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▼終章
王子の居室は金糸で龍が描かれた深紅の敷物に壁掛け、漆の箪笥や飾り棚といった家具で彩られていた。
美しい調度品に囲まれた部屋の奥、寝所で眠りについている男は、頼りない朝日を受けて、まるで陶器人形のごとくそこに横たわっている。
手術から早くも三日が経過していた。だが、彼が目覚める気配がない。昨日まで危惧していた高熱が続いていて、その疲労から泥のように夢の世界に沈んでいるのだろう。
彼が意識を失っている間、急遽義眼が用意された。空洞のままだと、ない左目部分が凹み顔貌が変化してしまうからだ。
私は義眼がはめ込まれた彼の右目に、眼帯越しに触れる。
「ぜんぶ、終わったんですよ。あとは、あなたが起きるだけ」
どうか早く、その瞳で見つめてほしい。その薄い唇で私の名を囁いてほしい。その大きな手で、触れてほしい――。尽きない願いに胸が詰まる。手術は成功したというのに、なぜ今もその瞼は開かれないのか。私の知らない副作用が起きていて、このまま彼が眠り続けてしまったらと思うと、目の前が真っ暗になるようだった。
「龍焔、もう朝ですよ」
私は彼の手を握り、自分の額にくっつける。触れ合った部分から伝わってくる体温だけが、彼の命を感じさせてくれる。私を安心させてくれる。
「いつまで、私を待たせるつもりですか」
文句を垂れれば、目の奥が熱くなった。俯いた私の下瞼がじっとりと湿り、龍焔の手の甲を濡らしたとき、ぴくりとその指が動いた気がした。
「……悪かったな、蘭」
う、そ……。初めは私の願いが見せた幻聴だと思った。けれど手を握り返され、じわじわと期待が現実味を帯びる。
「泣かせた詫びと言ったらなんだが、聞いてくれ」
私はゆっくりと顔を上げる。固く閉じられていた金の双眼が、今はしっかりと私を捉えて離さない。
「やっぱり、お前は光だった。お前がいなければ、俺は今頃なにも成し遂げることなく、この世界から消えていたはずだ」
「いいえ、龍焔が私を信じてくれたからですよ。でなければ、手術もできなかった」
「謙遜するんじゃねえ。言っとくが、俺だけじゃないぞ。委元も寸も、患者たちも。お前と出会い、希望を見たはずだ」
――光、その言葉で思い出すのは委元の言葉。
『お前は、光だ……。俺にとっても、この国にとっても……だから、立ち止まるな。その手で、多くの者を照らせ……』
――希望、その言葉で思い出すのは寸さんの言葉。
『私を解放するだろうあなたは……ずっと、私の希望だったのです。私の勘は、外れていなかった。おかげで、最後に……自分が望むことができました……』
私を守り、命を散らしたふたりの存在が瞼の裏に蘇る。決して消えることのない彼らの存在は、肉体を失ったあとも私の心に溶けてともに生き続けるのだ、きっと。
「ともに、この陽煌国で生きてくれ、蘭」
龍焔の手が伸びてきて、私の涙を拭う。そのまま頬を滑り、うなじに手が回ると、軽く引き寄せられる。
「愛している」
たったそれだけの言葉で、全身の細胞が喜びに震えているのがわかった。
彼の眼差しに縫い留められ、目を逸らせない。鼓動がとくとくと音を加速させていき、幸せすぎて息が苦しいという感覚を生まれて初めて味わった。
「私も、愛しています」
髪がひと房、彼の頬にはらりと落ちる。くすぐったそうに目を細めた龍焔が、さらに私を引き寄せると――。そっと、先ほど想いを紡いだ唇が重なり合った。
***
宮殿で起きた謀反の話は、瞬く間に都にまで広がった。龍辱様はあのとき龍焔が放った剣で死亡したことが確認され、こたびの一件に関わった者たちは絞首刑に処される。龍水様だけは元王族ということもあり、王様の温情で流刑に決まった。
そして、裏切り者である寸さんの遺体は、本来であれば遺族の元に還すことは叶わない。だが、王族に妹を人質に取られ、抗うことなど誰にもできない。加害者である彼もまた、被害者なのだと龍焔が王様に進言し、妹のもとへと帰されることになった。
国を揺るがす、王位争いの幕がここでようやく閉じたのだ。
「それでは、宮廷医の戴帽式を始める」
ある日の昼下がり、医院の広場の前には宮廷医試験の合格者たちが集められていた。
壇上から彼らの顔を見回した唐九試験官が、黒の冠帽を手に試験合格者たちの名を呼ぶ。
「尊孔玉、朴蒼」
壇上に上がったふたりが、一歩下がりながら膝を折る。頭を垂れれば、唐九試験官から宮廷医の証である黒の冠帽が載せられた。
おめでとう、ふたりとも!
