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なぜ執行官の立場であった桜庭が仮死刑を壊そうとする姉の片棒を担いだのか。仮死刑に否定的だったのは間違いないが、それが加担した理由のすべてとはならない。彼の中にある何かが基盤となり、その上に仮死刑に対する嫌悪が存在した。
その何かは、やはり桜庭の子ども時代に回帰する。
「なあ桜庭」高坂は優しく語りかけた。「お前はずっと孤独を恐れていたんだな」
それが桜庭が広沢と結託した動機の根幹にあるものの正体であり、虐待していたであろう父親を拒絶しない要因だ。
桜庭から是非の返答はないが、大袈裟なまでに唾を飲み込む反応が高坂の言葉を間違いではないと表していた。
本来、子どもは差別なく親から無償の愛情を授かるべき存在なのだ。だが、現実は必ずしもすべての子どもが平等に親から無償の愛情を施されているわけではない。条件付きの愛情を注ぐ親もいれば、子へ愛を一切注がない冷酷な親も一定数存在する。
人は子ども時代に愛着形成を経て、アイデンティティともいえる様々な愛着スタイルを獲得する。愛着スタイルが身に付けば、それは人格の土台となる。安定かつ充分な愛情を注がれた子どもは将来の対人関係スキルで苦労せずに済む。しかし不安定かつ不充分な愛情しか授かれなかった子どもが、そうなれるとは限らない。死に至る病とも呼ばれる「愛着障害」を引き起こす可能性がある。
桜庭が父親から条件付きの愛情を授かっていたのか、あるいは愛そのものがない父親と長年暮らしていたのかは当事者しか知らない。どちらにせよ桜庭が児相へ通報されたような父親を擁護するのは、父親に見捨てられたくないという強い思いがあるからだ。父親が子ども時代の桜庭によからぬことばかり吹き込んで「片親引き離し症候群」という状況に陥れる洗脳虐待を行なっていた可能性もある。そうして外界との隔絶を完成させ、父親と二人暮らしの環境下──いくら酷な仕打ちを受けようと幼い子どもがそんな親にしか縋れないのは想像するのに難くない。
歪な愛着スタイルを築いた桜庭が父親を拒絶できない理由はここにある。拒絶してしまえば独りになってしまう結果を恐れていたのもあるが、それだけではない。
前述の通り、愛着スタイルは言わばアイデンティティでもあるのだ。父親を拒めば自分らしさを失うと同義であり、自己否定に直結する。
だから桜庭の心の奥底には、独りにはなりたくない気持ちが絶えずあっただろう。拒絶されるのを恐れ、物事に対する姿勢はどの場面においても受け身になりがちになってしまう。必然的に消極的な性格となる。子ども時代に負った心の傷が大人になっても癒えないのは、こういった仕組みが背景にあるからだ。長い年月が経とうとも、幼少期の出来事と成長後の人格は無関係ではない。
そして桜庭が十八歳のとき、大きな局面を迎えることになった。
五年前の父親との死別だ。桜庭を支配していた父の不在によって、桜庭は孤独になった。皮肉な話だが、桜庭の精神を支えていたのは父親でもあったのだから、急な支えの喪失は彼の精神に大きな打撃を与えたはずだ。少なくとも、高坂の想像が及ばないくらいに。
高坂は再び腕時計を見やった。面会時間が残り半分になったのを確認し、視線を桜庭へ戻すと彼の口元が僅かに動いた。
「……姉さんは僕にとっての救世主なんです」
「救世主?」
「父の葬儀で十二年ぶりに会ったのに、長いあいだ独りにしてごめんねって泣いて謝りながら僕を抱きしめてくれた。それがどれほど僕に安心感を与えてくれたか、高坂さんには理解できないでしょう」
父親の葬儀の時点で二人は再び接点を持つようになっていたのか。高坂の予想よりもだいぶ早い再会だったが、おかしな話ではない。
しかし桜庭の言うとおりであれば、五年前の葬儀の時点の広沢は殺人を企図する人柄にはとても聞こえない。まっとうな家族であり、立派な姉の姿だ。まだその頃は三年後の自分に何が待ち構えているのか、広沢と桜庭には予想もできなかっただろう。
広沢の人生が狂い始めた時期を遡っていくと突き当たるのは二年と三ヶ月前──婚約者であった横井ヒロが広沢の実母を殺害した、五月の運命の日──か、九ヶ月前──横浜駅通り魔事件で横井ヒロの身元が世に広まってしまった日──の二か所だ。
二年前と言えば、仮死刑制度が施行されて一年が経過したくらいで、人員不足の更生局は超過勤務が日常だった。高坂も激動の渦の中、様々な仮死刑囚を担当していた。高坂は誰一人として例外なく仮死刑囚の語る言葉に耳を傾け、彼らにとって最期に本音の言葉を交わした人となった。皆一様に記憶を失うことを恐れていたが、過去と離別して新たに善き人生を迎えられるかもしれないという待望も同時に抱いていた。
「──そう、僕の理解者は姉さんだけだった」ふと思い出したように桜庭が言った。「仮死刑なんて気持ちが悪い制度、姉さんは僕に理解を示してくれた」
このまま喋らせようと高坂は思って口を閉じた。
「自分が自分じゃなくなる。他人の手によって自己同一性を強制的に剥奪されるシステム……想像しただけで吐き気がした」
父親を拒むことで自己否定につながることを恐れていた桜庭にとって、仮死刑制度という更生装置はギロチンよりも恐ろしいものに見えたのだろう。
「どんなに歪んでいようとも、どれだけ異端であろうとも、親から受けた愛情は唯一無二でしょう? たった一度きりの人生なのに、その唯一を仮死刑は根こそぎ奪いとる。そんな悪魔的な制度が施行されるって知って、本当に、本当に本当に、気持ちが悪かった」
待てよ、と高坂は思った。
広沢が横井ヒロに母を殺害されたのは二年と三ヶ月前。
仮死刑制度が施行されたのは三年前の四月。
もしや仮死刑の崩壊を企んだ今回の甦人殺しの発端は広沢ではなく、桜庭だったのか?
