すべく羽織りを被り、美楊のふりをして蒼と広間に突入する。  この流れは、私と蒼以外知らない。暗殺を企てながらも、なかなかその尻尾を出さなかった相手だ。こちらの企みは、目線や仕草ひとつで向こうに察知される可能性がある。そのため、本来の作戦を知らせるのは実行者にのみ絞ったのだとか。側近のふたりには別の任務を与えているらしく、今回は別行動だ。 「行くぞ」  龍焔とともに、私たちは広間に入る。先に席についていた三人の男性の視線が自分に集中するのがわかり、ぶわっと汗が吹き上げてきた。  上座に片膝を立てて座っているのは、龍焔と同じ燃えるような赤い髪と金の瞳の男性――王様だ。その向かい、下座にいるのが青の髪に金の瞳をした龍辱様と龍水様。すでに彼らの前には箱膳が用意されており、皆龍焔を待っていたようだ。 「王様、遅れて申し訳ありません」  龍焔は上座の前に立ち、両の手の甲を額につけて王様に一礼すると、自分の席に腰を落とす。私は花楽院の妓生として招かれたことになっているため、楪さんと酌に回る。私たちの視線が絡むことはないが、心はひとつだ。  ――必ず、龍辱様と龍水様の悪事を暴く。  これまで彼らの愚行のために、どれだけの人間が犠牲になったか。それは先ほど、自ら命を絶った美楊も含めてだ。 「誰か、薬草茶を用意せよ」  国王が壁際に控えている宮廷医――正確には、龍焔の根回しで出席している蒼と孔玉くんへ視線を向ける。 「王様、薬草茶を飲んでも、酒は飲んでも呑まれるな、と言いますし。ほどほどにしてください」  龍辱様は、あたかも兄を気遣うような物言いをする。  王様は酒を飲む前に、必ず肝臓に効くとされる薬草茶を召し上がる。それを知っていて、十年前も王様の薬草茶に毒を混ぜたのだろう。 「わかってはいるが、これが数少ない楽しみのひとつなのだ。許せ」  王様も気さくに返してはいるが、底知れない目をしている。この宴が龍辱様と龍水様を捕えるためのものだと知っていながら、あのように余裕を崩されないのだから感服だ。 「王様、薬草茶でございます」  蒼が折り目正しくお辞儀をして、盆を前に出す。そこから杯を手に取った王様が口をつけ、薬草茶をあおった瞬間、龍辱様と龍水様の口元に笑みが浮かんだ。 「ぐううっ」  王様は予定通りに胸を掻きむしり、苦しむ演技をする。それに蒼は呆然と立ち尽くし、作戦を知らない孔玉くんは「どうなってんの!? 毒は使わないはずじゃ……っ」と血の気の失せた顔で本音をもらす。  罠にかかったとばかりに、龍水様は一瞬にやりとした。だが、すぐに表情を引き締め席を立ち、蒼をまっすぐに見据える。 「毒? まさかお前、王様に毒を盛ったのか」 「お、俺は……ち、違う。指示されただけだ」  迫真の演技で、蒼は龍焔を見やる。その背後では、孔玉くんが悶え苦しむ王様に駆け寄り、脈をとろうとしていた。ここで死ななければならない王様は、彼の手を払いのける。 「誰も俺に触れるな! 信用ならん、宮廷医も、龍焔……実の子ですらも……っ」  恨み言を残し、王様はその場に倒れる。龍焔は父を失った絶望を纏い、亡霊のごとくおぼつかない足取りで上座に歩いていく。 「父上が……死んだ? こんなはずじゃなかった。殺したのは俺じゃないっ」  さりげなく孔玉くんが近づかないよう、王様の身体を抱く龍焔。その光景をいい余興だと言わんばかりの笑みを浮かべ、龍水様は眺めていた。 「龍焔、まさかお前が王様を手にかけるとはな。王位を急いたゆえか」  こうなることを想定していながら、龍水様はなお龍焔を追い詰める。だが、これはこちらが描いた筋書き。私は美楊として、龍水様の腕に身を擦り寄せると、ほくそ笑む。 「バカね、簡単に女を信じるなんて。これで王座は龍辱様と龍水様のものです」  私は正体がバレないよう、着物の袖を口元に当てながらくぐもった声で話す。 「美楊、よくやったな。