『   』

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『   』

 篠崎から、倉持部長と付き合う事になったと報告された。でも、篠崎はまだ自分の気持ちに整理がついていないとちゃんと相手に伝えたらしく、そこはゆっくりと2人で歩んで行こうと、そう部長に告白されたらしかった。 「本当に良かったのか?それで」 「はい。なんだかんだ言って、やっぱり部長の性格は好きですし……先輩と同じで懐が広いのは、部長も同じなんで」  なんとなくだが、篠崎の求める人物像はここ最近でハッキリとしていた。  優しい人。助けてくれる人。本当の自分を知って尚、それを受け入れてくれる人。  まぁ、会社の他の奴らは篠崎の文句は言うが誰も仕事を教えようとはしてなかったもんな。俺はたまたまデスクが隣り同士だったし、コイツの教育係もやってたから見捨てる事が出来なかっただけなんだけど。  俺は「そっか」と呟いては、さっきそこの自販機で買った缶コーヒーを篠崎の机に置いた。 「前も言ったと思うけど、相談には乗るからさ。たまには2人で飲みに行こうぜ」 「……はい!ありがとうございます!」  俺の言葉にスッキリとした笑みを浮かべるようになった篠崎に、俺は本当に良かったと安心している。  篠崎の相手が変なヤツじゃなくて、しっかりとした責任感のある倉持部長だ。きっと大事にしてくれるに違いない。  そう考えていたら、俺もなんとなく伊織に会いたくなってきた。  毎週末会ってるのに、それだけでは満足出来なくなってきているような気さえするのだ。  俺も、伊織と深く関わる度に我慢が出来なくなってる。毎日一緒に顔を合わせて、他愛のない話しをして、何気なくも楽しく愛しい日常を伊織と共に送りたい。  そんな惚気にも近いふわふわな思考でぼんやりしていると、俺達の所属する営業部のオフィス扉を勢い良く開けて、倉持部長が珍しく大声を上げながら飛び込んで来たのだった。  その慌てっぷりに他の社員達も一瞬動きを止めて、部長に一気に視線が集まる。 「福田くん!大変だ!実は……」 「!?」  俺の名前を叫ぶ部長は、しかしこのまま皆の前で話す訳にはいかないと、俺の所まで大股で近寄いては腕を引かれ、すぐに2人だけでオフィスを出たのだった。  俺はどうすればいいのか迷った末、週末、しかも伊織のバイトが終わる頃を見計らって自宅から電話をかける事にしたのだ。 「……もしもし、伊織?」 『晴弘さんっ?なんかあったんすか?今日の飲み会、参加してなかったじゃないっすか』 「それなんだけど……」  俺は一度言葉を切ると、大きく深呼吸をしてから本題を切り出す。 「……俺さ、急遽転勤が決まったんだ」 『は?転勤って……どこ?』 「実家のある九州」  なんでも、九州にある支社で新しく大きなプロジェクトを立ち上げるらしい。そこで各部署の、比較的若くて勤続年数の長い社員が全国の支社から数名集められるのだ。そこに俺が抜擢された理由に、独身であり実家が同じ地域にあるからというのもあったからという。  倉持部長は篠崎から、俺と伊織の事を聞いていたからそのプロジェクトから外してもらえないかと上に掛け合ってくれたらしい。が、この移動は他の社員の事も考えての選考だから変えられないと突っぱねられたらしく、力になれなくてすみません、と謝られたのだ。  俺は電話の向こうで黙り込む伊織に、そうだ、と少し明るめの声で提案した。 「伊織さ、年末年始は俺の実家に泊まりに来いよ。行きたがってたろ?俺の実家、田舎にあるけどさ、ちゃんとした天然温泉もあるし、上手い地酒も料理もあるから……きっと楽しいぞ」  実家が嫌なら、知り合いの温泉宿なんてどうだ?なんて楽しげに話してみるが、伊織は他の事が気になるようだった。 『……晴弘さん、転勤って……もうこっち戻って来ないつもりなんすか?』  意外にも落ち着いた声色で確認してくる彼は、あまりにも冷静過ぎて逆に俺の方が取り乱してしまう。 「あ、一応な?新しいプロジェクトが終わるまでって話だから……終わったらすぐ戻って来るつもりだし」 『それって、いつ頃?』 「そ、そうだな……聞いた話だと……4、5年か、もっと先かもって……」  ……あ、ダメだ。俺が泣きそう。  俺は握っていたスマホを更にギュッと握ってては、電気を消していた真っ暗な自分の部屋の布団の上で身体を丸め、その先の台詞をため息と一緒に吐き出す。 「……思ったより、長くなるかもな」  やっと伊織と暮らせると思ってたのに。  わざわざ彼のご両親にまで会って、了解を得たのにな。伊織の大学卒業よりも長く離れ離れにならないといけないのは、正気キツイ。   グスンと無意識に鼻を鳴らすと、伊織はすぐさま電話越しに晴弘さん、と優しい声で呼んでくれた。 『……今からアンタの家に行っていい?話し、顔見てちゃんとしたいから』  その申し出に、俺は本当に泣きそうになってしまう。だけど俺はもう寝る気満々だったから、ごめん、とすぐに謝るのだ。 「……俺、今日はすげぇ疲れたからさ、実はもう寝るとこだったんだ」 『じゃあ、明日の朝。俺、そっちに行くからさ』 「……分かった。待ってる」  おやすみな、と伝えれば、伊織もおやすみなさい、と返してくれた。  俺は通話を切るとそのまま目を閉じて、心の中でさようならと、そう呟いた。
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