馬の羽

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「この前、友達と競馬場に行ってきました」  その人はうむ、と静かにうなづいた。 「そこで馬を見たんです。競馬場だから当たり前か」  僕は下を向いて、フフフと自分で自分を笑うとそのまま話を続けた。  その人は、じっと僕の話に耳を傾けた。なぜだかわからないが、真剣に聞いてくれているような気がした。 「帰り際にパドックを通ったら、真っ白い馬が歩いていました。僕が小さいころに見た馬と同じような白い馬です」 「そうか、お前を何回か競馬場へ連れて行ったもんな」  眼鏡の奥の細い目をさらに細めて、何かを思い出しながら口元の筋肉を少し緩めた。 「何回も?」 「そうだよ。あんまり連れて行くと母さんに叱られるから内緒で連れて行ったりもしたんだ」  何回も競馬場に行ったことがあるのは意外だった。 「お前は白い馬がお気に入りでな。よくお父さんに向かってこう言ったんだ。『お父さん、あの白いお馬さんに羽が生えてるよ!』ってな」 「羽?」 「そうさ。お前には白い羽が見えたんだと」  羽が、僕は小さいころあの白い馬に羽が見えたんだ。空に飛んで行きそうだと思ったことは覚えていたが、白い羽のことは何一つ覚えていなかった。  どんな羽が見えたのだろうか。ペガサスみたいな羽?蝶々みたいな羽?プテラノドンみたいな羽?どんな羽を見たのか丸っきり思い出せない。なぜ覚えていないのだろう。    考えれば考えるほど答えは遠くなっていく気がしたが、僕は考えることを止めなかった。止めたらそこで終わりな気がした。何もかもが崩れ落ちる気がした。それなのに思い出せない。どうしても思い出せない。  いつの間にか視界の下の方に水溜まりが見えてきた。何で忘れてしまったんだろう。どうして見えなくなってしまったんだろう。 「……ないんだ」 「?」 「もう……羽が見えないんだ」  その人は黙ってうなづいた。 「見たいのに、もう一度見てみたいのに、どうしても見えないんだ」  その人はまたゆっくりとうなづいた。 「羽が見えないんだよ……」  そう言った瞬間、とうとう溜まりきれなくなった水が目の淵から溢れ出してきた。頬を伝って口元まで一気に流れ落ちると、海水みたいにしょっぱい濃い塩味が喉を通過する。  目の前の視界はぼやけていてよく見えなかったが、その人は大きく深くゆっくりとうなづいたので、それだけはなんとなく理解できた。  顔に血が上っていたし、鼻水も涎もたくさん流れてきたし、僕が泣いてるのは明らかだったが、それからその人は何も言わなかった。 (了)
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