お前のおかげで、あいつの策を逆に利用できたぞ。さすがは俺の女。人がいい龍焔のことだ、お前が情に訴えれば信じる。まさか薬草茶が毒に変わっていただなんて、思いもしなかったのだろうな」 「王とは人に在らず、血も通わぬ自らの欲望に貪欲な化け物。そうでなければ、国は支配できない。身内の情を捨てきれない軟弱者は、王の器ではありません」  前に花楽院で耳にした龍水様と美楊の会話を再現する。それがうまくいったのか、龍水様はなんの疑いもせずに私の腰を抱いてきた。 「そうだ。龍芽、それから龍焔。お前たちは王に相応しくない」 「待て待て、お前たち」  これまで黙っていた龍辱様が腰を上げる。 「そうこちらの手の内を赤裸々に語るものではない。ここには無関係な者もおるのだぞ」  窘める龍辱様の顔には、押さえきれない喜色が滲み出ていた。ゆっくりと王様のほうへ足を進め、時折堪えきれない笑みを唇からこぼし、上座の前に辿り着く。 「まあ、いい。ここにいる者はすべて皆殺しだ。蒼、お前は生かしてやろう。自分の身内を殺されたくなければ、こう証言するのだ。王様は、龍焔が毒殺したと」 「はい……」  力なく首を縦に振った蒼の足元で、ずっと父を失った子のごとく俯いていた龍焔がふっと息をもらす。 「これで十分でしょう。父上」 「なんだと?」  龍辱様が眉根を寄せた、その瞬間――。王様は目をかっ開き、声高らかに「捕えろ!」と声をあげた。いつの間に手配していたのか、ぞろぞろと武官が広間に押し寄せ、龍辱様と龍水様を取り囲む。 「べらべらと自白してくれて助かったぞ。おかげで、臣下たちへの説明の手間が省けた。これでお前たちは、晴れて王様の暗殺を企てた謀反人ってわけだ」  不敵に笑って立ち上がった龍焔が、懐から一枚の書状を取り出す。  あれは、私が龍焔に託した謀反の密書! 「そ、それをどこで……!」  密書を目にした途端、龍辱様と龍水様の目が泳ぎ出す。 「これだけでも、お前たちの謀反は立証できたんだがな。誰かに承認印を盗まれただのと偽りを口にし、逃げられる可能性もあった。ゆえに、今回は徹底的に退路を断ってみたんだが、他に言い逃れをする術を叔父上たちはお持ちか?」  射殺す勢いで、龍焔の眼差しがきつくなる。  そのとき、私の隣にいた龍水様が「どういうことだ、なんでこうなった……っ」と頭を抱えて、情けない声で取り乱し始めた。  それを自分でもわかるくらい冷ややかな目で見下ろす。 「あなたが、人を物のように扱うから、見落としてはいけないことに気づけなかったんでしょう?」 「なっ――美楊、裏切ったのか!」  まだ私が誰なのか、気づいていないなんて。この人は本当に、彼女のなにも見えていなかったんだな。私は静かな怒りが腹の底に灯るのを感じながら、羽織を頭からずり下ろす。露になった私の顔を見た途端、龍水様は驚愕の表情を浮かべた。 「な、なぜだ……いつからっ――」 「広間に入ってから、ずっと私は紅葉蘭でした」 「なんだと? 美楊はその身可愛さに逃げたのか? さすがは妓楼の女だ。人を騙し、金を積ませるのに長けている」  その嘲るような笑みを見たら、もう限界だった。私は龍水様の胸倉を掴み、力の限り揺する。 「美楊はっ、裏切ってなんてない! 最期まであなたのために、自分が証拠になるからって、毒まで飲んで……っ」 「離せっ、なにをする!」 「あなたは、ずっと彼女のそばにいたんでしょう!? それなのに、自分に向けられている想いが、本当か嘘かもわからないの!?」  いちばん彼女の心を信じなければならない人が、『裏切った』などと口にするなんて、どこまでも自分本位で罪深い。 「あなたは簡単に死んではいけない。自分が踏みにじってきたものを思い知って! いつか、絶対に失ってはいけなかった彼女のことを想って、胸を痛められる日が来るまで!」  まくし立てるように告げると、少しだけ冷静になる。