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プロローグ
ピシ、とムチの音がなり、馬が嘶く。縦に横に、馬車は激しく揺れながら走る。
ここは、鬱蒼と茂った広い広い森の中。夏だと言うのに空気はひんやりしていて、寒々とした雰囲気を肌に感じる。
揺れる馬車の中で、メアリ・スノウ・キャンドルは縮こまっていた。
(まさかここまで道が悪いとはね……)
王都から舟で七日、そこから更に馬車で半日。
王国の北──最果ての樹海に、キャンドル家の別荘はあった。
別荘といっても、今では全く使われていない、事実上の廃屋である。メアリが小さい頃は毎年夏にこの別荘で過ごしていたが、ある年を境に行かなくなった。以降、別荘はずっとほったからしにされていた。
しかし、この夏、とある事情でメアリはこの別荘に引っ越すことになった。急な引っ越しだったので身の回りの世話をする使用人も連れてこれず、メアリは一人ぼっちで旅立った。
必要最低限の家事はできるとはいえ、初めての一人旅だ。不安で胸がいっぱいのところに、この馬車の揺れはメアリに追い討ちをかける。馬車には乗り慣れているが、こんな酷い揺れは初めてだった。足元も脳天もぐらぐら揺れ、吐き気がこみあげてくる。揺れる視界の中、メアリは必死で荷物にしがみついた。ただひたすら、早く到着することを願った。
どれだけ経っただろうか。馬車の速度が落ちてきて、やがて止まった。
「お嬢さん、着いたよ」
ダミ声の馭者が言った。メアリは身体を引きずるようにして馬車から出た。馭者は荷物を乱暴に置き、メアリが賃金を払うと、土煙を上げてさっさと帰っていった。
壊れた門の向こう、木々に埋もれるようにして、キャンドル家の別荘が建っている。
建物は左右対称である。赤レンガの壁には蔦が這い、庭は荒れ放題だ。窓は全て鎧戸が閉じられている。屋根は森と同じ緑色だが、長年の風雨でだいぶ色褪せている。
メアリは草を踏み倒して青い扉の玄関へ向かい、重々しい両開きの扉に鍵を差しこむ。鍵穴は錆びついていたが、なんとか開いた。
出迎えたのは、がらんとした玄関ホール。床には埃が分厚くたまり、かつて絵画が飾られていた白い壁は色あせている。窓から差し込む光は薄暗く、空気はカビ臭くむっとしている。しかし、幸いにも大きな損壊はない。これなら掃除すれば住めそうだ。
メアリはまず東棟に入った。鎧戸の隙間から入る光が埃をキラキラと輝かせ、廊下に霧がかかっているように見える。
メアリは手前から順番に扉を開けていった。応接間、居間、食堂、そして音楽室。どの部屋も当時の家具がそのまま残っている。かつての光景がメアリの脳裏に蘇る。居間では家族みんなでおしゃべりをし、食堂ではご飯を食べた。音楽室はこの別荘で一番広い場所だ。ここでメアリはバイオリンをずっと練習していたものだ。
音楽室まで行くと、メアリは玄関ホールまで戻った。今度は西棟に行く。こちらは使用人の部屋が四部屋と台所がある。メアリは使用人とよく遊んでもらっていた。同じ年頃の友人が周りにいないメアリには、使用人はとても良い遊び相手だった。
階段を上り、二階へ行く。廊下の窓から外を見る。何百年もの時を経た暗い森がずっと遠くまで続いている。
二階は東側が手前から順に遊戯室、客室、物置となっている。西側は書斎、両親の部屋、メアリの部屋だ。メアリはまっすぐ自分の部屋へ向かった。分厚い埃が床にも棚にもベッドにもたまっている。
メアリは持ってきたボロ布で軽くベッドやその周りの埃を取った。それから苦労してかばんを部屋に運び、荷ほどきをする。衣服が数着、数ヶ月食べていけるだけのお金。
そして、バイオリン。
「……やっぱり、持ってくるべきではなかったかしら」
メアリは開いた楽器カバンをまた閉じた。今日はもうクタクタだ。埃まみれのベッドに横たわると、すぐにまぶたが落ちる。あっという間に眠りの底へ落ちていった。
メアリは、目を覚ました。
──寒い。
異様な寒さだ。夏なのに、真冬の雪原にいるかのようだ。北の果てだとはいえ、こんなに寒いのはいくら何でもおかしい。
(居間の暖炉で温まらないと。薪は少し残っていたはず)
メアリは起きあがり、部屋を出た。廊下はまた一段と冷えている。鳥肌が立った腕をこすりながら、メアリは階段を下り、居間のドアを開けた。
一人で過ごすには広すぎる部屋。窓から青白い月光が差し込み、暖炉を照らす。
その暖炉の前に、人が立っていた。
驚きのあまり、メアリは声も出せず、その場に棒立ちになる。人影はゆらりと振り向き、メアリを見た。
否、人ではない。
それは、黒いフードを被った骸骨だった。
目の窪みに、赤い宝石のような炎が揺らめいている。
「やあ、メアリ。こんばんは。今から君の部屋に行こうとしていたんだよ。僕はハリー。死神のハリー。覚えてるかな? 今夜は──」
メアリの顔から血の気がどんどん引いていく。
「あ、あ、あ」
メアリは口をパクパクさせた後、
「ああー!」
半狂乱になって、部屋を飛び出した。転びそうになりながら階段を駆け上がり、部屋へ戻ってベッドへ潜り、目を瞑る。
(あんなの、夢か幻よ。疲れてるから変なものを見たんだわ。早く寝てしまわないと)
自分自身にそう言い聞かせる。しかし心臓がバクバク音を立てて、中々眠れない。
部屋の外から、ギシ、ギシ、と床板の音が聞こえてくる。だんだん、音は大きくなってくる。
部屋の扉がノックされ、開いた。冷気が入りこんでくる。
「驚かせちゃってごめんね」
メアリは耳を塞いだ。化け物の言葉に答えては駄目だ。
「今夜ここに来たのはね、メアリ、君を迎えに来たんだ」
迎えに来た? 死神が?
