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久礼野さんの赤いブラジャー
あたしは傘もささずに学校を飛び出した。
何が星座占い1位だ。何がラッキーカラーは赤だ。ふざけんな。先生には授業で当てられて恥をかかされたし、体操服は忘れていたし、お母さんが作ってくれたお弁当は気分が悪くて半分も食べられなかった。
最悪だ。
雨を吸いこんだセーラー服は重たく肩にのしかかってきて、あたしの自由を奪う。紺色のプリーツは足にまとわりついて何度もこけそうになったし、靴だって水が入って変な音がする。
あたしの世界は灰色だ。
「おえ。気持ち悪い」
さびれた商店街、なにを売ってたんだかもう分からないシャッターの閉まった店の前で、あたしはへたりこんだ。
今日はどしゃぶりの雨。
やまない雨。
雨、雨、雨。
ここ一週間、ずーっと雨。
「ちくしょう地球め。灰色ばっかり見せやがって。たまには晴天見せやがれ」
うらみの言葉を吐いてみた。
だからって雨は急にやまない。けれど、あたしは存外すっきりして、ちょっとだけ気分が良くなる。
人って単純だ。
ざまあ。いい気味。バカタレちくしょう。
やけくそで言ってみるとどんどん調子が良くなって、おかしくて笑いが止まらなくなる。
とうとうお腹を抱えて笑いながら、くそやろう、とか地球は真っ平、とか罵倒をまき散らしていると。
「地球にキレてる人、初めて、見た」
「……は」
いつからいたのだろう。
隣に、あたしとおんなじセーラー服を着た、背の高い女の子が、荒い息をはあはあとつきながら、そこに立っていた。
雨の中を走ってきたのだろう。
雨に打たれてどこもかしこもぐしょぐしょの、長い黒髪を乱した女の子は、黒い瞳をつい、とあたしに寄せ、ちょっとだけ小首を傾げて、くすくすと笑っていた。
かーっと身体中が熱くなる。
心臓が音を立ててひっくり返る。
見られた。
聞かれた。
え、なに。いつからいたの。この子。
「久礼野さん」
おんなじクラスの久礼野さん。
物静かで、引っ込み思案で、教室の隅っこでいつも本を読んでいる久礼野さん。あたし達が笑っている時も、彼氏の話とか、恋愛の話で盛り上がっている時も、いつも無表情で窓の外をぼんやりと見つめている久礼野さん。
何が楽しくて毎日学校に来てるんだろうって思うほど、笑わない久礼野さん。
そんな久礼野さんが。
あたしを、見ている。
にっこりと、笑って。
あたしを、見ている。
雨の音が遠くに聞こえる。
久礼野さんの髪から、ぽらち、ぽちらと水滴が落ちて、コンクリートに灰色の染みを作っている。
肩で息をしているから、水滴が汗なのか、雨なのかは分からない。
でもなぜか、水が落ちる様子が、あたしにはひどくスローに見えた。
「よかった。追いついた」
「えっ。なんで久礼野さん濡れてるの? 傘、持ってなかった?」
「あ、あの、これ」
久礼野さんのぐしょぐしょのスクールかばんから出てきたのは、小さな真っ白色の折り畳み傘だった。
差し出す手は、指先が白く、ぶるぶると震えている。
久礼野さんはとても無口だ。
いつもは、あたしが喋りかけても恥ずかしそうにうつむいて、会話になったことがない。
今、初めて会話が成立しているのに。
なんであたしに傘を貸してくれるんだろう。
あたしは訳が分からなくて、まじまじと久礼野さんを見た。
久礼野さんの唇はちょっと青みがかって、紺色のえりは、久礼野さんの細い肩に、ずっしり重たくのしかかっている。
それから。
白い夏服は、彼女のふっくらと膨らんだ胸にはりついて。
雨に濡れて、透けていた。
「……あっ」
思わず、小さな声が出た。
赤い。
赤い、レースの下着が、制服の下に、透けて見えた。
