雨の図書館

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雨の図書館

 月曜日。  その日は朝から暗かったけれど、仕事が終わって電車を乗り継ぎ、自宅近くまで通っているバスを降りた頃には、あたりは真っ暗だった。  ――いつも街灯、こんなに暗かったかな。  そんなことが気になりだすと、何だか急に怖さがこみあげてくる。雨が跳ねるのも構わずに、私の足は速まった。 「おかしいな……」  ぎゅっと握りしめた傘に隠れるようにしてたどり着いた近所の公園。  遊具も何もない、木が生えているだけの場所を通っていけば近道のはずなのに、出口に全然たどり着かない。振り向けば、そこは塀に囲まれた、先の見えない長い道。 「えっ、なんで!?」  少し戻ってみても、全然景色は変わらない。パニックで泣きたくなるのをこらえ、再び前を向く。  いつの間にか公園の景色は消え、そっちにも長い道が続いていた。その先に、明かりが見える。  何もないよりはマシだった。私は意を決し、強さを増した雨の中、光へと向かって進む。 「雨の図書館……?」  たどり着いた場所には、そう書いてあった。どう考えてもおかしな状況だが、あまりにも普通なその建物に、ホッとしたものを感じる。  自動ドアを通り、そこにあった傘立てへと傘を入れる。中はあまり広くない。図書館というよりは、小さな本屋さんという印象だった。少し低めの木の本棚が規則正しく並び、白い壁には水色の傘と水滴のマークが描かれている。 「こんにちは」  急にした声に、びくりと振り向く。部屋の隅にあったカウンターに、女の人が座っていた。髪もまつげも長い綺麗な人だったが、こちらを見ているようでいて、どこか遠くを見ているような視線が少し不気味だった。 「こ、こんにちは……こんなところに、図書館があったなんて知りませんでした」 「雨の図書館ですから」  我ながら間抜けな第一声だなと思っていたら、よく分からない答えが返ってきた。 「ええと……雨の図書館だから、雨の日しかやっていない、とか?」 「雨の図書館ですからね。雨の日には迷い込んで来られる方もいらっしゃいます」 「そうです! 迷い込んで……私、公園を通ってたと思ったら、ここに来ちゃったんです。水月町に帰りたいんですけど、どうやって帰ったらいいんでしょうか?」 「ここから出れば帰れると思いますよ」  そう言ったきり、司書さんは興味をなくしたかのように伏せてあった本を手に取り、目を落とす。  それ以上話しかけづらくなった私は、心を落ち着かせるためにも、店内の本を見てみることにした。 「雨の街かど、きまぐれな雨、雨模様の憂鬱……」  さすが雨の図書館を名乗るだけあり、雨という文字がずらりと並ぶ。小説、詩、画集や漫画もあった。でも、どの本にも作者や出版社の名前はない。自費出版にしたって、多少の情報はありそうなものだけど。  小さな店内だから、すぐに最後の棚までやってくる。そこで、足が止まった。  きっちり埋まっていた本棚の一箇所だけ隙間がある。そこには本の代わりに『貸出中』と書かれた紙が挟まっていた。何の本だろう。『や』の項目だった。  その時、店内にチャイムの音が流れる。 「お客様」  何事かと身構えている私に、司書さんが声をかけて来た。 「そろそろ雨が止むようですので、お帰りになった方がよろしいかと」 「――もしかして、止んだら帰れなくなるとかですか?」 「雨の図書館ですので」 「帰ります帰ります! お邪魔しました!」  私は言って頭を下げると、傘をひっつかみ、急いで外へと出る。  気がついたら、そこは公園だった。雨は止み、空には月が出ていた。  ◇  異変に気付いたのは、土曜日のことだった。  梅雨の中休みということで、3日前から全国的に晴れ。でも、水月町だけは別。職場では晴れていたのに、自宅に戻ると、しとしとと雨が降っている……そんな状態が続いていた。  相変わらず止む気配すら見せない雨を、部屋の窓から眺めていて思う。雨の日しか現れない、雨の図書館。一つだけあった貸出中の本。この異変に結び付けるのは、考えすぎなのだろうか。  『や』の棚だった。どんなタイトルだったんだろう。たとえば――『やまない雨』とか。  うじうじ悩んでいても仕方がない。私はとにかく家を出て、あの公園へと向かう。関係ないならたどり着かない、でも関係あるならたどり着く。そんな気がしていた。  念のため、月曜の時と同じようにバス停から始める。誰もいない公園を眺めて、深呼吸。それから早足で歩き出せば、いつの間にか目の前には図書館があった。 「こんにちは」  司書さんはあの時と同じように言う。 