op カワウソが憑いてきました

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op カワウソが憑いてきました

(1)  俺は今、手にバケツを持って井戸の前にいる。  井戸(いど)。  分かるかな?  今どき、井戸ってみんな見たことがあるのかな。  俺のじいちゃんの家の裏には、小さな神社がある。  色のハゲた鳥居。ただの石ころと見分けがつかない狛犬。壊れかけた社。そして蓋で塞がれた井戸。  じいちゃんが言うには、その井戸は実は由緒正しいらしい。江戸時代に有名な武士がこの地に立ち寄ったことがある。名前は忘れたけどかなり有名な武士だった。その武士がこの神社でしばし休んだ時に、乗っていた馬がこの井戸で汲んだ水を飲んだんだって。  馬が、ね。  ……ありがたいんだかどうなんだか、ちょっと微妙だ。  逸話は微妙だけど、ここは今でも実際に水を汲むことができる。すごく古くからある井戸なのに!  井戸なんて昨今じゃあ、実際に見るだけでも珍しい。そこから水を汲むなんて、ある意味冒険のような気がしませんか?  偉い馬の水飲み場とかとは関係なくてもね。  だから今日の俺のミッションは、この井戸から水を汲むことだ。小さい時からの野望だったんだけどなかなか許可が下りず、実は今日が初挑戦なのだ。  いぇーい。  塞いでいた蓋は簡単に開いた。というか、ただの板の上に石を重しとして乗せてあっただけだから。  ワクワクする気持ちを抑えて、そーっと井戸の中を覗き込む。  井戸の中は暗くてよく見えない。けれど、あまり深くないところで水面が波紋を広げているのは分かる。  水面まで何メートルあるのかな。透明で冷たそうな水だ。波紋が何やら不気味な影のように見えて、少し怖い気がした。 「いやいや、覗いただけでビビッてどうする。今日の目的はこの井戸から水をくむことだろ!」  手に持ったブリキのバケツを井戸の蓋の上に置いてあったロープにしっかりと結び付けた。俺が井戸から水を汲んでみたいって言ったら、じいちゃんがバケツを貸してくれたんだ。  この井戸には今は滑車が付いていない。昔はあったんだけど、壊れたので取り外してそのままらしい。  だから今はこうして、ロープで縛ったバケツを放り込んで手で引き上げるんだ。と言っても、それですらもう数年使われていないらしいけどな。  バケツを勢いよく落とすと、ガシャンと水面に当たった音がする。その後、沈んで重くなったバケツを、引き上げる……んだ……が……。  お、重い……。  思った以上の重量感に内心音を上げながらも、必死で引き上げる。  ようやく井戸の縁まで引き上げたら、バケツと目が合った。 「ふぅ。ようやく外に出られましたよ。やれやれ」 「ひっ、ひやあっ、何だこれ」 「きゃああああああああああ」  バケツの中に何かいる!  慌てて手を離したら、そのままバケツは悲鳴を上げて真っ逆さまに井戸に落ちていった。  バシャッ、ガッシャーン!  さっきより一層大きな音がして、ついでに叫び声も聞こえた。 「痛ったああああ。何するんですか。危ないじゃないですか。早く引き上げてくださいったら」  逃げたいけどうるさいので、恐る恐る井戸の中を覗き込んでみる。暗い井戸の中も、ずっと見ているとだんだん目が慣れてくる。ぼんやりと何かがバケツに摑まっているのが見えてきた。暗闇の中で、目がギラリと光っている。 「……見なかったことにしよう。俺は何も見なかった。聞かなかった。井戸水なんて欲しくない」 「ええええっ、ちょっと、そこのあなた! 何を言ってるんですか。見えてるじゃないですか。私の声が聞こえてるでしょう?」  幻聴が聞こえたが、まあ幻聴なんてよくあることだ。無視してそのまま蓋を閉めよう。 「ああああ、閉めないで! 閉めないでえええ」 「聞こえない。何も聞こえない」 「聞こえてるじゃないですかあああぁぁぁ……」  さっき井戸の脇に置いた板を手に取って上に乗せようとして、思い出した。そうだ、バケツをじいちゃんに返さないといけないんだ。  仕方ないから閉めかけた蓋をもう一度開ける。 「ふぅ。よかった。じゃあ私はこうしてしっかりと捕まってますから、早くバケツを引き上げてください」 「……俺、バケツだけが欲しいんだよ。降りてくんない?」 「なに無慈悲なことを言ってるんですか。いたいけな可愛い私がこうして頭を低くしてお願いしているのに降りろですって。さあ、早く引き上げてください。お礼はちゃんとしますから」  そいつはバケツの中でツンと鼻を俺に向けて言った。頭を低くしてとか言うけど、決して頭を下げてるわけじゃない。俺より低い位置にいるってだけだ。  話しているうちに何だか馬鹿馬鹿しくなってきた。最初は少し怖かったけど、言葉は丁寧でバケツに入るくらい小さい。そいつはバケツにしっかり捕まってて離れそうにないし、俺は早くじいちゃんちに戻りたい。 「仕方ねえな。じゃあ引き上げるからなー」 「ええ、ええ。お待ちしていますよ!」 「ほんと、仕方ねえな」  明らかに水が入っているよりも重たいバケツを、もう一回ふうふう言いながら頑張って引き上げる。言い訳するようだけど、身を乗り出して物を垂直に引き上げるって、案外力が必要で大変なんだ。俺が非力なわけじゃない。  途中まで引き上げてバケツの中をのぞくと、中に入っているのはしっとりと濡れた毛皮を持つ動物だった。丸いつぶらな瞳が、可愛らしくもある。 「……カワ……ウソ?」 「当たり前じゃないですか。あなたこの可愛い私が犬や猫に見えるんですか?見えないでしょう。どう見てもカワウソですよね。ええ。その通りですよ」 「引き上げるの、やめようかな」 「えっ。まぁまぁ、落ち着いて。せっかくここまで引き上げたんですから、あとちょっと頑張りましょう」  カワウソと喋っているという異常事態だけど、もう感覚が麻痺してる。  俺は言われるがまま、バケツを井戸の上まで引き上げた。  地面に置いたら、そいつはきょろきょろと周りを見回してから、バケツから這い出した。  うん。カワウソだ。長い胴体に短い手足がかわいい。 「ああ、やっと地上に出てこれましたよ。やれやれ。あなたの名前は?」 「俺? 修人、続木修人(つづきしゅうと)だけど」 「なるほど。シュートですね。私を助けてくれたお礼に、しばらくあなたに取り憑きますので、よろしくお願いします」  こうして俺は、奇妙な喋るカワウソに取り憑かれることになった。
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