呼吸を整え、あとを武官に任せようと彼から手を離した。そのとき――。 「好き勝手言いやがって、俺を誰だと思ってる!」  龍水様が私の着物の袖を掴み、強い力で引っ張る。私は体勢を崩し、龍水様のほうへよろけた。 「死ねええええっ」  懐から取り出した護身用の短剣が突き出される。  ――刺される! 私には避ける術がない。「やめろ!」と龍焔の悲鳴にも似た叫びが聞こえたが、私は成すすべなくぎゅっと目を閉じる。すぐにズシュッと肉を裂く嫌な音が耳に届いた。鉄さびの生温かい液体が顔に飛んでくるのがわかり、私は恐る恐る瞼を持ち上げる。  痛くない、その理由は目の前にあった。まるで盾になるようにある、宮廷医の制服を着た背中。ゆっくりと振り返った彼は新緑の髪と揃いの翡翠の瞳をこちらに向け、困ったように微笑む。 「あなたは……、いつも、危険に飛び込んで……。困った……人、ですね……」  ぐらりと、その身体が傾いた。大きな音を立てて仰向けに倒れたその人の胸には、赤黒い染みが広がっていく。 「な、なんで……」  頭が真っ白になる。私はその人を呆然と見下ろし、理解できない感情を持て余した。  どうして、私を庇ったりしたの? 殺そうとしたのに、いつもと変わらず微笑むの? 答えてください、寸さん――。 「お前はなぜここにいる! 仙でそこの委元の娘を海に突き落としたときに、負傷したのではないのか? それで今日の宴には参加できないと……いや、そんなことはどうでもいい。そこの女、この俺に盾突いたことを後悔させてやる!」  龍水様は血に濡れた短剣を振り上げるが、その腕に矢が突き刺さる。「ぐあああっ」と悲鳴をあげ、龍水様は後ずさった。  動けずにいた私は、我に返って矢が飛んできたほうへ視線を向ける。そこには、ひらひらと手を振る明翼さんの姿があった。 「龍焔様、謀反の密書にあったここにいない三名の政務官及び武官を捕えました」  兆雲さんの報告を聞き、龍焔の与えた別任務はこれだったのかと納得する。龍焔は初めから、この作戦で謀反人をすべて捕えるつもりだったのだ。 「でかした。ここにいる謀反人を捕えろ!」  龍焔が指示を飛ばしたのだが、王様が呼びつけた武官のうち数人が、味方の兆雲さんや明翼さんに斬りかかった。 「ど、どうなってるの?」  続けざまに起る裏切りに、戸惑ったのは一瞬。すぐに、彼らの正体に見当がつく。  あれはまさか、龍辱様と龍水様が宮殿の武官として潜入させていた兵!  瞬く間に斬り合いが始まり、混乱に乗じて逃げ出そうとする龍水様をすかさず龍焔が追いかけようとする。それを阻止しようと剣を抜いた龍辱様を食い止めたのは、王様だった。重い一太刀を浴びせ、「逃がすな!」と息子の尻を叩くような一声を浴びせる。 「――龍水、お前だけは逃がさねえぞ!」  親友を奪われた怒りをそのままぶつけるように、龍焔は龍水様めがけて剣を突き出す。それを間一髪、身を翻して避けた龍水が反撃に出た。腰の剣を抜き放つ動作で一撃をみまい、それを龍焔は剣で受け止める。  戦いの渦の中、私は胸を大きく上下させ、血だまりに沈む寸さんを見つめた。荒くか弱い息遣いが、私から世界の音を遠ざける。まるでここだけ、時が止まっているかのようだ。 「私を、どうして助けたんですかっ」  彼の傷口に手を当て、止血する。吹き出すような出血は、動脈が傷ついている証。そして、刺された箇所は恐らく心臓。これではもう、救えない――。 「昔話を……しましょう。あるところに、病気がちの妹と、医者を目指す兄がふたりで暮らしていました」 「え……?」  唐突に始まった昔話。話すのすら苦しいはずなのに、寸さんは聞いてもらうことを望んでいるのか、私に語りかける。 「両親は……内戦で他界。兄は妹を食べさせるため、宮廷医を目指しました。