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健人と別れ、ドブくさい水路の脇をうつむいて歩いた。
僕の家は古い集合住宅の一階だ。お化け屋敷みたいなアパートだな、と5年生のころ友達に言われたけれど、本当の事なので腹は立たない。
「カイリ」
アパートの10メートル手前で声をかけられた。母さんだ。
「どこか行くの」
「ええ、買い物。お父さんのお酒が切れちゃったから」
「あの人、いるの?」
「うん」
「買い物、すぐ終わる?」
「うん」
そのまま小さい背中を見送った。普段着のまま、サンダル履きの母を見て少し安心する。前のように、突然いなくなったりはしないだろうと思えるから。
安心は、いつだってすぐに別の絶望に変る。玄関のドアを開けると目に入ったのは、ひっくり返った椅子やゴミ箱だった。割れたコップや酒瓶の破片が床でキラキラ光る。
暴れたと思われる男は、ソファにふんぞり返っていびきをかいている。今日も競馬かパチンコで大敗したんだろう。酒を浴びるように飲んだ夕刻はだいたいこんな感じ。
僕はガラス片を踏まないように、つま先立ちで部屋の隅の勉強机まで行き、ランドセルを置いた。
母さんは片づけを放棄して、買い出しという名の、つかの間の逃避をしたらしい。
数年前に僕と、この怪獣を置いて姿をくらました勇気は、もうないみたいだ。たぶん1時間で帰って来て、黙ってご飯を作り、いつもの様に夜勤のバイトに出かける。
ついさっきまでそのあたりまえが僕の安心だったのに、今は怠慢に思えた。
『気象庁によると、今後2週間、20ミリ以上の雨が降る確率は10%にも満たないと予測され、深刻な水不足が心配されています。連日8時間の断水は市民の生活に多大な不安と――』
つけっぱなしのテレビの中からキャスターが告げる。
――2年前と同じだ。
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