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幸せな夢を見ていた気がする。
久しぶりにぐっすり眠れたからだろうか。
(兄さま寒くないかな···)
早朝の蔵は寒くて息を吐くと白い靄が出来た。
私は毛布から出ている兄さまの手先を、そっと触る。
思っていたよりも冷たくて驚いた。私は慌てて毛布の自分がかけていた部分を上に乗せようとする。
閉じた目蓋を見て__気が付いた。
その顔があまりにも青白い。悪寒がする。信じられない。信じたくない。
震える手を伸ばして首に手を当てる。
冷たかった。死んでいる。
衝撃が大きすぎて何も思うことが出来なかった。きっとまだ私は夢を見ている。そうに違いない。
「あ···」
その時、地面に一筋の光が写った。
誰かが蔵の扉を開けたのだ。
そこには長身の男がいた。彼は走ってきた後のように息を切らしていて、冬だというのにその額には汗が浮かんでいる。私達を見てさっと表情を凍らせた。
「敬···?」
眠っている兄さまを一目見ると、苦悶に満ちた表情になって駆け寄る。脈拍を確認する動作をとった。
私はその隣にへたり込んでいて、ぼんやりと眺めている。
布団の傍に空瓶が転がっていることに気が付いた。ラベルには『オピオイド』と印字されている。
本で見たことがある、それは睡眠薬の名称だった。
さらに蝋燭の隣には記憶のないコップが置いてあった。私は完全に理解する。
飲んだのだ。兄さまが。
自殺したのだ。
やって来た長身の男も脈拍がないことを悟ったようだ。意外に冷静な様子で、静かに目を閉じる。
その表情からは怒っているのか、絶望しているのか何も感じとることが出来なかった。
(彼は誰?どうして家の者ではない人が、こんな早朝に?)
ただ兄さまの死は全くの不意打ちという訳ではなく、悪い予知夢が当たってしまったかのような様子だった。
「行くぞ。」
突然聞こえた言葉に顔を上げる。
彼の表情は迷いを削ぎ落としたかのように強く、そして私を見つめていた。
「俺の名前は真。分かるか?」
真さんの真剣な表情に気圧され、私は頷く。顔を覚えていた訳ではないが、真という名前は兄さまの口から何度か聞いたことがあった。
「お前の父さん隠してるけどバレバレで、案外ヒステリーじゃん?だから絶対に見つかっちゃいけない。」
「あ···だから、バレないように兄さまのことを隠す?」
真さんは一瞬きょとんとした後大真面目に首をふった。
「敬のことを隠したとて、こんな第六感の強いやつの代役なんて誰が出来るんだよ。そんな才能のある奴いねーよ、残念ながら。」
確かにそうだ。気が動転して全く頭が回ってない。
じゃあ何の話だ。あ、真さんが忍び込んでいることが絶対に見つかってはいけないということか。
勝手に頷きかける私の額に指が刺さる。
真さんが人差し指で私のおでこを指していた。
「今話しているのはお前の話。お前が自分自身の状態をどれくらい把握してるか知らんが、このままだと衰弱死だぞ。そうでなくとも、御三家から転がり落ちることが確定したお前の父さんがどんな行動をとるか正直俺は手に取るように分かる。···
だからばれる前に俺と一緒にいち早く逃げようって話だ!」
私は驚く。そんなこと今まで一度も考えたことがなかった。
彼は立てるか、と逃げることが決定事項のように手を伸ばしてきた。
ふと、何を思ったのか手を引っ込める。屈むと背中を見せてきた。
どうやらおぶるらしい。
もうおんぶされるような歳じゃないので恥ずかしいが、多分彼と同じスピードで走れるかといったら出来ないだろう。鳥が鳴いている。もうすぐ朝日が登る。
諦めて体を彼に乗せた。
外の空気は予想以上に寒くてブルリと震える。彼は正門とも裏口とも違う思ったら、私すら知らなかった
真さんの背中に体重を預けながら私は思い出す。
兄さまが彼の事をよく喋っていた。
『左の目元に黒子があるんだよ、アイツ。泣きぼくろって言うらしいんだけどそれがセクシーだってクラスの女子が騒い出てさ、嘘だろって笑いそうになっちゃったよ。真は真でなんかまんざらでもないって顔してるしさ。』
兄さまの喋ってる声がありありと甦ってきて、私はようやく理解する。急に泣き出したくなった。嗚咽が漏れないよう唇を噛む。
屋敷のあった通りを曲がっても誰も追いかけてくる気配がないのを見て、ようやく真さんは息を吐く。
「ところでお前さ……」
呼び掛けられたので前を見るが、私をおぶっている真さんとは当然目が合わない。
そのまま彼は独り言のように言った。
「死んじゃいそうな位、軽いな」
私は自分を腕を見る。
枯れ枝のようなそれの上に青白い血管が浮かんでいた。
(普通じゃ……なかったんだ。)
世界で一番大切な人を亡くした。
貰ってばかりだった。
私はまだ兄さまに何も返せていない。
もうどうしたら良いのか分からない。
ひどいじゃないか神様。
胸の前で組まれた両手には、すっぽりと小さな手鏡が収まっていた。
これを受け取ったとき、まさか形見になるとは思わなかったのだ。
押し殺すような小さな嗚咽が、人気の無い早朝の道に響いていた。
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