晴れて、その職に就いた兄でしたが……王位を狙う王弟と王子に妹を人質に取ら……れ、尊敬する先生やその息子の監視をさせられることに……なりました」  王弟と王子って、龍辱様と龍水様のことだよね? じゃあ、宮廷医の兄と妹は――。  すぐに追及してしまいたい気持ちを抑え込む。今は寸さんのことを知りたい、知らなくてはいけない。今の結末を迎えるまでに、彼が辿った道を――。 「自分が与えた情報で先生の息子は死に……先生もまた宮殿を追われました。ここから、兄は血塗られた道を……歩むことになったのです。そして、操り人形のように医者でありながら、人の命を奪い……兄の心は壊れかけていました。そんなとき、あなたに出会った」 「わた、し……ですか?」 「国王が敵だと聞かされても……権力に屈することなく、あなたは戦う意志を見せた。私とは違って……」  胸を止血する私の手に、寸さんが手を重ねる。死期の近い、冷たい手だった。 「いつか、あなたは……龍辱様と龍水様の悪事を……暴く。不思議なことに……そう、確信している、自分が……いました。だから、私は……この時を、待って……いたのです。龍辱様と龍水様が捕まれば、もう妹は大丈夫」 「なんで……っ、死ぬ時を待ってたなんて、そんなの……っ」  ――いくらなんでも、悲しすぎる。  寸さんもまた、被害者だった。もし私が家族の命を握られていたとしたら、同じ選択をしたかもしれない。  ああ、今なら『成し遂げたいことがあるのなら、どんな手を使ってでもすべき』という寸さんの言葉の意味がわかる気がする。  たとえ心が悲鳴をあげたとしても、寸さんは妹を守るために手を汚す。でも、同時に後悔もしていた。あの日、私にぶつけた『大事なものを守れないのは、能無しで甘い自分のせいでしょう』という痛烈なひと言。あれはきっと、寸さん自身に向けたものだ。 「私を解放するだろうあなたは……ずっと、私の希望だったのです。私の勘は、外れていなかった。おかげで、最後に……自分が望むことができました……」 「それが、私を助けること?」  私の問いに答えは返ってこなかったけれど、寸さんの憑き物が落ちたような微笑みがすべてを物語っている。 「もっとはやく、気づいていたら……寸さんを、こんな目には遭わせなかったかもしれないっ」  私の手の下から染み出る血は、寸さんのこぼれ落ちる命そのもの。私は自分の手が赤く湿るたびに胸が引き裂かれそうになり、涙で視界がぼやけた。そんな私を、寸さんは不思議そうな顔で見上げている。 「なぜ……です? あなたの大事な人を……先生を、奪ったのは私なのですよ。なのに、私のために泣くのですか……?」 「前に、寸さんは『人間は万能ではないのだから』と言いましたね。これは、委元から聞いた言葉でしょう? それを覚えるくらい、先生を慕ってた。でも、命令のせいで苦しめなければならなかった辛さは、きっと死ぬより苦しい」  北山で天然痘の患者に利水剤をバラまいたときも、医者としての誇りも奪われ、きっと生きているだけで拷問だったはずだ。寸さんを利用して、自分の手を汚さずに王位を手に入れようとした龍辱様と龍水様を許せない。 「簡寸という人を知ってしまったから、今まで寸さんがくれた優しさの中にも本物はあったってわかってしまったから、もう……敵だからと、あなたを憎むことはできません」 「……やっぱり、甘いですね……蘭さんは」  寸さんの瞳から光が失われていく。彼が血の通わない冷酷な人間であったなら、委元を死に追いやり、私さえ殺そうとしたあなたを思ってこんなにも胸を痛めることはなかった。 「寸! お前、バカな真似しやがって!」  隣に誰かが慌ただしく座る。唐九試験官だ。 「手をどけろ」  言われた通りにすると鍼を手にした唐九試験官の動きが止まった。傷の位置が心臓であることを知り、手遅れだと察したのだ。それでもなお、私は止血をするべく胸を圧迫する。 