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「つめたっ…」
少し遅くなってしまった昼休み。何か外に買いに行こうと会社を出たところで、冷たいものが鼻の頭に当たった。
見上げると、タイミングを計ったかのように急に雨が降り注いでくる。
「うわ、マジか…」
傘なしで出掛けるには雨が強すぎる。けれどデスクの置き傘を取りに行くには時間が惜しい。
(どうすっかな…)
「あれ、織田くん?」
聞き覚えのある声に振り返ると、女の人がちょうど会社から出てきたのに鉢合わせた。
「どうしたの? こんな所で立ち止まって」
「あ、いや。コンビニ行こうと思って出てきたんだけど、雨でさ」
(えっと…誰だっけ?)
見覚えがある気がするのに、何故か名前がぱっと出てこない。
「わたしもコンビニ行くところだったんだ。よかったら傘に入っていく?」
「ホント? いいの?」
「うん。わたしの傘で嫌じゃなければ、だけど」
そういって彼女は肩を竦める。その自信なさげな表情に見覚えがあった。
「全然! 困ってたから助かったよ。ありがと!」
広げてくれた傘に滑り込みながら、こっそり首にかかる社員証を見る。
(あ、総務の…)
そこに書かれていた名前には見覚えがあった。同期入社で、研修の時に何度も同じ班になった子だ。
(あれ? でも…)
記憶の中にある彼女は、今よりももっと自信なさげで。いつも俯いて俺と目を合わそうともしなかった記憶がある。けれど今隣にいる彼女はまっすぐ前を向いて、さっきだって俺としっかりと目を合わせて話していた。
(そういえば、なんだか――)
「最近、キレイになった?」
「え…?」
「あっ、ご、ごめ…!」
彼女が驚いた様に見上げてくるけど、驚いたのは俺の方だ。
(こんなこと、言うつもりなかったのに…!)
なのに気付けば、自然と言葉が口をついて出ていた。そしてそれは俺の意思を無視して続く。
「でも、ホント、前となんか変わったなと思って! 肌も綺麗になったみたいだし。あ、もしかしてメイクも変えた? 雰囲気全然違うから、最初誰か分からなくってさ!」
(うわ、俺なに言ってんの?)
でもその感想はどれも、俺が素直に感じたことだった。
彼女は驚いた様に目を丸くして俺を見上げて、そしてすぐに目を細める。
「…うん。そうなんだ。ありがとう、気付いてくれて」
恥ずかしそうに笑うその表情に、思わず見とれてしまった。
(この子、こんなに可愛かったっけ…?)
「わたしね…昔から肌荒れとかニキビとかすごくて、それもあって自分に自信が無かったの。でも、このままじゃダメだって思っていろいろ頑張り始めた時、織田くんに「前と違うね」って言ってもらえて」
「え、俺…?」
「うん。織田くんは覚えてないだろうし、きっと社交辞令みたいなものだって分かってたんだけど、嬉しかった」
(バレてたんだ…)
急に恥ずかしくなった。
自分の嘘がバレたことにではなく、そんな嘘を平然とつき続けていた自分が。
「あの…ゴメン、俺…」
「どうして謝るの? わたし、織田くんには感謝してるんだ」
「感謝?」
「あの時、織田くんに声を掛けてもらえて。それから、もう一度織田くんに「変わったね」って言ってもらうのがわたしの目標だったの。だから今、すごく嬉しい」
「……!」
「ありがとう、織田くん」
「俺は…本気でそう思ったから、言っただけだよ」
彼女を見ていると言葉が込み上げてきて、口にせずにはいられない。
この言葉は魔法だ。
「本当に…キレイになったね」
この魔法の言葉が、彼女を美しくしたのだから。
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