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「の、呪われている?」
私はすっとんきょうな声を上げて振り返る。
「兄ちゃん誰と話してるんだ?」
瞬き一瞬の間に彼女は消えていた。代わりに声をかけてきたのは、無精髭を生やし人のいい笑みを浮かべているおじさんだ。
今泊まっている所の宿主さんである。困ったように眉尻を下げ、はにかんでいる。
「さっきから声をかけてたんだけどもよぉ」
その声色には多少困惑している口調が含まれていて、私は居たたまれない気持ちになった。
苦笑いしつつ目をそらす。困惑したいのはこっちの方だった。先ほどの浮世離れしたメイドに首を傾げるばかりである。
彼には、独りでぶつぶつしゃべる不思議な画家に見えたことだろう。変人だと噂されないことを願う。恥ずかしい。体よく取り繕えるセリフを考えてみるが、こうゆう時に限って頭は働いてくれない。
「大丈夫か?集中し過ぎて疲れたんじゃないか?」
「いえ、大丈夫です。すいません。」
「なんで謝るんだ?」
意味もなく謝るのは日本人の性なので、とは言えず曖昧に微笑む。ここイギリスで、私のようなアジア人にも親しげに接してくれるこの宿主さんはは根っこからの好い人なのだろう。
殴られるんじゃないかとびくびくして自分の意見を口にしない、曖昧に微笑んでばかり、逃げてばかりの暗い私とは大違いだ。
曖昧な微笑みを勝手に何か好意的なものと解釈したらしい。宿主さんは歯茎が見えるほどの笑顔を返してきた。
「じゃあ兄ちゃん、そろそろ夕飯だから戻ってきてな!それを言いに来たんだ」
「はい、わざわざありがとうございます」
着物の裾を動かし、片付け作業をしようと持ってきた小さなトランクを開ける。その拍子に中に入っていた手鏡が、滑り落ちて芝生に転がった。
それはまだ幼少の頃、私の兄さまがくれた手鏡だった。もう十年とお守りのように持ち歩いてる。緩慢な動作で、それを拾い見つめた。
『大丈夫だよ忠。少しでもおかしいと思ったらこの鏡で見てみるんだ。きっと忠なら上手くやれる』
「ねぇ兄さま。人生、いつになったら上手くやれるようになりますか」
あの頃の面影に向かってポツリと呟く。そして痛いほど唇を噛み締めた。そうやって痛めつけることで、少しだけ許される気がする。最近ずっと絵に没頭していて思い出すこともなかった悪い癖だ。昔の事を思い出すと耐えがたい孤独感に支配されそうになる。
頭を振って、これでもかという位の勢いでトランクを閉じた。軋むような音がしたが多分大丈夫だ。
「忘れましょう! 飯ですよ飯! 私の大好きなご飯!」
ネガティブに引っ張られてる自分に気付き、無理に明るい声を出した。荷物を持つと森に背を向ける。
『過去に思いを馳せるには人生はあまりにも短い。後悔ほどムダな時間はない』
あの人が、最後に言ってくれた言葉だ。その通りに生きていくと決めた。
悠長に後ろを見つめる暇があったら私は一作でも多く世に認められる作品を作り出さなければならない。
それが、愛される唯一の方法だから。
画材の入ったトランクを持つ手が、震えている事に気が付いた。決意を込めてギュッっと強く握り直す。
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