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まぶたにキスして
「天使様だ!」
「天使様がこの村にいらっしゃった……」
村の人々の歓声を受けながら、私は片手を上げて手を振り、そのままその場から飛び去る。顔の上半分を覆っているマスクから見える視界には、今回の役目が終わったことを示す印があらわれていた。
この村だけでなく、この周辺の村や町には、天使が現れるという噂がある。人々はきっと、その天使は本当に天から使わされたものだと思っているだろう。けれども、それは間違いで、その天使と呼ばれているものは、本来ならか弱い人間である私なのだ。もっとも、それをわざわざ人々に知らせる必要なんてないのだけれども。
今日私がこの村にやって来たのは、無実の罪で村人が魔女裁判にかけられていたので、それをやめさせるためだ。あの村人は大丈夫なのだろうか。おそろしい道具を持った何人もの男の人に囲まれて、左手にひどい火傷を負っていたけれど……
少し考え事をしている間にも、私は自分が所属している、人里離れた場所にある女子修道院に辿り着いた。この修道院からあの森のそばにある村までは、歩いて行けば半日はかかってしまうけれども、天の使いとしての能力を使って空を飛べば、あっという間に行き来することができる。
畑仕事をしている修道女達が、空に浮かんでいる私を見上げて手を振ってくる。私も軽く手を振り返して、広く開けている場所に降り立ち、祈りの言葉を素早く唱える。すると、瞬く間に私の身体は光に包まれ、顔の上半分を覆っていた羽を模ったマスクと、背中に背負っていた光の翼が消え失せる。
「ドルシラ、お帰りなさい」
「外へのお使いは大変だったでしょう」
元の姿に戻った私に、ほかの修道女達が笑顔で声を掛けてくる。彼女たちはみんな、私が天使の姿を模った天の使いという役目を担っていることを知っている。
以前より、年嵩の修道女から何度も聞かされたことがあるのだけれども、この女子修道院からは数年に一度、人々も間違いを諫め、正しく導くという使命を持った天の使いが選ばれるのだという。その話を聞いて。はじめは半信半疑だったけれども、私よりも年上の修道女は、なぜだかみんなその話を信じて疑っていなかった。いま思うと、彼女たちは天の使いというのを何度か見たことがあったのかもしれず、中には憧れを抱く人もいたのかもしれない。
それなのに、天の使いというものの存在を疑っていた私が、天の使いとして選ばれた。なぜ選ばれたのか私にはわからない。わからないけれども、この閉ざされた修道院の中で暮らしていると外へ出る機会が限りなく少ないので、天の使いの使命を果たすために外へ出られるというのは、良い刺激だし気分転換にもなっている。私がそう思いながら天の使いとして外に出ているのをみんなに知られたら、怒られるかも知れないけれど。
ほかの修道女からの労いを受けて、無事に戻ってきたのだからお昼ご飯時まで畑仕事をするかと農具を取りに行くと、聖堂の鐘が高く鳴り響いた。ちょうどお昼時にになったようだった。
明るい日差しのもとで畑仕事をしていたみんなは、にこにこしながら籠いっぱいに収穫した野菜を納屋に運び込み、井戸の水で手を洗ってから食堂へと向かう。私もみんなと同じように、手を洗ってから食堂へ向かう。
ふと空を見上げると、雲ひとつない抜けるような晴天だった。暖かな日差しと爽やかな風は、先程の村で魔女裁判が行われていたなんてのは幻だったと思わせるようだった。
それにしても、こんないい天気だと、天の使いとして空を飛んでいた私の姿は随分と遠くからでも見えたのではないかと少し心配になった。
「どうしたの? なにか考えごと?」
突然声を掛けられてあわてて振り返ると、そこにいたのは私と同時期にこの修道院に入ったけれども、十歳は上に年の離れた修道女だった。彼女は元々どこかの町の酒場で歌っていた元歌い手で、彼女がなぜこの修道院に入ったのか、その理由を私は知らない。
けれども。
「今日は、いい天気だなと思って。
サロメは畑の仕事、どうでした?」
「そうね、疲れはしたけど、これからごはんが待ってるから」
「うふふ。そうね」
年上の彼女、サロメと一緒にいる時間が、私にはとても心地よく感じられた。
どこの町から来たかだとか、外の世界でどんな生活をしていたのかだとか、そう言ったことを気にかける修道女ももちろんいるけれども、私にはそれはどうでもいいことだった。
サロメと一緒に食堂に行き、隣同士に座る。食堂の窓は大きく作られていて、そこから柔らかく入り込む光が、窓と向かい合って座るサロメのことを輝いているかのように見せる。その姿を見る度に、私の胸は音を立てて聞こえてくるかのように脈打つのだ。
料理がみんなの前に配膳され、修道院長の祈りの言葉のあとに食事がはじまる。和やかな雰囲気の中、私はスプーンで料理を口に運ぶサロメのことを横目でちらちらと見ながら、自分の分の料理に手を着けていく。
そんな事をしているわけだから、上手く料理を食べられないでいると、突然、サロメと目が合った。思わずどきりとしたけれど、彼女は私のその様子には気づかないようで、にこりと笑ってこう訊ねてきた。
「そういえば、外の様子はどうだったの?
