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「むぅ~……ほんとに? ほんとのほんとに大丈夫?」  おやつに紅茶と茶菓子を用意しながら「ああ。大丈夫だって」と、オレは答える。  ――ああ……もう。面倒くさい。そんなに心配ならこんな商売、いっそのことやめてしまえばいいのに。  だけど棗はこの商売をやめる気はまったくない。    何も知らない者にとって、棗は人間を商品として売り捌く、ただの商売人でしかない。    昔々の道徳やら人倫やらを振りかざして、非難してくる者もいる。当事者でもなんでもなく、薄っぺらな正義感に駆られた連中だ。  まぁ、実際にはそういう連中ってのは、棗の商売(がたき)あたりに()き付けられた口なんだが。    彼らは知らない。棗のことを。  そして棗を傷つけたところで、この世界は何も変わらないってことを。    時間を見計らって、オレは紅茶をカップに(そそ)ぐ。  茶菓子のほうはもうすでに、棗のつまみ食いで残りわずかになっている。   「もう十分なんじゃないのか」  棗の手元にカップを運びながらオレは言う。 「なにが?」  最後の菓子を口に入れようとしていた棗が、その手を止めて聞き返す。 「お前はもう百人は救ってるよ、オレも含めて」 「なんだ。またその話か」  そう言って棗は、最後の菓子を口に放り込む。  オレは棗のこういうところが気に入らない。そんなこと、どうってことないって態度が気に入らない。   「古い本で読んだんだけどね。昔は千人を超える人たちを救った人もいたんだよ。ボクなんて、まだ百人かそこらじゃないか」  その本なら知っていた。棗に教えられて読んだからだ。 「その男はそれで、ほとんど全財産を失ったんだろ」 「うん。そうだね。ボクにはお金しかないからねぇ。そうなると大変かもしれないね」  ――そんなこと本気で思っていないだろ。それがどうしたのっていう、その顔を見ればわかる。  言っても無駄だとわかっていても、つい言ってしまう。 「お前は神じゃない」 「そんなの当たり前じゃないの」  そう言って棗は、はははと笑う。  その笑う顔を見るのが、日を追うごとにつらくなる。    棗は知っている。  自分のすることで、世界を変えられるわけじゃないってことを。  時代や社会とかっていう大きな流れの前じゃ、人間一人の力なんて無いも同然だ。  何をしたって、その流れが変わることはないんだろう。  流されまいと一人踏ん張ったところで、この世界がどうにかなるわけじゃない。    それでも棗はいつもニコニコしている。  幼さの残る顔が笑う。  何も知らない人間が、いつか棗を傷つけようとする日が来るかもしれない。  そう思うとオレはまた、ため息が出そうになる。  そして、その度にいつも強く思うんだ。  誰にも棗を傷つけさせない、と。  (了)
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