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全部クソ上司のせい
会社の飲み会なんて、適当に理由を付けて抜け出せばいいじゃんと彼女に激怒され、振られてしまったのがちょうど一週間前。
そして今日も酒好きの上司に捕まって、飲みに行くぞと強制連行される事……これで何十回目だ?
「ゔぅ……気持ち悪い……」
居酒屋のトイレの前でしゃがみ込み、俺は口元を押さえながらせり上がってくる吐き気に耐えていた。
酒はそんなに得意じゃないが、俺の場合それが顔に出ないようで、酔った上司にじゃんじゃん飲まされる事が多いのだ。気付いた頃には手遅れなんて事もザラで、しかし、吐いてしまえば楽になるから、こうしてこっそりと吐きに来る事もしばしば。
だけど今回は運悪く、トイレが使用中であり、尚かつ入ってるやつがかれこれ5分以上経っても出て来ないのだ。何度かノックをして声を掛けてもみたが、中からわずかにオッサンのイビキが聴こえて来た時点で俺は体力の限界を迎え、こうして動けなくなっている。
ちくしょう。最悪だ。なんでトイレ1個しかないんだよ。つーかこんなとこで寝んなアホ!
「……ヤバイ、無理かも……」
お店の人、ごめんなさい。俺は今からここで、多大なご迷惑をおかけします。
そう思っていた時だった。不意に俺の傍らにしゃがみ込む人影があり、そっと背中に手を当ててくる。
「……大丈夫っすか?お客さん」
「?」
ここの従業員だろうか。店のロゴが入ったTシャツを着ているから、きっとそうに違いない。
……チャラそうな子だな。
明るい茶髪に、耳には複数のピアスが付いている。前髪が少し長くて目付きが悪く見えがちだが、近くで見ると凄く良く整った顔をしていた。
学生?女子にモテそうな顔してるな。
「お客さん?」
低い、それでも心地の良い声がもう一度掛けられる。俺は一瞬その従業員に見惚れてしまっていたが、すぐに吐き気が戻って来てはそんな余裕もなくなって、また下を向いてしまった。
「……悪い……吐きそうなんだ……」
やっとそれだけ伝えると、従業員は一度トイレの方を確認し、それから俺の脇を抱えては「こっち」と言う。
そいつは俺を支えながら店の出入り口に向かい、途中で誰かに声を掛けていた。
「店長!この人ヤバそうなんで、ちょっと裏に連れて行きます」
「お?おう、分かった」
「あと、トイレで客が寝てるみたいなんで、起こしといてください」
「りょーかい!じゃ、そつちは頼んだぞ」
「ぅす」
店を出て、すぐ脇の細い路地に連れて行かれる。少し歩けばここの居酒屋の裏口が見えて来て、人が座れるくらいの丁度いい段差があった。
俺はそこに座らされ、従業員の手からレジ袋が渡される。
「他に吐くとこ無いんで、ここで我慢して下さい。人は来ないんで、遠慮なくどうぞ」
「ど、どうぞって……」
淡々としてるな、コイツ。慣れてるのか?
そう思っていても、我慢も限界に達していた。
俺は安堵と共に襲って来た吐き気に抗えず、渡されたレジ袋を広げては胃の中身をひっくり返した。
「ぅえ……っ、……かは……っ」
「……………」
他人が隣りで嘔吐してるというのに、その男は無表情で俺の背中を優しく撫で擦っている。なにもそこまでしてくれなくてもいいのに、だけど今の俺は、そんな言葉さえも口に出来ない程弱っていた。
……なんだこれ。今まで以上にキツイ。全然楽にならない。
吐いても吐いても気持ち悪いばかりで、食べたもの全部をもどしても吐き気が全然治まらない。
終いには胃液が出てくる始末で、それを見兼ねた男が不意に立ち上がった。
「ちょっと待ってて下さい」
そう言って後ろにあった店の裏口へ入って行き、すぐに何かを持って戻って来る。
「水、冷たいのでどうぞ」
新品のペットボトルだろうか。フタをわざわざ開けて、こちらへと差し出してくれる。
俺は素直にそれを受け取って、ありがとう、と呟いては水を口に含んだ。
「あ、別にうがいとかしてもらって全然良いんで。それ、アンタにあげます」
……そう言ってくれると大変助かる。
心の中で感謝しながら、俺は遠慮せずに口の中をゆすいだ。それから数口水を飲んで、やっと少しは落ち着く。
「……ありがとう。ちょっとは楽になった」
隣りに座る男に弱々しい笑顔でお礼を言えば、彼はやっぱり無表情で「いえ」と短く答えるだけだった。
しばらくそこで外の空気を吸いながら休憩をしていると、店の表が騒がしくなる。どうやら酔っ払いの団体客が帰るらしく、もうそんな時間なのかと、俺も立ち上がろうとした。
早く戻らなければ、またクソ上司に理不尽な事で嫌味を言われる。
しかし、胃の中が空っぽになった事で力が入らずに、立ち上がる途中でよろめいてしまった。すかさずバランスを取ろうとするが上手く感覚が掴めずに、また従業員に支えられてしまう。
「……大丈夫っすか?」
「ご、ごめん……ありがとう」
俺は彼に支えられたまま路地を抜け、店の中へと戻った。そして皆がいるはずの座敷まで連れて行ってもらったのだが、そこには既に誰もいなかった。
「……え、なんで……」
するとちょうど背後を通り掛かった別の従業員が、「あ、そこのお客様、ついさっき帰りましたよ」とあっさりと言ってのけるのだ。俺は勿論、俺を介抱してくれていた男の従業員もキョトンとして、俺だけが真っ青に震え上がる。
「あ、あの……お会計は……」
「もう済んでますよ?」
「……なにか伝言とか、そんなのは……?」
「無いですねぇ」
「そ……そうですか……。ちなみに、荷物とか預かってないですか?」
「いえ、見ての通りなにも残ってませんが」
「で、ですよねぇ……」
見るからに、俺のカバンも上着もどこにも見当たらない。恐らくは気の利き過ぎる同僚か誰かが一緒に持ち出してくれたのだろが、肝心の俺が置いてけぼりになってしまっている。
……どうしよう。財布も家の鍵も、カバンの中だ。スマホも……カバンか。
尻ポケットを探り、何も持っていない事にため息をつく。
マジでどうしよう。ここから家までは三駅分あるし、帰ったとしても鍵が無い。彼女とは……別れたばかりだから、助けも求められない。会社までは歩けばすぐだが、もう深夜も近い時間帯だし、鍵は開いてはいないだろう。それに、明日と明後日は生憎の休みだ。
……無一文で、どうしろと……。
スマホなんて便利な物があるから、勿論同僚の携帯番号なんて覚えてるはずもなく、俺はまた脚の力が抜けて座り込んでしまった。
「はぁ……最悪だ……」
もしかしたら、さっきの団体客がそうだったかも知れない。でも今更追い掛ける気力も体力も残っていないし、どっちの方向に向かったかさえも分からないのだ。
途方に暮れて今にも泣きそうになっていると、再び男が隣りにしゃがみ、俺の肩をポンと叩く。
「あの」
「?」
「もし困ってるなら、ウチ、来ますか?」
「……へ?」
「もうすぐバイト終わるんで、待っててください」
そう言うと、男は立ち上がって俺を近くの椅子に座らせた。そのままさっさと仕事に戻ってしまったもんだから、俺は咄嗟の事に何も言う事が出来なくて、まぁいいやと、吐いて疲れ切った思考と身体を、そのまま目の前のテーブルに投げ出したのだった。
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