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 ドアが開いて、あいつが降りて行くのを見守るのも、久し振りだった。すっかり閉じてしまった鉄とガラスの向こうで、目を細めたあいつがマスクを指で下に引く。  少しすぼめてから、横に引かれ、それから唇の手前で舌が動く。  笛の音が外気をつんざかなくても、俺に届くはずのない声。  どうしていつも、あいつは――  夕飯の後、翌日の予習をしていて、ふと意識が途切れる。テキストの文字がぼやけて、何度も瞬きをするとようやく視界がクリアになった。  涎でもくってないかと口元を甲で拭い、慌てて時計を見る。長く寝落ちていたわけじゃあなさそうだ。  抜いたのも久し振りだったし、ましてや他人にしてもらうなんて初めてだったから、微妙に疲れているのかもしれない。  取り敢えず明日は凌げそうだから良いかと見切りをつけると、机の上を片付けた。  電車で大丈夫だと判断し、また会えるかと期待しながら、昨日と同じ便に乗った。  もしかしたら、今までも会わなかっただけで、千賀はずっとこの便だったのかもしれない。あの事象があるまではずっとぎゅうぎゅうに詰まっていたから、余程近くに乗り込まなきゃ気付かなかっただろう。帰りには度々一緒になったから、電車通学なのは確かだったけれど。  俺が自転車で通っている間も、千賀は電車通だったんだろうか。色々と憶測を巡らせながら揺られていたけれど、あの駅で千賀は乗り込んでこなかった。  おかしいな、便がずれたかな。  視線をホームから離せずにいると、駅を過ぎたところで、線路沿いの道からこっちを見上げている千賀らしき人物が視界に入って消えていった。  まあ、学校で会えるからいいか。  キュッと鞄を握り直して、そのまま流れる風景を眺めていた。  また、空席が増えていた。  そして、千賀の席も、その日誰かが座ることなく過ぎていった。  ちりちりと、胸が痛い。なんだか口の中が乾いて、何度も唾を飲む。いつもより早く寝たはずなのに、頭が重い。  焦燥感に突き動かされるように、帰りの車内では、千賀が降りるはずのドアの傍に立ち、外を見ていた。  スピードが落ちて、ホームに滑り込む。車体が完全に止まる前に、制服が視界に入ったように感じた。  ドアが開いて、俺は端に除けながらも、その姿をホームに探す。よその制服が数人降りて、乗車のないままドアが閉まっていく。  その時、ドアの向こうにあいつが立った。  ずっと見ていた筈なのに、今初めてはっきりと俺の視界に現れたと言っていいのか。  マスクすらしないで、いつものように目を細めて、微笑んで。いつもより大きく開く口。閉じ気味に細めて、更に細めて少し開いて舌が閃くのが見えて。最後に唇を少し突き出す様子が、まるでキスを強請っているようで。  逸らせない視線の先で、風景と一緒にあいつが遠退いていく。  いつの間にかガラスにべったりと両手を着いていたことに気付いて、横にあるバーに持ち替えないと、という意識が働く。  一旦降りて、乗り換えて引き返せば。  まさか、まさか、あいつも。  今じゃないと、もう。  そうしたからどうなるでもないと解っていながら、数分後に開いた反対側のドアからホームに降り立った。  反対側のホームに行かないと。  踏み出そうとして、よろめいた。  ああ、世界が紅く染まっていく――      了
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