鮮やかな赤。
意外だ。
あの地味な久礼野さんが、こんなにど派手でセクシーなブラジャーをつけてるなんて、思いもしなかった。そもそも制服の下にキャミソールもタンクトップも着ないで、下着のまんま制服着るなんて。
久礼野さんは案外、めんどくさがりなのかもしれない。
それとも、ただの暑がりなのかな。
もいちど久礼野さんの顔を見る。
こんなにまじまじ見ているのに、久礼野さんは気づいてないみたいだ。
だって久礼野さんは。
いつも無表情の久礼野さんは。
透けたブラジャーみたいに真っ赤な顔で、傘を出したまま、うつむいてぶるぶると震えているのだから。
「……」
「……」
「……あ、久礼野さん。ありがとう。でも、久礼野さんが濡れちゃうし、いいよ。濡れるの慣れてんだ。部活とかで走る時とかさ」
「い、いいの」
「いや。でも」
「いいの! あの、使ってほしくって、急いできただけだから!」
ふうん。
久礼野さんって、こんなに大きな声、出せるんだ。
息を切らす久礼野さんの胸は忙しなく上下して、赤いブラジャーが水槽の金魚みたいにゆらゆら揺れている。
久礼野さんの胸は、大きくて。
とても、やわらかそう。
ああ。
馬鹿だなぁ、あたし。
久礼野さんは、親切なだけなのに。
「…………」
「…………」
やまない雨。
灰色の風景はあたしだけを世界から切り取って、置いてけぼりにするような、孤独な気分にさせる。
二人でいるのに孤独だ。
あたしはどうして、孤独だと思うんだろう。
制服が、重たい。
「あっ!」
久礼野さんが、声をあげた。
「えっ?」
「鼻血」
「あっ」
あたしは鼻をあわててこする。
「うげ」
真っ赤だった。
制服の袖が真っ赤になって、血みどろだ。
ちくしょう。
何が星座占い1位だ。
ああ本当に。
「気持ち悪い~」
「だ、大丈夫?」
「ああごめん。だいじょうぶ、だいじょうぶ。今日、気分が悪くて。びっくりしたよね」
そう言うと、いつも無表情のくせに、久礼野さんは心配そうに太い眉を下げた。
「これ、その、良かったら」
久礼野さんのポケットから出てきたのは白いハンカチだった。
とても清楚で、上品だ。
でも、あたしは知っている。
久礼野さんの下着は、女性らしい、赤だ。
「だいじょうぶ」
「でも、その、痛い?」
「全然平気。部活でもよく出るんだ」
「でも、痛そうだよ」
赤いブラジャーが透けた久礼野さんは、やめときゃいいのに、あたしの鼻血を白いハンカチでふいた。
久礼野さんの白いハンカチは、あたしの血でみるみる真っ赤になる。すると久礼野さんは、あたしが何か言う間もなく赤くなったハンカチを急いで自分のポケットの奥底にねじこみ。
それから、何事もなかったかのように、ふいと、やまない雨の風景に視線を移した。
あたしは呆然とする。
「や、やめなよ。汚いよ。洗濯して返すから」
「いいの。気にしないで」
彼女の横顔は、灰色のキャンバスに描いた絵みたいだ。
久礼野さんの大胆な行動に、頬が紅潮するのを感じながら、あたしは灰色のシャッターにもたれかかった。
背中に、金属の冷たさを感じる。
ちょっと、頭が冷静になるのが分かった。
「久礼野さんさぁ、今日、あたしが彼氏にフラれたの、心配してる?」
自分で言って合点がいく。
なるほど。
だからこんなに話しかけてくれるのか。
ということは、クラス全体に広まってるってことだ。
めんどくさい。
バカバカしい。
ほっといてくれ。
別に彼氏でもなかった。
仲の良い男の子とデートしただけだ。
最初は、友達の女の子に彼氏が出来たから、焦っただけだ。
あたしだって、彼氏と仲良くして、みんなと恋愛の話がしたいと、思っただけだ。
あたしが焦って告白して、フラれただけだ。