「唐九……私は、あなたにも、ずっと嘘をついて……しまって……」 「許さねえぞ、絶対にな。なんで、俺に相談しなかった。お前みてえな優しい人間が、誰かの命を奪うなんざ、心を殺してたも同然だろ。親友の俺を、なんでもっと頼ってくれなかった」  口調こそ責めているが、唐九試験官の目には涙が浮かんでいる。ここにも、彼の犯した罪を知りながら、生きてほしいと願っている者がいる。  寸さんは困ったように笑い、痛みにうめきながら「無茶言わないでください」と、なんとか言葉を紡ぐ。 「親友だから……あなたまで、道連れにする、わけには……いかなかった、んですよ」 「ああ、そういうやつだよな、お前は。そういうの、親友からすると寂しいもんなんだぜ、バカ寸」 「そうですね、なら……最後に、我儘を……言いましょうか。唐九、それから蘭さん。私を……看取ってください」  私と唐九試験官は、すぐに彼の手を握った。涙で彼の姿が霞むけれど、何度も瞬きをして目に焼きつける。  我儘だなんて、嘘だ。私たちがなにもできなかったと罪悪感を抱かないよう、気遣って役割を与えてくれたのだ。 「妹を……頼み、ます」  それが、寸さんの最期の言葉だった。 「ほんと、お前は息を引き取るときまで、人のことばっかだな」  震える声でそうもらした唐九試験官は、寸さんの口元の血を着物で拭ってやり、静かに立ち上がる。 「お前の過ちに傷ついた人間を俺が全力で生かしてやる。それで親友の罪を少しでも軽くできるんなら、一生懸けてでもやり遂げてやるよ」  寸さんの亡骸を一瞥し、すぐに身を翻した唐九試験官は広間にいる負傷者の手当てに向かう。悲観で終わらない唐九試験官の凛とした背中は、やはり先生だった。 「寸さん、私も行きます。ここですべきことがあるとしたら、あなたのために泣き続けて、立ち止まることじゃない。誰であろうと、生きる意思のある者を救うことだと思うから」  誓うようにそう告げて、私は腰を上げる。しっかりと足を踏みしめて、私を必要としている患者を探した。  そのとき、「お前さえいなければ!」と背後から怒号が飛んでくる。振り返ると、視界に影が落ちた。いつの間に迫ってきていたのか、龍辱様が私に向かって剣を振り上げている。 「――えっ……」  咄嗟のことに、逃げるという考えも頭に浮かばなかった。迷いない剣筋で、私の命を散らそうとする銀の光をただ見つめることしかできない。 「そいつに触れるな!」  彼の激昂する声が聞こえた。そのすぐあと、どこからか飛んできた剣が龍辱様の胸を貫く。龍焔の剣だ。「ぐああああっ」という断末魔の叫びが広間に響き渡った。龍辱様は剣を落とし、ガクンッと膝から崩れ落ちるようにして倒れる。その身体はぴくぴくと痙攣を繰り返したあと、ぱったり動かなくなった。  眼下の死体に思考が停止していたとき、「今だ、放て!」という声が空気を割る。  はっと声の主である龍水様に目を向けると、武器を失った龍焔と取っ組み合いになりながら、にたりと口元を歪めた。その瞬間、敵兵が矢を射かける。その狙いは龍焔だ。 「いやあああっ」  気づいたときには走り出していた。それでも、矢の早さに敵うはずもなく、放たれた一閃が容赦なく彼の左目に突き刺さった。 「ぐううううっ」  右目を押さえて、龍焔はその場に蹲る。それを好機到来とばかりに、龍水様は剣を振り下ろす。痛みを堪えながらも、龍焔はその斬撃を避け、床に転がっていた敵兵の剣を拝借し、龍水様の背を斬りつけた。 「ひぎゃあああっ、痛いっ、誰かああああっ」  矢を受けても、みっともなく懇願することはなかった龍焔。それに対し、龍水様は情けなく敵兵の足に縋りつき、「俺を早く助けろっ」と激高していた。 「死ぬのが怖いなら、初めから剣なんて握るんじゃねえ……よ」  軽蔑の目で龍水様を睥睨(へいげい)し、龍焔はうつ伏せに倒れた。私は何度も崩れ落ちそうになりながら、彼のそばまで駆けていく。 