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もう一度、お持ち帰り
本当は帰る直前に指輪を渡すつもりだったと、伊織は頬を掻きながら言った。でも、あまりにも俺が切なそうな顔をしていたから我慢出来なかったという。
「えー、俺のせい?」
「そうだよ。晴弘さんが捨てられた子犬みたいな顔すっから……」
「誰が子犬だ。俺は立派な成犬だぞ!」
「……チワワ?」
「ちがーう!」
ドーベルマンだよ、ドーベルマン!と意味の分からない見栄を張り、ふんすと鼻息荒く言ってのける。
誓いの言葉から一夜明け、起き抜けに確かめるよう自分の手を見て見ると、やっぱりそこには指輪が光っていた。夢や幻では無かったんだと嬉しくて、ついでに、俺を抱き締めて寝ていた彼の手にもお揃いの指輪が着けられていたのをこの目で確認している。
そんなキラキラした手同士を勝手に重ねてはニヤニヤと眺め、目覚めた伊織に見付かってまた襲われてしまったのだけれど。
早朝の温泉に浸かりながら、俺はまた自身の手を掲げては指輪を見つめる。
伊織もそんな俺を見ながら、すぐ横で口元を緩めるのだ。
「……なに?指輪、そんなに嬉しい?」
濡れた前髪をかき上げ、彼は聞いて来る。
俺はそれに素直に頷いて、「ん、嬉しい」と笑みと共に零した。
「まさかこの指に、俺が誰かのモノだって証が着けられるなんてな……。嬉し過ぎて、涙が出そうだよ」
「……さっきも散々泣いたのに?」
「それ程嬉しいって事」
涙腺緩くね?なんて言う彼のツッコミに、俺は伊織の肩に軽くパンチを食らわせてやる。
こんな些細なやり取りでさえ、今の俺には幸せにしか感じられなかった。
セックスやキスマークよりも、確実に残る証。俺が一生誰からも貰えないんだと、諦めていた証。
「……なぁ伊織、もしさ……俺がずっとこっちで働くってなったら、どうする?」
もしもの話しだからな?と、念押ししながらふと思い付いた事を聞くと、彼は目をぱちくりさせながら口を尖らせる。
「……なんの為にソレ、アンタにあげたと思ってんの?」
「え?」
「アンタが何処に居ようと関係ねーよ。晴弘さんがこっちに残るってなら俺が引っ越して来てもいいし、また向こうに戻って来てくれるんなら、俺はずっと待ってる」
それから顔を近付かせて来ると、伊織は俺の額にチュッと軽くキスをしてくれる。
「……誓ったろ?もうアンタの事、絶対に離してやんねーから。……それともなに?やっぱり重いってんなら、その指輪返して」
「や、やだよっ!絶対に返すか!」
咄嗟に指輪をしている方の手を抱えては、伊織から距離を取った。
いくら伊織からの贈り物とは言え、今はもう、俺のモノだ。
すると、彼はすぐに声を上げては笑い、冗談っすよ!と楽しげに言う。
「晴弘さんって、マジでかわいい……すげぇ癒やされる」
「は、はぁ?」
「俺、ずっとアンタとこうしてたい」
「!」
不意に見せた、ちょっと寂しげな微笑み。
俺は彼のそんな表情に胸が締め付けられて、思わず浴槽から立ち上がっていた。
「晴弘さん?」
「っ……先に上がる。……伊織は、まだゆっくりしてていいぞ」
……俺だって、ずっと一緒に……。
脱衣室で乱暴に髪を拭き、不意に手を止める。
きっと俺が女だったら、こんなに悩む事も無かっただろうに。ましてや俺の方が年上で、大人で、本当なら、伊織に安心してもらえるような存在じゃないといけないんだ。だけど……。
再び手を動かしては、生乾きの頭で急いで服を着た。そして、とある決意を胸にスマホを手にしては、電波の入るコテージの外へ出たのだった。
好きな人と2人きり。無事に新年を迎え、約束していた地酒を飲み、好物ばかりが並ぶ料理を食べては温泉も満喫して大変充実した休日を過ごす事が出来た。
愛しい人と身も心も繋がって、これがずっと続けば良いのにと何度思った事か。だけど楽しい時間程早く過ぎてしまい、この甘いひと時にも、当たり前だが終わりはやって来る。
「あー……帰りたくない……晴弘さん、一緒に飛行機乗ろう」
「ばーか。チケット買ってないのに乗れる訳ないだろ」
「じゃあ俺が今すぐ買ってあげるっすから、このまま一緒に」
「アホか」
空港では、年末年始を実家で過ごした人達の帰宅ラッシュが始まっていた。
俺も伊織を見送る為に一緒に来たのだが、余計に離れ難くなってしまい、ロビーの隅っこでお互いの手をにぎにぎと弄ってはどうでもいい話しをしていた。
もうすぐ搭乗手続きの締め切り時間だ。早くしないとダメなのに、この手を離したくないと思ってしまう。
真新しく輝く互いの指輪を眺めては、その存在に全てを託すようにひと撫でする。