違う。
本当は、友達に彼氏が出来たのが嫌で嫌でたまらなくて。
本当は、友達が彼氏ばかり構って寂しくて。
本当は、友達に彼氏が出来たから嫉妬して。
本当は、デートの時に、これで普通の女の子みたいになれる、みんなとおんなじになれると思った自分に、ものすごい違和感で、あたしは焦って告白して、男の子にフラれて。
本当は。
あたしは、誰かの、一番にはなれないって、分かってるから。
友達は友達だ。
あたしは、あの子の一番じゃないから。
あたしは、赤いブラジャーなんて、本当は、似合わないんだって、分かってるから。
きっと。
明日学校に行けば友達がなぐさめてくれる。
だいじょうぶ、また、新しい恋を見つければいいよ。
新しい出会いがあるよって。
あんたはかわいいんだからって。
クラスのうわさなんか気にすんなって。
かわいい下着でも探しにいこうよって友達はウインクするんだ。
でもあたしは。
赤いブラジャーなんて、つけたくない。
あたしの恋は赤い下着なんかじゃない。
あたしは、本当は。
本当は。
ああ本当に。
あたしって、気持ち悪い。
「し、心配しちゃいけない? だって、学校、飛び出していったんだもん」
「久礼野さんとあたしって、喋ったことあんまないよね」
「そ、それは、その」
「久礼野さんって、彼氏いるの?」
「いっ、いないよ、そんなの」
「でも、下着はセクシーなんだね」
意地悪なことを言った。
自覚して、言った。
赤いブラジャーをつけられる久礼野さんが、うらやましかったからかもしれない。
やまない雨。
久礼野さんはほんの少し黙っていた。
けれど、ゆっくりと、視線を雨からあたしに戻し、顔を見せる。
久礼野さんは。
顔を赤いブラジャーみたいに真っ赤にして、目をうるませていた。
あたしは、心臓が止まる思いだ。
久礼野さんは、かわいい。
鼻血が出る。
最悪だ。
何がラッキーカラーは赤だよ。
そう思って、滴る鼻血を隠そうとしてうつむいた、その時だった。
「こっ、これっ、お母さんのだからっ!!!」
彼女は、折りたたみ傘をあたしに強引に手渡すと、雨がまだ降っているというのに、屋根の下に、ぱっと飛び出した。
ばしゃり、と水が跳ねる。
久礼野さんのスカートが彼女の白い太ももにはりつく様が、まるで映画のスローモーションのように、えらくゆっくり、きらきらと輝いて見えた。
「明日返してくれたらいいから!!」
「えっ。おか、おかあさん!???」
「透けてるなら言ってくれればいいのに! さ、最近雨続きで下着が乾かなくって、しかたなく……、ひっ、ひどい!」
「ごっ、ごめっ、ちがっ、そうじゃなくって、いや、あ、あたし、あんまりかわいいから鼻血が出たぐらいでっ……」
あ。
あわてて、口がすべった。
「…………」
「…………」
沈黙。
やまない雨。
あたしは何か言わなければと口を動かすけれど、さっきあんなにすべった口からはなんにも言葉が出て来なくって、はくはくと熱い息があふれるだけで。
じっとりと濡れた制服は重たいはずなのに、それをぜーんぶ振っ切って、久礼野さんが軽やかな足取りでくるりとこちらを振り向く方が、早かった。
「鼻血って、久しぶりに見た。ふふ。本当に、赤いのね」
そう言って。
「それじゃあ、明美さん。また明日」
久礼野さんは、にっこり微笑んで、やまない雨の中を、灰色の世界を、浮かれたみたいに、飛び跳ねながら、走り去っていった。
あたしは。
ただ茫然と、久礼野さんの背中に透ける赤いブラジャーを、真っ赤な顔で、見つめることしか出来なかった。
久礼野さんの赤いブラジャー
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