「龍焔っ、どうして武器を手放したりしたの!」   泣きながら叫ぶと、龍焔は仕方ないなと言わんばかりの顔で私の頭に手を乗せた。 「俺の……女を守って、なにが……悪い」 「悪いですよ! いつもいつも、どうして自分の命をもっと大事にしてくれないんですか!」  龍焔の身体を仰向けにして、すぐに傷を確認する。矢は眼球に突き刺さり、その周囲の皮膚を紫色に変色させていた。 「これ、まさか毒矢……?」 「ぐっ、痛みで意識がぶっ飛びそうだ」  こんなときにまで私を安心させるためか、笑っている。だが、呼吸は痛みに乱れ、無事だった左目は時々遠くなる。  眼球を貫く矢。今まで治療したことがない症例と、なにより患者が愛する人だという事実が私の判断力を鈍らせていた。瀕死の人間を前に、こんなに取り乱して……医者失格だ。  「なにぼさっとしてんのさ、グズ」  隣に、誰かが片膝をついた。続いて両肩に乗る温もり。私は思わず泣きそうになったけれど、彼らのおかげで医者としての紅葉蘭が目覚めていく。 「ありがとう、孔玉くん、蒼」  私は気を取り直して、愛する人ではなく患者として彼に向き合う。冷静に、そうでなくても自分は平常心だと思い込んで、龍焔を助けるために怪我を診よう。ときには自分の感情すら騙せる。それは医者の武器だ。 「右目の流涙(りゅうるい)が酷いな。眼球周囲も毒の影響で炎症と化膿が早い」  蒼は龍焔の目の状態を診断していく。 「矢の深さからするに眼球の温存は無理……だね」  龍焔は片目を失うことになる。それを口にした途端、自分の不甲斐なさに奥歯を噛みしめた。私が油断したりしなければ……。  そんな後悔が思考を呑み込もうとするが、私は頭を振る。今はやれることをしろ、と自分を叱咤した。 「眼球を摘出しよう」  私の決断に、周囲が騒然とする。 「バカか、お前!」  余裕のない顔で唐九試験官が走ってきたと思ったら、私の口を手で塞ぐ。 「王子の目玉を取り出すだ? さすがに許されるわけねえ、死罪になるぞ」  そんなの、百も承知だ。だが、それで龍焔を、この世界の希望を守れるのなら、安い代償だろう。私は自分に集まる敵意も死への恐怖も意識の外に追い出し、唐九試験官の手をやんわりと掴んで口から外す。 「ですが、眼球を取らなければ矢の毒が広がって、やがて死に至る。私は陽煌国の未来である龍焔を守りたい。そのために、私はここにいるんです」  この場で切り捨てられるのも覚悟で、きっぱりと答えれば、「さすがは、俺の見込んだ女だ」と、か細くもしっかりとした声が聞こえた。龍焔だ。こちらを見上げて、不敵に微笑んでいる。 「お前になら……この命を預けられる。迷わずやれ、お前は俺の光……だろ」  ――お前は俺の光。その言葉が心に沁み込んで、私を奮い立たせる。いつだって、私を突き動かすのは彼の言葉だ。 「まずは手術に使う道具が必要。私の道具箱は仙に置いてきてしまったから、小さな刃物と糸がいる」 「それなら、これでなんとかなんない?」  孔玉くんが道具箱から取り出したのは、薬草を刻むときに使う小刀だ。まさにメスと同じ大きさ。使い勝手は違うだろうけれど、消毒をすれば使える。 「糸と針は縫製用のものしか用意できないだろうが、いけるか?」  蒼の言葉に、十分だと頷く。私たちが手術道具の代用品について知恵を絞り合っていると、唐九試験官が盛大なため息をついた。 「小刀、かき集めて熱湯消毒してくる。お前ら、くれぐれもしくじるんじゃねえぞ。他に必要なもんは?」 「唐九試験官……では、細い鉄の棒を火鉢に入れて持ってきてくれますか?」 「なにに使うんだ? いや、そんなこと聞いてる場合じゃねえな。わかった、待ってろ」  広間を飛び出していく唐九試験官を見送る間もなく、私たちは龍焔を囲んでこれから行う術式の確認をする。 「さすがに、鍼で痛みを取り除くだけじゃ厳しいんじゃない? 