……でも、ここは……大人の俺が先に手を離すべきだよな。
ゆっくりと深呼吸をして、そっと手を離す。伊織も一瞬だけ、離れていく俺の手に指を伸ばし掛けた。だが、搭乗手続き締め切り前のアナウンスが聴こえて来たので、彼はパッとその手を引っ込めてしまう。
仕方が無い事なのに、なんだかそれが悲しく思えてしまうのは、俺も握り返して欲しいと思っていたから。
「……伊織、時間」
「……分かってる」
「なんだよ。一生の別れじゃないんだから、そんな顔するな。……今度は俺が伊織に会いに行くから」
「……今度って、いつ?」
「さぁ……でも、必ず行くって、約束する」
しょんぼりとする伊織の頬に手を添えて、俺は彼が元気になるようにと笑って見せてやった。
「伊織、あのさ……次会った時、お前に伝えたい事あるから」
「?」
「だから……絶対に待ってて。すぐ、会いに行く」
背伸びして、唇にキスをして、すぐに伊織から離れた。
そして彼の背後に回っては、その大きな背中を押して少し歩く。
「ちょ、晴弘さんっ」
「早く行けバカ。お前のせいで飛行機遅れたら迷惑だろ」
「でもっ」
「でもじゃない。ワガママ禁止」
俺は保安検査所の前で手を離し、振り向いた伊織に捕まらないよう素早く後退ってから顔を上げた。
これで一生のお別れじゃないんだ。だったら、ここは笑って見送るべきだろう。
「……伊織、向こうに着いたら連絡しろよ!待ってるから!」
「……分かった。じゃあ……また後で」
「おう!」
伊織も諦めたのか、名残惜しそうに手を振ってはゲートの奥に消えて行く。
一生の別れなんかじゃない。むしろ、これからが始まりなんだよ!
「……よしっ!」
伊織が見えなくなるまで見送った後、俺はすぐに車へと戻った。そして、先日電話をした相手と会う為にとある場所に向かうのだ。
季節は春。3月末。
「あーくそぉ……飲み過ぎた……もう無理……」
俺は夜道の路肩にふらふらと腰を下ろし、ため息と共に胸のムカつきを抑えようと服の上から擦る。
この後大事な人と会う予定なのに、調子に乗り過ぎたかな。
やっぱり人に飲まされる酒は制御出来なくて、悪酔いに繋がってしまうらしかった。
……ああ、でも……楽しいお酒だった。
久々に会った後輩との時間は、それはそれは面白可笑しく過ごす事が出来たのだ。おかげで時間を過ぎてしまいそうになったが、なんとか間に合ったようだし、少しホッとする。
俺は休憩がてら視線を上に向け、春の夜風を吸い込みつつ懐かしい風景に目を細めた。そして、視界の端に映った居酒屋の赤提灯に口元が緩む。
……伊織、元気かな……。早く会いたい。
「……さてと……今、何時だろ……」
通りの人がまばらになり始めた頃、時間を確かめようと俺はズボンの尻ポケットを探ってみた。が、そこに入れていたはずのスマホが指に触れなくて、慌てて立ち上がる。
「あれ……無い……。まさかさっき飲んだ店に忘れたとか?」
他のポケットも探すが、やはりどこかにスマホを置き忘れてしまったようだ。
これは困ったと、先程の店に引き返そうとした時だった。すぐ側の赤提灯が揺れて、居酒屋の扉が開いたのだ。そちらを見た俺は、出て来た人を見てはニヤリと笑い、無遠慮に声を掛ける。
「そこのおにーさんっ♪」
「?」
「俺さぁ、今スマホも家も無いんだけど……お持ち帰りする気ない?……ついでに言うと、好きな人と一緒に居たいが為に仕事も辞めて来ちゃったんだけど」
こんな事を言われて、本当にお持ち帰りする人は居るのだろうか。
けれど、俺のそんな馬鹿らしい台詞に居酒屋から出て来たその明るい茶髪のイケメンは、一瞬驚いたような顔をするもすぐに口角を上げ、俺の目の前に立つのだった。
そして、俺の好きな低い声で、俺の好きな優しい瞳で、俺の名前を愛しそうに呼んでくれる。
「……勿論、晴弘さんなら喜んでお持ち帰りすっケド?」
「ん、じゃあ……伊織にお持ち帰りされようかな」
当たり前だけど、俺は伊織以外にこんなナンパは絶対にしない。
俺は酒に酔っていた事も忘れて、ずっとずっと会いたかった愛しい恋人に抱き着いた。
そしてあの時空港で、次に会ったら伝えたい事があると言った約束を今ここで果たす。
「……一緒に暮らそう、伊織。俺が一生お前を甘えさせてやる」
潔癖症でもいい。年が離れてたっていい。男だろうが学生だろうが、俺にはもう関係無い。ただ欲しいから、手を伸ばすのだ。
指輪を着けた手をお互いに繋ぎ、伊織は嬉しそうに、俺の顔を見ては微笑むのだった。
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