「こんにちは」  私はそのまま『や』の棚を確認しに行った。あの本は、まだ貸出中になっている。 「すみません。ここにある貸出中の本って……」 「ああ、『やまない雨』ですね。返却日を過ぎていますが、戻ってきておりません」 「返却日っていつだったんですか?」 「6月24日ですね」  背中がぞわっとした。ちょうど3日前だ。 「本が帰ってこないせいで、雨が止まないなんてこと……あったりします?」 「『通り雨』とか『雨音』なら良かったんですけどね。やまない雨の本ですから」 「それなら早く返してもらわないと! 誰が借りたんです? 水月町の人ですか?」 「部外者の方に個人情報をお教えすることは出来かねます」 「電話したらどうですか?」 「そのような機器は設置されておりません。雨の図書館は、雨の中迷い込むものですので」 「じゃあどうやって返してもらうんです? 司書さんが直接家まで取りにいくんですか?」 「雨の図書館の司書は、雨の図書館の中にいるから、雨の図書館の司書なのです」  まどろっこしいが、ともかく図書館から彼女は出ないということなのだろう。そもそもカウンターから出て来たところもまだ見ていない。 「それでは……私を一時的に雇ってもらうことって出来ませんか? お給料とかそういうのは一切いらないので! ちょっとお手伝いがしたいだけなので」  自分でも無茶を言うなと思ったものの、雨の原因が本ならば、このままにはしておけない。  意気込む私を見て、司書さんが返してきた答えは意外なものだった。 「臨時職員ですね。可能ですよ。このバッジをおつけください」  そして、水滴マークのバッジを渡される。それをシャツの胸元に留めると、司書さんは『やまない雨』を借りた人の情報を見せてくれた。『美浦まゆ』と書かれている。 「え、名前だけ?」 「ええ」 「どんな人だったかくらい、覚えてませんか?」 「小学生でした」 「どこの学校かとかは?」 「さぁ」  司書さんは明らかに読書に戻りたそうな顔をしている。それにしてもあまりにも手掛かりが少ない。 「これだけの情報で、どうやって探せばいいんですか? やっぱり本人が返しに来るのを待つ以外にないとか?」 「ここを出れば、その方のお家につくと思いますけど」 「は?」  そういうのは早く言って欲しい。  喉元まで出かかった言葉を飲み込み、「行ってきます」とだけ言って、私は図書館を出た。  次の瞬間、私はマンションの一室の前に立っていた。表札には『美浦』と書かれている。  気持ちを少し落ち着けてから、インターホンを鳴らす。しばらくして、「はい」と女の人の声がした。おそらく、まゆちゃんのお母さんだろう。 「あの、突然すみません。新藤と申しますが、まゆちゃんはご在宅でしょうか?」 『……どのようなご用件でしょう』  声音が硬くなる。警戒するのは当然だ。私は少し迷ってから、こう答えた。 「雨の図書館、と伝えていただければ分かるかと思うのですが」 『雨の図書館?』 『――すぐ行きます!』  そこに女の子の声が割り込んでくる。それから少し中でバタバタと音がしてから、ドアががちゃりと開いた。 「あの、ごめんなさい!」  まゆちゃんらしき女の子は、私を見て少し不思議そうな顔をした後、胸に付けたバッジを見た。 「まゆ、雨の図書館ってどこのこと? 新藤さんってそこの人なの? あの新藤さん、よければ名刺を――」 「とにかく、えっと……入ってください!」  お母さんの言葉をさえぎり、まゆちゃんは私の手を強引に引く。 「すみません、お邪魔します」 「まゆってば!」 「お母さん大丈夫だから、気にしないで! ちょっと話しするだけだから!」  それからドアの一つを開け、私を押し込むようにして自分も中へと入った。  後ろ手に扉を閉めると、ふうと息を吐く。そこは、まゆちゃんの部屋のようだった。勉強机やベッドがある。カーテンは閉ざされていた。 「ごめんなさい。お母さんちょっと今、神経質になってるから」 「それは仕方ないよ。突然知らない人が来たんだもの」 「その……わたしが学校しばらく、行けてないのもあって」  その言葉に、私の胸の奥が、ずきりとうずいた。 「あっ、適当なところに座ってください。ごめんなさい、汚い部屋で……お姉さんは、あの図書館でずっと働いてるんですか?」 「ううん、臨時職員。本の回収を頼まれたの」 「ごめんなさい、本借りっぱなしになっちゃって。読もうと思ったんだけど、なかなか読めなくて、どうやって図書館行ったかも思い出せなくて……取りに来てもらえてよかったです」  そうして渡された本は灰地に白いストライプの表紙。明朝体で小さく『やまない雨』と書かれていた。  ぱらぱらとめくって中を見てみると小説のようだ。