提案なんだけど、砲仙子(ほうせんし)の薬草で感覚を鈍麻させるのはどう?」 「孔玉、それは麻薬だ。容量を間違えれば、全身を強い痺れが襲い、二度と身体を動かすことはできなくなる」  険しい面持ちで、危険性を語る蒼の懸念は私の中にもあった。だけれど、手術自体がとてつもない痛み伴う。その消耗で全身状態が悪化するほうが危険だ。 「試してみる価値はあると思う」  そう口にすれば、「試す!?」と政務官たちにどよめきが広がった。「あやつらを捕えよ」「王子に近づけさせてはならぬ」「人体実験と同じではないか!」と次々に非難の声が飛び交い、武官たちが剣の矛先を向けてきた。  殺されるかもしれない。そうなったら、龍焔を助けられない!  嫌な汗が背筋を伝ったとき、思わぬところから「よい、やらせよ」と助け船が出された。 「息子が信頼する者たちだ、手を出すな。治療の妨げになるのなら、お前たちこそ王子に近づくべきではない」  私たちを後押ししたのは王様だった。政務官たちは王命に逆らうことはできない。ぞろぞろと下がり、青い顔でこちらの様子を窺っている。  感謝いたします、王様。お礼を告げるのは心の中だけに留める。口先よりも結果を残して応えるべきだ。それが誠意の示し方だと、私はややあって唐九試験官が運んできた武器を手に取る。 「では、始めましょう」 「了解、麻酔始めるよ」  孔玉くんが左目の周囲を砲仙子を塗った鍼で刺し、龍焔に痛みの度合いを尋ねながら感覚を鈍らせていく。 「効果が切れる頃に、もう一度砲仙子を使うから。でも、使った分だけ副作用も強く出る。だから死ぬ気で早く終わらせてよね」 「うん、善処する」  私はすぐさま眼球の縁に小刀を滑らせて、繋がっている膜を切り離していく。その瞬間、龍焔が「ぐううううっ」と口内に含んでいた布を噛んだ。  砲仙子は感覚を鈍らせる効果が強い反面、麻痺の副作用がある。治療後の生活にも影響するため、量は増やせない。耐えられる痛みのすれすれのところで龍焔は戦うことになる。  早く、正確に――。  一秒の迷いは、間者の苦痛に匹敵する。私は龍焔の悲鳴を戒めに、ただ彼にとっての毒――眼球を摘出することにだけ集中する。  絶え間なく続くうめき声に広間には異様な空気感が漂い、その場にいた人間たちがぴりぴりしながら見守っているのがわかる。 「体動が激しすぎる。誰か、龍焔――龍焔王子の手足を押さえてください」  術野から目線を逸らさずに頼むと、兆雲さんと明翼さん、そして楪さんが手を貸してくれる。それ以外に名乗り出る者はいなかった。手伝って龍焔になにかあったら、罪に問われるかもしれない。それを恐れたのだろう。 「もう少し、頑張って、龍焔――」  私は小刀を進めていく。そのとき、血管を掠ったのか、ぴゅっと頬に血液が飛んできた。周囲から悲鳴があがるが、眼球の周囲は血管が豊富なのだ。私はこのときのために唐九試験官に用意してもらっていた熱した鉄の棒を使い、切れた血管にあてがう。肉がじゅっと焼ける音と龍焔の「がああっ」という叫びがこだましたが、構わずそれで出血部分を焼き止血する。そして、どれくらいの時間が経過しただろう。 「これで終わりです」  私は布の上に毒で変色した眼球を置く。それと同時に、龍焔は全身の力をふっと抜いて意識を失った。眼球を摘出したあとの処置をすべて終えると、私はふうっと息を吐く。  私のすべきことはした。手術後に起こるだろう高熱と薬の副作用による痺れの後遺症。それにどれだけ耐えられるかは、龍焔次第。こうして苦労して毒の犯された眼球を取り除いたところで、手術の合併症で死んでしまうことだってある。だから私は、祈るような気持ちで彼の青白い額に自分の額を重ねる。 「どうか負けないで――」
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