最悪の雨

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 雨が降っている。  あの日もたしか、こんな最悪の雨だったことを思い出す。  雪林由香里は優しい女の子である。やさしい女の子なんていくらでもいるんだから、彼女を説明するさいに用いる性質としはいささか弱いと思われるかもしれない。だが、それでもあえてそう言わせてもらう。  雪林由香子、彼女はいわば本物を持っていた。やさしさなんてのは皆が持っているが、しかしそのどれもが偽物で、彼女が持っているものだけが唯一本物であったと、今にして思う。  彼女はこれまでの人生で他の多くの人間同様、多くの嘘をつき、いくつもの不義理を行い、あまたの不誠実を犯してきたに違いない。だが、他の人間とは違う本物を間違いなく持っていた。  雪林由香子は優しい女の子。  しかし、言ってしまえばそれだけのことであり、裏を返せばそれ以外に関しては、いたって平凡な、一人の弱い人間であった。  そのことをあの時の俺はゆめゆめ忘れるべきではなかったのである。  六月。校門から追い出されるようにして、俺と雪林は下校についた。梅雨というにも関わらず、不測の事態に対して何の準備もしていなかった俺たちは、カバンを傘にして近くのバス停に駆け込んでいった。 「あっはっは、ずぶ濡れだね」 「…そうだな」   俺は体を叩きながら不機嫌そうに応答する。 「まったく、山崎の野郎。下校時刻ギリギリまでこき使いやがって。あと10分早く出れりゃあこんな目に遭わずに済んだのに」 「そういうこと言わないの。先生だって忙しいんだし、悪気があったわけじゃないんだから」 「そりゃあそうだけどよ…」 「ほいっ」 由香里は濡れたカバンからタオルを二つ取り出し、片方を俺に放り投げる。俺は慌ててそれをキャッチした。濡れた手で触れるタオルは少し湿っぽい。 「洗って返すんだよ」 「…あ、ありがとう」  そう言うと、彼女は満足そうに笑みを浮かべ、一番近くの椅子に着席する。俺も椅子を1つ分空けて隣に座る。 「それにしても意外だったな。辰也くん、普段は文句ばっかりのくせに、いざ仕事をやるとなると人一倍真面目になるから。その…少し見直したかな」 「…そんなんじゃねーよ。基本は仕事を断り、否応なく押し付けられたものは最小の時間でコスパ良く終わらせるよう努める。それだけだ。俺のジョブはこの世から一つ残らず消えろと常々思っている。めんどうは嫌いなんだ」 「ふーん。でも、そうやってなんだかんや、自分の中で折り合いつけて最終的にはちゃっかりやるところ、とてもいいと思うな。めんどくさ、とも思うけど」 「それは、それは、お褒めに預かり光栄のいたりです」 「いやいや、結構感心しているのよ。今どきやらない理由じゃなくて、やる理由を探そうとする人は珍しいよ」 「なんだよ。ずいぶんと含蓄のある言葉だな。まるで年寄りみたいだぞ」 「今のでさっき褒めた分のポイントはなしかな」 「なんだよ。そのポイント。何ポイント貯まればお皿が貰えるんだ?」 「お皿は貰えないけど、私がとってもいいことしてあげるよ」 「いいことって…、エロいことか?」 「……今のでポイント半分」 「大丈夫だ。0は半分になっても0だから関係ない」 「ポジティブなのかネガティブなのかわからない発言ね」  呆れたセリフとは裏腹に雪林は楽しげに微笑む。  それから、ふうっと息を吐き、足に載せたカバンを使って頬杖をする。そしてまたもう一度、今度は何かに疲れたような息を吐いて、湿った声で話し始めた。 「いままで部活のマナージャーとしてやってきて、まあ、それなりに楽しい時間は過ごせているのかとは思うんだけど、でもこのままでいいのかなって時々不安になる」 「そうなのか?心配しなくても皆んなお前にはちゃんと感謝していると思うぞ」 「そういうことじゃなくてね。なんていうのかな。すごく言いづらいことなんだけど、このままこのチームを応援していていいのかなって、ふとそんなことを思っちゃうときがあるの」 「…そうなのか。それまたどうして」 「実際にプレーしてるわけじゃない私が言うのもなんだけど、外からチームを観てて、ああ、このチームは絶対に上には行かないんだろうなって、そう思ってしまう自分がいるの」  ここでいう上とは、おそらく関東大会とか全国大会などといった、勝ち進まないと出場できない領域のことを指しているのだろう。 「…耳に痛い言葉だな」  雨によって冷えた耳が物理的にもそれを感じさせた。  正直、雪林がそのようなことを考えているなど夢にも思っていなかった。いつもマネージャーとして外からチームを支えてくれていた笑顔の裏で、このような冷徹に評価する一面を持ち合わせていたなんて。 「だけど、絶対ってことはないんじゃないか?お前にはしてはやけに強い言葉を使うな」 「そうだね。でも酷いこと言うようだけど、これに関しては自信あるんだ」 「…それまたどうして?」 「だって…、去年とあまり変わりないんだもん」  それは俺に対して残酷な現実を突き付ける言葉だった。そしてその現実は自分で気づいていながらも、できるだけ見ようとしてこなかったものでもあった。 「別に成長してないって意味じゃないんだよ。むしろ、日に日に成長していることは外から見ても感じている。司令塔の中島くんはパスのキレにますます磨きがかかっている。いままで消極的だった平くんは以前よりボールに対して貪欲になっている。筋肉バカだった剛田くんは徐々にテクニックの方にも意識を向け出したし、線の細かった鈴木くんの肉体は去年とはまるで別人。安田くんは後輩のトレーニングにいつも付き合ってあげている。