それはつまり、死ぬ、ということだ。
「おいで、メアリ。もう結婚式の準備、出来てるよ」
「──は?」
思わず、メアリの口から声が漏れた。布団から顔をそうっと出す。
骸骨は赤く燃える瞳で、メアリを見下ろしている。
「今、なんて?」
「だから結婚式だよ。早く行こう、僕のお嫁さん」
耳がおかしくなったのだろうか。それとも悪夢を見ているのだろうか。メアリには判断がつかない。
「あの、お嫁さんって何の話?」
「えー? 覚えてないのかい? 十年前に約束したじゃないか。ほら」
死神はマントの裾の中から一枚の紙を取り出し、メアリに渡した。メアリは窓辺に近づき、月明かりを頼りにそれを読む。
『わたし、メアリ・スノウ・キャンドルは死神のハリーとけっこんします!』
紙を持つ手がプルプルと震えだす。
「何なの、一体いつ書いたの、これ」
「ちょうど十年前だよ」
メアリは手紙を床に叩きつけた。
「十年前ですって! 私が八歳の時じゃない! そんな歳の子どもに結婚の意味なんて分かるわけないでしょう! 大体私、貴方みたいな骸骨なんか会ったことなんかないわ!」
「でも、約束は約束。絶対のものだよ」
メアリの怒声を、死神ハリーはそよ風のように流す。
「貴方ねえ、ふざけてるの? こんなの無効よ!」
「ふざけてなんかないよ。僕は君を本当に愛している。永遠に大切にする」
メアリは肩で息をしながら、ハリーを睨みつける。
「出ていって」
「いやだ。この家から出るのは君だよ。君は僕の家に来るんだ」
「そんなの嫌よ。ここが好きだもの」
「嘘ばっかり!」
カタカタと歯を鳴らす。これは笑っているのだ。メアリは直感でそう解釈した。
「ねえ、聞いてよ。僕の住んでる場所では、病気も怪我も不幸もない。本物の楽園さ。ずっとずっと何不自由なく幸せに暮らしていける所なんだ。そんなに怖がらなくて良いんだよ」
「それこそ嘘よ」
「本当本当。嘘なんかつかないよ、僕は」
さあ、おいで。
右手をすっと差し出すハリー。メアリの気持ちを慮る気は全くないようだ。
(嫌よ! 死にたくない!)
メアリは必死で断るセリフを考える。
「で、で、でも、いきなりお嫁に来いなんて無茶よ。私、貴方のこと全然知らないわ」
必死の形相で言ったメアリの言葉を聞き、死神は顎に手を当てた。
「ふむ。言われてみればそうだね」
「私、知らない人のお嫁に行くのはとても怖いわ。諦めてくれない?」
メアリは貴族社会で培ってきた渾身の甘い声と笑顔でお願いする。
「分かった。確かに、僕もメアリのことは全て知っているわけではないからね」
「ええ、そうね」
「明日から七日間、僕がここに住むよ」
「ええ、そう──うん?」
「うん、これは名案だ!」
唖然としているメアリの前で、死神はポンと両手を叩いた。
「僕がここで明日から七日間住んで、お互いに親睦を深めよう。そうすれば、メアリも安心して僕と共に歩めるものね」
メアリの顔が青ざめる。
「な、七日? 七日はちょっと短すぎるんじゃ……」
「そんなことないだろう。七日あれば、互いの性格や好き嫌い、趣味とか分かるじゃないか。もっと細かく深いことは向こうへ行ってから、理解していこう」
「あ、え、でも」
「ねえ? これでいいよね?」
「……」
メアリは今この死神を追い出すのは無理だと悟った。こうなったらもう、七日間でどうにかして諦めさせるしかない。
「分かったわ。よろしくお願いします」
「よろしく。じゃあ、今日はもうおやすみ」
ハリーは部屋を出て行った。メアリは胸の底から息を吐き出し、床に倒れた。
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