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暫しの静寂を破ったのは下から突き上げるような揺れだった。思わず体のバランスを崩す。築年数が相当経っているであろう洋館は、天井からパラパラと粉塵が落ちてきた。
そうだ何一つ状況は変わっていない。
慌てて体を起こす。
揺れた拍子に私の着物の袂から滑り落ちたものがあった。それを見て私は目を丸くする。
別に身に覚えの無いものが出てきたからではない。
むしろそれは十年以上、肌見放さず持ち歩いていた手鏡だった。
驚いたのは黒い蓋であるはずの部分が、まるで蛍の光のように淡い輝きを放っているのだ。
刹那、部屋の温度が下がった気がした。
背中を悪寒が駆け巡る嫌な感覚がして思わず固まる。フェデ君も同じ感覚がしたのだろう。
周囲を警戒するように見回した彼が引きっつた声を上げた。
「ねぇっ、あれ……」
振り向いた先にいたのはあの重く黒い霧でもメアリーさんでもなかった。
私達と対面する形、窓辺の机のところに痩身の男が立っている。
外で雷が光り、その一瞬男の詳細な姿が見えた。
思わず口元を抑える。
悲鳴と気持ち悪さでえずきそうになる口をなんとか閉じた。
痩身の男、それはシルエットがそう認識出来るだけだ。彼は全くもって人の体を成してなかった。
グズグズに溶解した肌、それらを突き破ってつたう体液。まさに動く腐乱死体。
一歩後ずさったところでフェデ君の肩が触れる。
彼が唾を飲み込む音が嫌に大きく聞こえた。
(逃げなきゃ……)
頭では分かっている。本能が警告を出している。
でも足が動かないのだ。この怪物を前に動くことを拒否している。部屋には腐臭が立ち込めていた。
呼吸が苦しい。上手く吸えないのは腐臭のせいかそれとも恐怖のためか。
溶けた顔の肌、それでもなお笑っていると分かるおぞましい表情。それがゆらりと一歩前に動いた。
恐怖に支配された私は動けない。
ただ固く目をつぶった、その時だった。
足元が急に眩くなる。
それは目を閉じてても感じる、太陽のように圧倒的な光。同時に感じる温かい空気。
その光はほんの二、三秒のことだったろう。私はうっすらと目を開ける。不思議な光景が浮かんでいた。対峙していた腐乱死体は姿を消し、床に落としたはずの手鏡が宙に浮いていた。
驚いて目を開くと、それは物理法則に逆らうことなく落下する。絨毯にぽすり、と音を立てて着地した。静寂が戻った部屋で、私は慌ててそれを拾い上げる。
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