またなにか、厄介なことを片付けてきたんでしょう?」
その問いに、私は先程のことを思い出す。無実の村人にかけられた、魔女の疑惑。魔女であるかどうかを確かめるための拷問を受けたのか、その村人が負っていたひどい火傷のことをまた思い出す。ぶるりと身震いをして、私はサロメの問いに答える。
「実は、無実の方が魔女裁判にかけられているのを止めてきたんだけど、薄暗い小屋の中で、何人もの男の人に囲まれて、ひどい火傷をしてて……」
話そうと思えば、その村のほかの様子も話せたのだと思う。けれども私には、魔女裁判というものがあまりにもおそろしく感じられて、それで頭がいっぱいになってしまった。そう、あの村での魔女裁判の指揮を執っていたとおぼしき、ほかの修道院の修道士。真っ白な服を着て、あんなにうつくしい姿だったのに、それが逆に、いっそう魔女裁判というものをおそろしく感じさせたように感じた。
明らかに私が思い出してこわがっているというのが伝わったのだろう。サロメがスプーンをお皿の上に置いて、私の頭を優しく撫でる。
「そっか、こわいところを見たね。よしよし」
こわいところを見たのは確かだ。でも、こうやってサロメが慰めてくれたり、あやしてくれるのなら、天の使いの使命もこれから迷ったりためらったりせずに果たしていけるのだと、そう思った。
昼食を食べ終わった後の休憩時間。ほかのみんなが自室でゆっくりしているであろうなか、私はサロメとふたりで一緒に誰もいない、建物の影で薄暗くなっている聖堂の裏でおしゃべりをしていた。
こういったおしゃべりは、あまり度が過ぎないようにと修道院長からはいわれているけれども、ほかに何か楽しい事があまりない修道院の中で、この楽しい時間はなかなか捨てられそうにない。それになにより、私にはほかのみんなには内緒にしている楽しみがあるのだ。
「ねぇサロメ、外で歌ってた歌、また聞かせて」
「ん? いいよ」
そう私がおねだりすると、サロメはいつも、かつて町の酒場で歌っていたという歌を歌って聴かせてくれる。その歌は普段礼拝の時に聞いている厳かで重々しい聖歌とは全然違う物で、もっと軽くて明るくて、艶やかで、そしてどこか寂しさを感じさせるものだ。
サロメが歌いながら、スカートの裾をひるがえしながらくるくると踊る。サロメはきっと、外の世界にいるときにもこうやって、歌って踊っていたのだろう。こんなに魅力的に歌って踊る彼女をみて、外の世界の人はどう思ったのだろう。私と同じように、ときめきと胸の温かさを感じていたのだろうか。
サロメが歌いながら私に手を伸ばす。私はその手を取って、一緒に踊る。こんな所を他のみんなに見られたら絶対に怒られるのだろうけれども、ただ私とサロメのふたりきりの世界にひたっているこのひとときは、なにものにも代えがたいものなのだ。
こうやって一緒に歌って踊っているとき、私はいつも不思議に思う。サロメが歌う歌の中に出てくる、『恋』というのはどんなものなのだろうと。それはとてもすばらしいもので、しかし人の心をかき乱し、狂わせることもある。それでもやはり、どうしようもなくすばらしいものだと、サロメの歌の中では歌われている。それはほんとうに、どんな環状なのだろう。
ふたりで歌って踊って、身体が熱くなった頃に、手を繋ぎなおして、サロメが私に訊ねた。
「ドルシラは、なんでそんなに私の歌が好きなの?
