▶回想録◀自分だけ知らない

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変わったことがある。 弟の居場所が家からなくなった。 翌日のこと。 敬が目覚めた時、忠の布団は既に空だった。 大方着替えでも取りにいったのだろう。 昨日の惨状を見て、そのまま掃除でも始めているかもしれない。 (手伝うか) 身支度を整えて向かった先に忠はいなかった。 部屋は割れた花瓶も、裂かれた羽毛もきれいに片付けられていた。 それどころか、何もなくなっていた。 敬は部屋を間違えたのかと外廊下に出るが無論そんなことはない。 文机も、尋常小で使われている教科書も、それらが入ってた風呂敷包みも、忠が飾ってたお気に入りの絵もない。 後ろから押し殺した声で喋りかける者がいた。 「旦那様から、早朝に指示を受けまして……」 慌てて振り向くと今にも泣き出しそうな表情の女中と目が合う。ハルさんだ。 女中の中で一番若く、年は敬とそう変わらない。 そのため忠も親しみやすいのか、頻繁に遊んでもらっている状況を見かけることがある。 「指示って、どうゆう……」 「家の恥晒しだから隠せ、と出してはいけないとおっしゃって」 彼女は目を伏せる。彼女の手が向かい合う敬のさらに奥を指差した。続けて震えて、か細い声で思いを吐き出す。 「助けてください、一人の女中なんかじゃどうにもできないのです」 その時、陶器が割れるような音がした。 敬は振り返る。家の中からでは無かった。 すぐ左手は庭で沓脱石(くつぬぎいし)の上に下駄がおいてある。敬は慌ててそれを履くと庭の奥に向かって走って、すぐに立ち止まった。否、立ちすくんだ。 再び、陶器が割れるような音がした。 目の前の、蔵の中から。嗚咽と怒鳴り声も。 何が起きてるのか分かって、中に入って止めるべきなのも分かっているのに、敬は立ち竦んで体が前に進まなかった。体から汗が噴き出した。 (違う、一番辛いのは中にいる忠だ。止めないと) そう何度も言い聞かせてみるが嫌な汗は止まらず、 心と体が乖離するのを感じる。 どれぐらいそのままだっただろう。 蔵の反対側の扉から草履を踏みしめる音がして人が出ていくのが分かる。 敬はズルズルとその場に座り込んだ。 この庭で数日前まで無邪気な顔で遊んでいた忠の姿が蘇る。 どこでこの家は間違えてしまったのだろう。 違う。敬が気付けなかっただけだ。真の言葉を借りれば こんなのは間違っている。分かってる。 止めれるのが自分しかいないことも。 自分以外、誰も頼れる人が居ないことも。 不意に敬の心中に昨日忠が放った言葉が反芻された。 『庸助さんとは、もう会えないのですか?』 『彼は確かに最後には異形になったのかもしれません。ただ私にとっては……庸助さんというただの陽気で心の優しい人です』 忠が理不尽に閉じ込められるのは、才能が無くて 御三家である自分達の家の格を貶すから。 果たして本当にそれだけだろうか。 そこにはもう一つ、本当はこんな仕事なんて必要ないという真実に近づいてしまったためという理由があるのではないか。 その真実は、忠に第六感なんてなくても良いという自己肯定感を与えてくれる。反対に父親はその立場を失う。 無論、たとえ前者の理由だけだったとしても忠をこんな風に殴って閉じ込め、監禁する理由には絶対にならないのだが。 敬は長く長く息を吐きだし暗い雲の立ち込めた空を見上げる。 けっして天候のせいだけではない、暗鬱な雰囲気が家の中には立ち込めていた。この雰囲気は、きっとなくなることがない。父親が生きていて忠が監禁され続けている限り。 忠を守りたい。父親に勝てる力はない。 「どうすれば良いんだよ……」
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