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乙女の日々
「母が異性交遊をしているから破談だと言いだしてね。そんな時美鶴さんが君の手紙を届けにきてピンと来たんだ。ああただの勘違いだと」
「……そうね、確かに美鶴と二人でお茶をしたことはあったわ。雄一さんとお話する練習に」
「やっぱりね」
そう言いながら雄一はポケットからマーガレットのピンを取りだした。
「これ、お気に入りなんだろう? 返すよ」
と、琴子の髪につけてくれる。
「良かったね、琴子。誤解がとけて」
「美鶴さん」
「じゃ、お邪魔虫は帰るよ」
そう言って美鶴は庭を抜けて門へと向かっていった。
「……はー、なんか気が抜けた」
「母様は俺がまだちっちゃい子のままに見えてるんだろうなぁ……病弱だったから」
「そうなんですか」
「ああ。田舎の方が療養にいいって言ってしばらく田舎にいたりしたよ」
今は体格も立派な雄一がそんな子供だったなんて想像がつかない。
「そこに毎日のように遊びにくる子がいて……」
「ええ」
「桑の実で口を赤黒くして何にも知らない母は卒倒しかけたっけ……」
「ん……?」
琴子はそこでなにか自分もそんなことがあったような気がした。
「それから繭玉で人形を作ったり……」
「あ! ああ……?」
「思い出した? ことちゃん」
「ゆうくん……?」
あれは五つかそこらの頃の話だ。近所に父の知人の息子さんが住んでいたことがあった。歳の近い琴子はその子が珍しくてよく顔を出していたのだ。
「いずれ嫁を、って話が出たときに……お嫁にもらうならことちゃんみたいな元気な子がいいなと思って口にしたらこんな騒ぎになってしまった……ごめん琴子さん」
「ゆうちゃ……雄一さん……私ったらなんにも気付かないで……」
琴子は顔を真っ赤にしてうろたえた。そんな琴子を見て、雄一はにこにこ笑っている。
「琴子さん。これから親たちがなにを決めても、俺達は交友しませんか」
「え……」
「おいしいものを食べたり、珍しいものをみたり、のんびり郊外にいくのもいい。……だめかな」
「だめじゃ……ないです」
琴子がそう答えると、雄一はふうーっと安堵の息を吐いた。
「よかった」
そう言って微笑む雄一を見た時、琴子の胸に今まで知らない感情が湧いてきて、琴子の耳を赤く染めた。
「えー、おっほん」
その時、清太郎のわざとらしい咳払いが聞こえてきた。
「お兄様」
「お二人とも、応接間に戻って」
「はい」
琴子と雄一が連れ立って応接間に戻ると、なんだかぐったりやつれた双方の親たちがふたりを見ていた。そして、しばらくの沈黙のあとに雄一の父が口を開いた。
「琴子さん」
「はいっ」
「雄一との縁組みはこのまま進めていいかな」
「……はい」
「うちのが勘違いして大騒ぎしてすまない」
申し訳無さそうに頭を掻く雄一の父。その背中を琴子の父が軽く叩いた。
「まあまあ……済んだことにしましょう。そのうち我々は親戚になるのだから」
「そ、そうだね……天野くんと親戚か……」
「じゃあ、琴子! 帰るぞ!」
「あ、はい!」
こうして来た時と同じ位慌ただしく、琴子は父に連れられて人力車で家に帰った。
「はー、参った参った。琴子、こんなことは二度とごめんだ」
「お父上、心配をかけました」
「にしても……、あれが同級生か? 女の癖に……」
「お父様!」
父の愚痴は殊勝に聞いていた琴子だったが、美鶴の話になった途端に鋭い声を出した。
「美鶴さんは、編入生の私にとっても優しくしてくれるいい人です。私の大事な友達です! 悪く言うようならお父上でも許さないわ」
「琴子……」
今にも噛みつきそうな琴子に、雁之助は困った顔をして息子の清太郎を見た。
「世の中の変化は激しいですね。街中でもああいった断髪の女性は時々みるようになりました」
