終章 side 高坂一良

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 高坂は今でも覚えている。  藤原翔太の仮死刑執行が始まって、すぐに桜庭は高坂と吉野の背後でふらふらと倒れた。貧血でも起こしたかのような、意識はあるけど冗談みたいな倒れ方だった。その後、吉野に引きずられるようにして退室していった。藤原の仮死刑執行に桜庭の同行が決定したときから、高坂は新人が気分を悪くしないか懸念していた。実際に桜庭が卒倒したのは驚いたが、犯行の記憶を視るのは新人ならショッキングだからしかたがない、と何となくで済ませてしまった。  だが、今はどうにもそこが引っかかった。 「どうしてあの日、桜庭は途中で退室したんだ?」高坂は同じ質問をした。  それは、それは、と桜庭は繰り返しながら返答に窮していた。 「──視たくなかったんじゃないのか?」高坂は単刀直入に訊ねた。  桜庭の背後の警察官が高坂に腕時計のジェスチャーをした。高坂は小さく肯いた。  藤原翔太の仮死刑執行直前、高坂は彼に溜まった本音を吐き出させた。殺してしまった兄はどんな人間だったのか、本当は兄にどうしてほしかったのか。無意識に被せていた本音の蓋を開けさせた。  藤原が語った中で、父親に関する話も出ていた。父親から理不尽な暴力を受けていたこと、父親には優しくしてほしかったとも言っていた。  桜庭も藤原の話を聞いていたはずだ。  藤原の話を耳にして、桜庭はどのように思っただろうか。  おそらく、自分の過去と重ねていたに違いない。  そして仮死刑執行の途中で倒れたのは、あくまでだ。藤原の話を聞いた時点で、卒倒して退室するのを予定していたのかもしれない。  なぜなら、視たくない──思い出したくないから。  高坂だけでなく更生教育に携わる人間が、受刑者にまず小さい頃の話を語らせるのは幼少期の出来事を思い出させるのが目的だからだ。特にLB指標(更生不可能という意味合い)の刑事施設にいる受刑者たちは、幼少期の記憶を思い出したくない傾向にある。つらい体験が記憶の割合を占めているからだ。多くの受刑者たちは外部から促されないと過去を顧みようとしない。幼少期の記憶が苦しくつらいものと無意識のうちに自覚しているから。つらい体験の想起は自傷行為と似ている。誰だって嫌な記憶を掘り返したくないものだ。  しかし彼らを更生させるには思い出せる必要がある。  顧みない限り、省みることはできないのだ。  桜庭にも同じことが言える。彼は父が正しかったとしながら、過去を思い出させることを避けた。  すなわち、彼は無自覚に自覚している。気づいていながら、見て見ぬふりしている。父が、自分にしたの残酷さを。父が、間違っていたことを。  でも父の誤りを認めてしまえば、最も恐れている自己否定や愛着スタイル(アイデンティティ)の喪失となってしまう。そうすると、彼は完全な孤独に陥ってしまう。だから目を背けるために、あの日、途中退室した。 「桜庭。父親を全否定する必要はない。父親の正しかったところはそのまま受け入れ、間違っていたところだけ否定するんだ」  桜庭を変えるには、父親を否定させなければいけない。  そこが最難関であることは言うまでもない。 「…………めて」桜庭は俯きながら頭を抱えた。 「桜庭。お前が必要としてくれるなら、俺は手を差し伸べる」 「………やめて」桜庭の声は震え、掠れている。 「桜庭──」 「もう、やめてくれっ!」  桜庭の叫びが面会室に響き、残響が消えたところで警察官が「時間です」と告げた。桜庭を立ち上がらせ、後ろ手に手錠した。二人は入室してきたとき以上に緩慢な動きで退出していく。 「俺は何度も面会に来るよ、桜庭。お前は独りじゃない」  返事は、なかった。      *  八月中、高坂は桜庭との面会申し立てを一〇回以上も行うも、すべて拒否された。  こればかりはどうしようもないだろう、と岩上管理官に諭されるも高坂は諦めなかった。  桜庭は八月中に東京地検に起訴された。殺人予備罪、秘密漏示罪、背任罪などの複数の罪で起訴され、併合罪は免れられない。広沢と桜庭、百崎と庄篠の家宅捜索が行われた結果、広沢が桜庭と甦人殺しについて連絡していた証拠が見つかった。それが百崎香里に甦人の殺害を教唆した証拠の裏付けとなり、桜庭も正犯として殺人罪が適用される可能性が極めて高かった。裁判は早くとも十月以降になる見込みだろう。  仮死刑制度が桜庭に適用されるかどうかは、今のところわからない。
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