夜半

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 時計の針はすでに今日の終わりを告げ、新たな日を刻み始めていた。  もう一歩も動けない。仕事から帰ってきた僕はそんな感じだった。  朝五時に起きて終電間近まで働く、家なんてただ寝る為だけの場所。自分の時間なんて刹那もあるだろうか。  身に着けたスーツを脱ぎ捨てて、部屋着に着替える。あとはベッドにバタンと倒れ明日になって会社に行っての繰り返し。  過度な疲労に生きる意味を忘れる感覚は、悪い心地はしなかった。  けれど疑問はあった。  いつも疑問はあった。  生活の不安や人間関係の不一致、仕事への不満、将来の事、はたまた全部なのだろうか。わからない。自分がどうしているか、何がしたいのか、これからどうなっているくのか。もう、全ての疑問がかすんで見えた、歪んで感じた。  だから―――それを確かめる為に僕は家を出た。  雨上がりの空の下、とぼとぼと地面を歩く。  中履きのまま、ゆらゆらとアスファルトの上を歩く。  行き先は不明、目的は疑問。  財布も鍵も持たずに判然とした気持ちで国道を北上しようと思った。これから暑い季節がやってくるのだから、せめて涼しい所へ行きたかった。  家の前の県道をとりあえず左へ曲がる。街灯の薄汚れた光が僕を照らす。時折、横を自転車が通る。県道を走る自動車は僅か。でもたまに、やかましい音をたてて隣を過ぎ去ってゆく。その音と光に僕は目を背ける。  よく見れば県道の反対側に広場があった。遊具やベンチといった気の利いた物など何もない文字通りの広い場所。学校のグラウンドよりは狭いが公園にしては広い広場は周りを低い塀で囲まれていた。中には芝がひかれていて、雨露で濡れた葉っぱが闇の中頼りなく輝いている。  その広場は今日初めて知ったわけではなかった。買い物に出かける時はいつもその脇を通り、しばし眺める事もあった。  塀を越えて忍び込む。  けれど、今夜のその有様が、どうしようもないくらい僕の目を奪い離さなかった。  柔らかい踏み応えに足へ纏わり付く草の感触。広場の真ん中まで歩いた。  両手を広げても触れるモノはない。住宅がひしめき合う街の中。ただ芝生がひかれただけの場所は途轍もなく広く思えた。  この歳になってそんな事をしていいのだろうか、許されるのだろうか、そもそも誰に許しを願えば良いのだろうか。とまどいや羞恥はあった。けれど少し、ちっぽけな常識というプライドは心の奥でいとも容易く壊れて、僕は童心に帰る。  芝生の上へ腰を下ろし、背中を倒して大の字に寝る。    露出した腕や足、首元や頬に芝の葉がチクチクと刺さり少し痒い。水気を含んだ土が服を湿らせ背中を冷やす。草に抱かれ、そよ風が子守唄を奏でる。  いつからだろう、僕が芝生へ寝転ぶのを止めたのは。思い出せない。なんでこんなに気持ちのいい事をなんで止めてしまったのだろう。  目を開けば見上げずとも空があった。広闊(こうかつ)とした夜空、無数の星。(またた)く光点が創る果てのない天の河は、例えそれが自らの輝きでないとしても美しいと思えた。  そこへ雲が泳いで、鳥が飛んできた。  きっと渡り鳥だろうか。Vの字を描いて羽ばたいていた。どうやら、僕の行きたかった方向へ飛んでいくらしい。上へ上へとどんどん小さくなっていく。  僕は願った。    羽ばたく鳥、僕の見れない空を知っている鳥。もし、君に見えない空があるとするのならばそれを僕は知っている。飛ぶでなく、歩くでなく、空を見る事を僕は知っている。 だからこの気持ち、もう一度出会うまで預かってくれないか。    鳥が彼方へ向かって、翼を広げて飛んでゆく。僕はそれをただただ見送った。願いは言葉にしてしまった時点で、なんだかツマラナイモノになってしまった。  鳥が消えた空、輝く雲が見えた。  雲間から差し込む光は蠱惑(こわく)めいて怪しく、確固たる存在を持っていた。  微力な時間の中で雲が流れる。  おもむろに三日月が姿を現した。  届かないと気付きながらも三日月へ手を伸ばす。掴めそうで掴めない。きっと、そこに距離など存在しないのだ。計り得る溝はないのだから。  だからこそ僕は、人差し指と親指で月の光を捕まえた。今この指の間に三日月は確かに納まっている。僕は確かに三日月を手に入れている。  虚像だ。そう思い、人差し指と親指を合わせて三日月を潰す。  ぷちゅりと音がして簡単に三日月は潰れた。  これは幻聴なのだけれども、可笑しくて。ただ、可笑しくて。  僕は芝生の上でケラケラと声を上げて笑った。
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