新しく入ってきた1年生も皆んな真面目で、それに負けじと2年生も奮起している 「皆んなが頑張っているのは分かっている。皆んなが去年の自分より、1ヶ月前の自分より、昨日の自分より強くなろうとしてる。それは解っている。だけどきっと去年の同じぐらいのチームしかできない。一生懸命やったけど去年と同じ。ベスト8ぐらいで負けて、悔しかったでおしまい。そうなるってなぜか確信しているの 「皆んなは頑張っている。だけどそれはまだ全然足りない。関東や全国、そういった上を目指すには全然足りてない 「でもね、それが分かっているところでどうしようもできない。私には頑張っている人にもっと頑張れなんて言うことはできない。それ以前にともに戦うことのできない私にはそれを言う資格もない。私にできるのは、自分の予感が間違っていることをただ願うだけ」  俺は雪林の言葉にただただ頷く。それは会話におけるあいずちというよりも、彼女が話すことを正しいと思い、しっかりと肯定の意を示すためのものだった。 「お前、結構ちゃんと観てるんだな」 「意外だった?」 「ああ」 「怒らないの?」 「どうして?」 「私今、結構酷いこと言ったと思うんけど」 「しねえよ。怒るなんてコスパ悪いこと」 「あっはっは。なるほどね」 「それに、せっかくお前が言いずらいと思いながらも話してくれたんだ。ぞんざいには扱いたくない……」  雪林はきょっとんと驚いたような表情を見せたかと思うと、いつもよりも含みのある笑顔をみせる。 「今の言葉、ポイント3倍ぐらいの価値はあるよ」 「そうかよ。0は何倍しようと0だから、大した意味はないけどな」 「またまためんどくさいこと言って」  冷えた外気とは対照に、体の中が熱くなるの感じる。俺は話題を切り替えようと 「それにしても、さっき皆のことを褒めていたけど、俺に対しては何かないの?」 と質問する。今思うとこれは失敗だった。こんな質問に答えて貰ったら、余計に熱くなる。 「辰也くんの?うーん」 一瞬考えたかと思うと、すぐに元の含みのある笑顔に戻り、 「それは内緒かな」 と、いたずら好きの子供のように答える。 「え、なんで?」 「だって辰也君は捻くれ者だからね。褒めると見せなくなっちゃうでしょ?」 「…それもそうだな」  幸か不幸か、俺は自身の体温を一定に保つことができそうだった。  視界の右側にこちらに向かってくるバスを捉える。雪林が先に乗るバスだ。乗車する雪林は立ち上がると同時に 「ねぇ辰也くん…」 と呟く。そして3歩前進した後、こちらを振り向き、 「私どうすればいいかな?」  まるでそれは、何かをあきらめてしまったかのような声だった。  その直後に彼女の後ろにバスが停車し、ドアが開く。  雪林はせっせと中へ乗り込み、再びこちらを振り向き、 「困らせちゃったかな?」  取り繕うような声でそう言った。 「雪林…  その時、俺と雪林を遮るように、轟音をを鳴らしてドアが閉まる。  ドアが閉まる直前に見えた彼女の目元は、バスの明かりのせいかほのかに赤く染まっているように見えた。  徐々に徐々に左へ加速する雪林の像。だんだんと視界から消えていく彼女の姿をただじっと可能な限り見つめることしか俺にはできなかった。  帰りのバスの中。俺は一人彼女の言葉を思い出す。  「私どうすればいいのかな?」  まったく、あのタイミングで言われて答えられるわけがないだろ。そう思いつつも、胸中では何もできなかったという思いと、罪悪感に似た何かが纏わりつき、釈然としない。  俺はなんて答えればよかったのか。一応は考えるも何も思い浮かばず、どっと一日の疲れが押し寄せてくるのを感じ、俺はそれ以上考えることを止めた。  卒業式。  本日は皆の願いも虚しく、あいにくの天候で、式を開いている体育館の中は外と同じぐらい湿っぽい。  早々に卒業証書を受け取った俺は、自分の席でこれまでの高校生活を振り返っていた。  最初は謎の不安があった電車通学。  3年間一度も優勝はできなかった体育祭。  その年で一番馬鹿になった文化祭。  なんだかんやで早々に決着をつけた大学受験。  そして、負けはしたものの、最後は抱き合って泣いた最後の大会。  辛いことも楽しいこともたくさんあったこの3年間。  やり残したことはないか、後悔はないかと自分に問いかけて、真っ先に思い浮んでしまうのは、やはり、あの日のことだ。 「雪林由香里」  彼女の名前が呼ばれる。  壇上へと上がり、決められた所作で粛々と証書を受け取る様は美しくも何処か寂しげで、何かやりきれなかった思いを今も抱えていることを匂わせる。  壇上から降りるさい、彼女の顔が一瞬見える。その目元はあの日と同じ赤に染まっている。それがせめて喜びからくるものであることを願うのみ。  雪林由香里は優しい女の子である。  彼女はあの時俺に答えを言わせないために、わざとバスが来るギリギリのタイミングで告げたのではないか。そう思う。  彼女は優しいから、自分が解らない答えを他人に求めるなんて無責任なことをすることがきっとできなかったのだ。  だけど彼女は優しいだけで、裏を返せばそれ以外は平凡で、自分の抱えているものを全く他人に漏らさない、そんな殊勝なことは当然のようにできない、一人の弱い人間だった。  雨が降っている。  俺はあのとき何と返せばよかったのだろう?  その答えは未だにわからない。  ただ一つ確信していることがある。  あの日がきっと分水嶺だった。  その妙な確信と苦い後悔がいつまでも俺を湿らせるのであった。
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