拍手したくなる気持ちを必死に抑える。厳粛な宮廷医の戴帽式では、王様や王子の龍焔、政務官長や武官長も参加しているからだ。
そして、なぜ私が参加しているのかというと――。
「最後に、紅葉 蘭」
私は女物の緑の光沢のある官服を身に着け、壇上へ上がる。「あいつ女だったのか?」と場が騒然としたが、唐九試験官の一声が静める。
「今期より、宮廷医と同等の地位にあたる宮廷医女という役職が設けられた。女人初の宮廷医がここに誕生する」
そう、女人の宮廷医を認める法案が龍焔の力添えによって可決したのだ。きっかけは、広間で私が龍焔の手術をしたことだ。反対の声がまったくなかったわけではないが、私の医術を目にした王様や政務官たちが全面的に賛成してくれたのだと聞いている。
私は壇上に上がり一歩下がると膝を曲げる。頭を下げれば、冠帽の確かな重みを感じた。
ここからだ。身分をなくし、生き方を自分で選び、他者に尊厳を踏みにじられることのない国を築きたいと願った彼と同じ未来を見つめ、歩き出すための始まり――。
「謹んで、お受けいたします」
戴帽式のあと、私は荷物を持って青空に映える朱色の龍旋門の前にいた。
「まったく……愛を誓い合って、宮廷医女にもなったってのに、帰るとはどういう了見だ」
眉尻を下げて笑っている龍焔に、私は肩を竦めるしかない。私はもともと、委元の死の真相を明らかにするためにここへ来たのだ。すべてが終わったら、仙の島の人たちのために働くと決めていた。この思いは、宮廷医女になっても変わらなかった。
「でも、龍焔が困ったときは駆けつけます。私の力が必要になったそのときは、全速力であなたのもとに行く」
「例えば人肌恋しい、とかな」
「真面目な話をしてるんですよ、こっちは」
ムッとしたふりをするも、すぐに吹き出してしまう。こういう軽口が言い合えるのは、幸せなことだ。人の命は花が散るのと同じで、あっという間に儚く消えていく。だからこそ、一秒一秒、私は悔いなく生きたい。たとえ、愛する人のそばを離れてでも。
「私は外側から、この国を守ります」
いつか私が助けた誰かが、この国の未来を明るく照らす担い手になるかもしれない。だから、出自も罪人も関係なく人の命を生かし続ける。
「俺はこの国を内から変えるぞ。身分など関係ない、生まれた瞬間から人があらゆる夢を描けるような国にな。お前のおかげで、ひとつ叶ったが」
「宮廷医女のことですか?」
「ああ、陽煌国初の女人宮廷医だぞ。俺にとって、お前は自慢だ」
この人の無邪気に笑うところを初めて見た気がする。つられて口元を緩めたとき、龍焔の両腕に抱き寄せられた。
「お前がやり遂げたいことがあるのは、知ってる。だがな、いつかは俺の隣に立ち、ともにこの国を導いてくれ」
「龍焔……ありがとうございます。今すぐにって、言えなくてごめんなさい」
「俺は自分の意志を持ってるお前が好きなんだ。引き留めたい気持ちはあるが、背を押したいと思うのも本心だ。それに、お前は誰に止められようと自分の道を行く。なんたって、男装して宮殿に乗り込み、ときには妓生に成りすまし、妓楼で情報収集してた女だからな」
口ではなんてことないようにからかいながら、彼の手はしきりに私の頬を撫で別れを惜しんでいる。寂しさを抱えながら送り出してくれる彼が、心の底から愛しかった。
「必ず迎えにいく、その時まで待ってろ」
「それはとても情熱的ですけど、その時が来たら私からあなたのもとに行きます」
頬に触れていた彼の手を強く握りしめる。
龍焔は一瞬目を見張り、すぐにくっと喉の奥で笑った。
「お前は世間一般の女とは違うんだったな。逞しくてなにより。今度はなにに扮して現れるのか、楽しみだ」
「今度は医者ではなく、ありのままの私の姿で会いに来ます。あなたの恋人として――」
私が背伸びをするのに合わせて、龍焔が屈む。顎にかかった指先も、甘い吐息も、少し硬い前髪も、彼を象るすべてが愛しい。
「どこにいようが、俺たちの心はひとつだ」
温もりが触れ合う。龍に導かれ、やってきた陽煌国。私はここで夢を手に入れ、希望を託され、仲間ができ、愛を手に入れた。
私が彼を救うために、この国に遣わされたのではない。きっと、空っぽだった私が救われるために、ここへ来たのだ。
日本とは違って、命が風に舞う枯れ葉よりも軽い世界。ただ普通に生きることさえ難しい場所だけれど、どこよりも生きることを尊いと実感できる。彼に出会った陽煌国は、命の輝きに満ちている。その光を私は守っていこう。この人と、ふたりで――。
(終)
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