漢字も多く、文章も硬い。まゆちゃんくらいの子には難しすぎる気がした。 「タイトルがいいなって思って。難しくてちょっとしか読めなかったの」 「まゆちゃんは、雨が好き?」 「好きってほどじゃないけど……ちょっと安心はするかも。外に出なくても仕方ないやって思えるし」 「わかる! 外に出た時も傘に隠れられるからちょっとホッとしたりして。だからビニール傘じゃない方がいいんだよね」 「わかる! お姉さんも一緒なんだ!」 「……私もね。まゆちゃんくらいの頃、学校に行けなかったことがあったよ。いじめられてたから」  まゆちゃんがハッと顔を上げる。私は続けた。 「最初、親に話した時にも頑張れって言われて。心配や迷惑をかけたくなかったから、自分なりに頑張ってみたんだけど、上手く行かなくてね。そのうち限界が来て、学校に行けなくなっちゃった」 「……それで、それからどうなったの?」 「もう一回、親と話した。泣きながら訴える私を見て、これは本当に限界なんだって思ったみたい。それから転校できることになってね。次の学校でも合わない子はいたけど、仲良くしてくれる友達も出来たから、学校行くのがずいぶん楽になったよ」 「そうなんだ……」 「職場も何回か変わってるんだけど、大人になっても色んな人がいるから、やっぱりどうしても合わないっていうのはあるんだよね」 「そういう時は、どうするの?」 「仕事で絶対一緒じゃないといけないとか、そういう時は何とかやり過ごして、あとは逃げちゃう」 「逃げちゃうの?」 「露骨にはやらないよ? なるべく顔合わせないようにしたり、無理に近づこうとはしなかったり。最初はみんなと仲良くなろうとして頑張ってたんだけど、それは無理だなって。なるべく失礼にならないようにとかは気をつけるけど、もうそれ以上はどうしようもないなって」 「そっかぁ」  それから少し、沈黙が流れる。 「……大人ってみんな、頑張りなさいって言うのかと思ってた。ネットでは逃げてもいいんだってメッセージを見かけるけど、何だか別の世界の話みたいで。わたしの周りではそうじゃないんだなって」 「私も水月町に住んでるんだよ」 「ほんと?」 「うん。まゆちゃんが知らないだけで、近くにもたくさんそういう人、いるかもしれないよね」 「そう……なのかも。ううん、そんな気してきた! わたし、今度――じゃなくて今日、お母さんたちに話してみる」 「それがいいよ。まずは言葉にしてみないと、本当の気持ちって伝わらないから」 「うん。そこは頑張ってみる! ……ありがとう、新藤さん」  そしてまゆちゃんは、晴れやかに笑った。  彼女はずっと、そうしようと考えていたんだと思う。あとは、ちょっとしたきっかけだけだった。  まゆちゃんの家を出てから、私は雨の中を適当に歩いた。  どう進もうがたどり着くという確信のとおり、雨の図書館は姿を現す。 「ご苦労様でした」  司書さんは本とバッジを受け取ると、カウンターの隅へ置く。 「本棚に戻さなくてもいいんですか?」 「後ほど戻します」 「雨、止みますよね?」 「『やまない雨』が戻ってきたので、止むでしょうね。そうでないと道理が通りません」  そもそもそんな道理があってたまるかと思ったが、口には出さない。その代わり、少し気になっていたことを聞いた。 「今回、ペナルティってあります? 延滞の」 「30日過ぎれば貸出停止となりますが、今回は3日ですので、特には」 「良かったです」 「こちらこそ、ご協力ありがとうございました。何か借りていかれますか?」 「いえいえ、結構です」  苦笑する私の耳に、待ち望んだチャイムの音が届く。 「では、私はこれで」 「お気をつけて」  司書さんはもう、こちらに興味をなくしたようだった。本を読む彼女に頭を下げてから、私は急いで外へ出る。  目の前に広がるのは、見知った公園の風景だ。空は――綺麗に、晴れていた。  ◇  一週間後。まゆちゃんからメッセージが届いた。転校することになったらしい。  何度かしたやり取りの中で名前を出してみたけれど、彼女は雨の図書館のことも、『やまない雨』のことも忘れているようだった。  私も今は、夢の中の出来事だったかのように、おぼろげにしか思い出せない。書き留めておこうかとも考えたけれど、結局やめた。そうしたところで意味がないかもしれないし、忘れてしまうのが自然ならば忘れてしまった方がいい。あそこはきっと、そういう類の場所だ。  それでも小さな友人の、雲間から射した光のように明るい表情は、これからも私の心に残り続けるのだろう。
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