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君の名は
「あ、あ、あ……あの」
琴子の声は蚊の鳴くようだ。
「それで、あ、あ……」
「このままでもいいんじゃないですかね」
「え……」
「琴子さんは東京見物がしたいんですっけ。なら俺が付いて行けばいいんですし」
琴子は雄一の考えがまるで分からなかった。
「でも! こんな若さで親に将来を決められるとか……いやじゃないんですか?」
「うーん、でも俺は跡取りだからいずれお嫁さんを貰わなきゃいけないし、琴子さんのことは嫌じゃないし」
「私も嫌ではないです……」
つまりお互い破談を画策するほど相手が嫌でもないということだ。
「こんな感じ……なのかぁ」
「ふふふ。天野さんはおもしろいなぁ」
「ほら、親に反抗して家出とか、誰かと駆け落ちとかなんにもないと思ったら」
「それは新聞記事とか小説の読み過ぎでは……」
雄一はこんな琴子のばかな考えを笑って聞いてくれた。それだけで、琴子は今日ここに来て良かった、と思えた。
「……私、そろそろ帰ります。次に会うのは週末ですね」
「そうですね。……天野さん、下の名前で呼んでいいですか。琴子さんと」
「あ、はい……雄一……さん……では、と、と、友達が待っていますんで!」
琴子は雄一の名前を呼ぶと急に気恥ずかしくなって、席を立った。そんな琴子を雄一は店の出口まで見送った。
「また」
「ええ、また」
そして退屈そうに待っていた親友達の元に琴子は駆けていった。
「お待たせ」
「お話、できた?」
「ええ」
「どうでしたの?」
美鶴と万喜が琴子を覗き混んでくる。
「……道々話すわ」
琴子はそう言って駅にやってきた都電に乗り込んだ。席についたところで、琴子はふたりに雄一とのやりとりを説明した。
「それじゃ、結局このままってことになったの」
「うん……雄一さん、同級生を蹴り上げたことも怒ってなかったし、というか面白がっていたわ」
「それは……度量のある学生さんだ。琴子にはちょうどいいのかもな」
「ちょっとどういう意味!?」
姦しい三人を乗せて、都電は夕暮れの待ちを進んで行った。
「ただいまぁ」
「琴子か、お帰り。さあ夕飯だよ。手を洗っておいで」
「あ、はい」
家に帰ると、清太郎がやたらにこやかに出迎えてくれた。今日も琴子は体を大きくしようともりもりと夕飯を平らげる。
「たま、おかわり!」
「はい、お嬢様」
「お兄様、煮物食べないならください」
「はぁー……」
琴子が夕飯に手をつけない清太郎にそう声をかけると、清太郎は盛大にため息を吐いた。
「……お兄様」
「お前はいいねぇ……僕は琴子の縁談のことで胃がキリキリしているというのに」
「あ、それなんですけど。破談はなしになりました」
「は?」
清太郎はきょとんとして琴子を見た。
「さっき、雄一……さんと会ってきて、お互いこのまま婚約でいいだろうって話してきたんです」
「琴子! ……お前ってやつは……お前ってやつは……」
「お兄様、御髪が汁に入りますよ」
ほーっとして前のめりに息を吐いた清太郎に琴子はそう声をかけた。
「ご心配お掛けしてもうしわけありませんでした」
「まあ、よかったよ。……これで父上の雷を食らわなくてすむ……」
琴子は清太郎に悪いことをしたな、と思いながら残りの夕食をかき込んだ。清太郎も重たい気持ちがふっきれて食欲が戻ったようで、やっと箸をとった。
「雄一さん……雄一さんか……」
その後、風呂に入って寝間着に着替えた琴子は、布団の上でぼそぼそと雄一の名前を呟いた。それが夫となる人の名前かと思うとなんだかむずがゆい。
「やだ、もう……寝ましょ」
琴子はどこか浮かれている自分を自覚しながら布団の中に潜り込んだ。その後、大騒ぎになることなど、知らずに。
***
翌日、授業を終えて家に帰ると、通りに清太郎が陣取っていた。
「お兄様、どうしましたの」
「どうもこうもない!」
いつも穏やかな清太郎がなんだか怒っているようだ。だが、琴子には身に覚えが無い。婚約の件は落ち着いたはずだし、もしかして腹痛を装って学校を抜け出したのがばれたのだろうか。
「とりあえず中に」
「……はい」
琴子はそのまま居間に向かった。
「そこに座りなさい」
「……はい」
「いいかい、琴子。落ち着いて聞いておくれ」
「なんでしょう」
「……あちらさんから……北原家から破談の連絡がきた」
清太郎の言葉に、琴子は頭から雷にでも打たれたような衝撃をうけた。
「え!? ええ!? それってどういう……」
「言葉のままだ。さっき使いが来て、縁談は無かったことにして欲しいと言ってきた」
「そんな……昨日、私は雄一さんとちゃんと話したんですよ」
「とにかく……電報を父上に送った。週末にはひざを揃えて叱られようじゃないか」
「うええ!?」
あの岩のようなゲンコツを食らうのだろうか、と琴子はのけ反りそうになった。しかしおかしな話だ。
「お兄様、お父上のことはともかく話し会いの場を設けられませんか」
「……え?」
「だっておかしいです。昨日の今日で話は反対になるなんて」
「そうだなぁ……」
清太郎は琴子にそう言われて頷いた。そして連絡の為にだろう、居間を出て行った。琴子はその背中を見送りながら、なぜこんなことになったのだろうと首を傾げていた。
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