「そうなのか……?」
「ご一新を乗り越えた父上ほど、激動の時代ではないですけど。置いて行かれないようにしないとですね」
「う、うーむそうだな」
雁之助は一旦納得した振りをした。そうでもないと琴子が二度と口をきいてくれないような気がしたのだ。なんだかんだ、一人娘には甘い雁之助であった。
***
北原家の一件を終えて、父と兄は晩酌を続けている。琴子はその間に自分の部屋に戻って、箪笥の上の繭玉人形を見つめた。
「ゆうちゃん……」
色が白くてせんの細い男の子だった。逆に琴子は日に焼けて、木登りばっかりしていたから泥だらけで……。またこうして会えるとは思わなかった。
「明日、万喜さんと美鶴さんにも報告しないとね」
琴子は文机に座ると、帳面を開いた。東京に来てから起こったこと、それからこれから起こることを書き留めておこうと思ったのだ。
「まずは……梅野女学校……」
そこで出会った変わり者だけど気のいい友達、それから銀座でのおでかけ。雄一との出会い……そして見合い騒ぎ。
「ひとつきくらいの間にこんなに色んなことがあったのね」
そしてこの先は雄一も一緒にここに綴られていくはずだ。
「万喜さんと美鶴さんと雄一さんとどこに行こう。ああ、忘れないように書いておこう」
郊外にも行こうと雄一は言っていた。夏になったら川か海か、万喜が銀座で買った白い帽子は大活躍するだろう。
「楽しみね」
琴子はこれからの日々に胸をときめかせながら帳面を閉じた。そして布団の中に潜り込む。
「お休みなさい……」
昼間の疲れもあって、琴子はたちまち眠りに落ちていった。
***
「琴子さーん、良かったわー!」
「万喜さん、万喜さん、泣かないで」
無事円満、丸く収まったことと雄一が幼馴染みだったことを琴子は万喜と美鶴に報告した。
「美鶴さん、休日に悪かったわね」
「親友の為ならあれくらい」
美鶴は手紙を渡した時に雄一に日曜に家に来て欲しいと頼まれていたのだという。
「それより今度の日曜はどこに行く? 浅草?」
「そうね……あ、雄一さんも一緒でいいかしら」
「もちろん」
美鶴が頷くと、万喜がひょっと首を突っ込んだ。
「あーら、デートのお邪魔じゃないかしら」
「デート!?」
「デートでしょう?」
「そそそ、そんな……」
琴子のほっぺたがカーッと熱くなる。それを見て万喜と美鶴はニヤニヤしていた。
「それは悪いな。我々は遠慮しよう」
「美鶴さん!!」
「そうよね」
「万喜さんも! えーとじゃあこうしましょう、雄一さんもお友達を呼んで貰って……」
琴子はそこまで言ってハッとなった。雄一の友人といえばあのいじわるな人たちではないか。
「いや、やめときましょう」
「いいわよ。別に」
「万喜さん?」
「ああいうのを屈服させるのが楽しいのよ……」
「万喜さん!?」
万喜の不穏な発言に琴子は慌てた声を出す。それを見て美鶴は笑いを堪えている。
「美鶴さん、笑ってないで万喜さんを止めて!」
「あははは」
「はーい! 授業をはじめますよ、そこ! 席について!」
三人の賑やかなやりとりは授業のベルで中断された。とにかくこのままでは厄介な集団デートになってしまいそうだ。どうしようか、と琴子は鉛筆を嚙んだ。
「琴子さん」
こそりと前の席の万喜がこちらを向く。
「それより、帰りはケーキを食べにいかない?」
「うん、いいわ」
移り気で、騒がしく、柔らかな乙女。そんな琴子の乙女の日々はきっと人生の中ではほんの一瞬だろう。しかし今は、そんなことは構わずにこの日々を楽しもうと琴子は思うのだった。
***
とりあえず完結です。続きを書くかどうかはまだ未定です。
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