やっぱり、珍しいから?」
それを聞いて、私は改めてどうしてサロメの歌が好きなのかを考える。彼女の歌が上手いのか下手なのか、その判断は私にはできない。外の世界の歌が珍しいというのはもちろんあるけれども、それ以上に、これだという好きな理由に思い当たった。
「サロメと一緒に歌ったり踊ったりしてると、なんだかどきどきするの。
なんとなくちくちくして、でも、それでもとてもとても甘くて心地よく感じるの」
私の言葉を聞いて、サロメは驚いたような顔をしてから、あたたかい腕で私のことを抱きしめた。私も突然の事で驚いたけれど、サロメの腕に抱かれていると、なぜだかものすごく安心した。それと同時に、サロメが私以外の人をこうやって抱きしめるなんていやだ、私のことだけを見ていて欲しいという気持ちが湧いてきた。
私もサロメの身体に腕を回して軽く抱きしめ返すと、サロメが戸惑った様な声でささやいた。
「それはきっとね」
そこまで言って、サロメが言葉を切る。それから、またぎゅうっと私のことを抱きしめた。それはきっと、なんなのだろう。言葉を切ったと言うことは、少なくとも私には言いづらいことのはずだ。彼女の腕に抱かれたまま、夢見心地で彼女の言葉の続きを考える。そして、私の中ですとんと腑に落ちる答えが見つかった。
私は今まさに、彼女に恋をしているのだ。
でも、私もサロメも女同士で、そんな事は赦されるはずがない。神様はそんなことを禁じているのだから。天の使いとして間違いを正す側の自分が、ここで間違いを犯してしまっていいのか。いや、よくないはずだ。
ぐるぐると考えているうちに、急に大きな不安に襲われる。神様の教えに背くのがこわくて、でも自分の気持ちを捨てたくなくて、ぎゅっとサロメに抱きつくと、サロメが少し顔を離して、私の頬にその手を添えた。彼女がじっと見つめてくる。私も、視線を合わせてじっと見つめた。
そうしているうちに、私の頭の中にあった不安や畏れが溶けていき、どこにもなくなったように感じられた。難しいことなんてどうでもいいと、そう思った。
私はサロメの目を見つめたまま、掠れるような声で呟く。
「私ね、あなたのことがすごく好きなの。
きっといま私は、あなたに恋してるの」
すると、サロメは少しだけ悲しそうな顔をして、私の頬を撫でる。
「神様に、怒られるよ?」
なだめるようにそう言って、でも私から視線を外さないサロメに、私はさっきよりも強い声ではっきりと言う。
「神様に怒られたって、かまわない」
サロメがまた、私の身体をきつく抱きしめる。自分よりも背も年齢も小さな私の肩に顔を埋めて、鼻を啜る音が聞こえたかと思ったら、また顔を上げて困ったような笑みを私に向ける。
「それはいけないことなの。特にここでは。
でも、ドルシラのその気持ちがなくなるまでは、たまにふたりきりで、こうやって過ごそう。
どうかな?」
それから、口に人差し指を当てて、みんなにはないしょで。と付け加える。
これは、サロメは、私の気持ちを受け取ってくれたということだろうか。私は顔が熱くなるのを感じながら何度も頷き、サロメと同じように口に人差し指を当てる。
それから、またさっきと同じようにふたりで歌って、踊って、また疲れたらお互い聖堂の壁により掛かって笑い合う。
サロメが私に顔を近づけてささやく。
「黙示録はどうでもいいわ」
柔らかな手が頬に添えられ、恥ずかしくて思わず目を閉じると、まぶたに柔らかい感触を受けた。
私は、まぶたに彼女からの愛を受け取ったのだ。そう思うと、また気持ちが昂ぶってきた。
私とサロメは、これから罪を犯すのだ。それはとてつもなく甘く、うつくしく、秘めやかな、薔薇色の罪を。
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