本当にそうであれば、桜庭は正犯と見なされて量刑に著しい影響を与えかねない。
──ここが分岐点だ。
高坂は気を引き締めた。
「そうだったのか」高坂は理解を示すように言った。「桜庭は姉と父親……家族を大切に思っていたんだな」
「だから訂正してください。さっき、父を侮辱したことを」桜庭の目には怒りがうかがえた。
「……そう、だな。意図していないことだったにしろ、俺が迂闊だった。申し訳ない」
高坂は視線を下に向け──すぐに桜庭へ戻した。
「だが、それでもお前の父は間違っている」
桜庭は呆気に取られたように一瞬遅れて険しい顔つきになった。
「僕を、父を馬鹿にしてるんですか?」
「いいや」高坂は首を振った。「前提として、間違ってない親なんてこの世のどこにもいない。誰しもがどこかしらで間違っている。教育の仕方であったり、愛情の与え方であったり、家庭の方針であったりな。完璧な親は存在しえない。親以前の問題に、人間としてごく当たり前だからだ。間違えない人はいないって言うだろう? 俺も一児の父だけど、ここ最近で家族を危ない目に晒した。それは俺が間違ったからだ。俺が選択を間違えなければ、家族を無駄に危険な目に遭わせることなんてなかったかもしれない。桜庭の父さんだって、間違えていたんだ」
桜庭が唇を戦慄かせているが、高坂は続けた。
「間違えていたことは、しようがない。でも、それを正しいと誤って認めてしまうことはよくない。その錯誤はどこかで是正しなければならない。
正しいってのはマラソンに例えられるって前に吉野が言っていた。理想とされるゴールを目標に、みんなそれぞれの道筋を辿っていく。その正しくあろうとする姿勢こそが、正しいってやつの本質なのではないかって。
その通りだなって俺は思うよ。誰もスタート地点に戻ろうとはしないからな。時には停滞してしまうこともあるし、道を間違ってしまうこともある。けれど、そこでずっと足踏みしていることを果たして正しいと言えるか?」
「なんですか、なんですか! 今さら道徳の授業ですか!?」桜庭は仕切り台に拳を叩きつけた。「それを言うなら、仮死刑そのものが間違ってるじゃないですか! 間違った家庭環境で育った人が、将来間違った行動を取るのはごく自然なことじゃないですか! なのに、それだけでアイデンティティを殺して更生させようなんて傲慢にも程があるでしょう! 僕が仮死刑は正しいのかって高坂さんに訊ねたとき、あなたは正しいと信じてるって言いましたよね? なら、あなたも傲慢だし、間違ってるじゃないですか! 根拠? 数字? そんなものばっかりあてにしてるから、自分が間違ってることに気づかないんですよ!」
「桜庭は仮死刑が正しくないと考えてるんだな」高坂は平静と理解に努めた。
「そんな話、今さらでしょう」
「ああ。そうだな。俺が馬鹿で、もしかしたらそうなのかもしれない」高坂は軽く肯いた。「でも桜庭、俺は今仮死刑が間違ってるか間違っていないかの話はしてるつもりはないぞ?」
「はあ?」
「俺は桜庭の話をしているんだ」高坂は表情を柔らかくさせた。
一方の桜庭は高坂をキッと睨み、警戒心を強めた。
「……そうやって、自分の十八番に引きずり込もうって腹ですか?」
「いや。桜庭について、ちょっと気にかかってることがあるんだ」
「……僕?」
うん、と高坂は肯いた。
「桜庭は父親が好きだったのか?」
一瞬の間があって、
「当たり前じゃないですか。自分の親なんですから」
「そうか。じゃあ、父親が間違っていたとは──」
「父は間違ってません」桜庭は高坂の言葉に被せた。「高坂さんの言ったように、親は誰でも間違えるのなら、それはもはや間違いも正しいうちの範疇じゃないんですか」
「父親の在り方は、正しかった?」
「父は正しかったです」
「……わかった」
桜庭の中で父親が鍵となっていることを再確認して、高坂は続けた。
「そういえば、さっき藤原少年のことを覚えてるって言ったよな?」
桜庭は答えなかったが、他でもない彼の口から出たのだ。覚えていることは認めざるを得ないだろう。
「俺が桜庭のことで、ずっと気にかかってるのはそこなんだ」
「……何がですか」
なあ桜庭、と高坂は数分前と同じ語りかけをした。
「どうしてあの日、桜庭は途中で退室したんだ?」
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