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自分が美しいかどうかには興味がない。
美しいとは思わない。
むしろ醜いと思う。
なぜなら心が醜いからだ。
他人のお世辞には、信用に足る根拠がない。
第三者からもれる「美しい」を信じられるほど心が清らかではない。
私はその発言者を憐れむ。
その「美しい」が本心ではない場合、お世辞を言わなければならない状況に出くわしてしまったことに。
そしてもし仮に本心だった場合、こんな醜い私を「美しい」と言うその残念な感性に。
乾杯。
夕暮れのマドンナ。
その薄闇色のドレスは、どこにいけば手に入るの?
トマトでもなく、バラでもないその鮮やかな赤を、口紅にしたいわ。
ええ、うっすらと月のハイライトを入れてね……。
化粧も衣服も大事なもの。
その場のマナーを解さない人間と思われないために、自分の意志とは反した服を着る。最近はお葬式ばかり続いて、真っ赤なリップも、きわどい黒のミニドレスも閉まったまま。
派手にアイラインを引いて、バレバレなくらいのノーズシャドウを入れてみたい。
そうしたら彼は、残念そうに笑うだろうか。
「美しい人だ」
始めてそう言われた時は、純粋にうれしかった。
高校生になって初めてメイクをした。
校則の厳しい女子高で、長い髪は束ねなくてはいけないし、リップクリームすら注意され、勿論メイクは禁止だった。
そんなくだらないルールに静かに従っていた当時の私はとても賢かった。
周囲の年頃の女子たちが授業後にメイクをして町へでかけて行ったり、お気に入りのフレグランスミストを振っているのをただ見守っていた。
彼女たちのシャボン玉のにおいが消えるまで真面目な私は教室に残って、数学の問題集を解いた。
甘ったるいバスルームの香りが、数学の味気ない数式とないまぜになって、私はどうしてか数字が泡の中をたゆたう夢を見るのだった。
放課後の教室で、私は彼に出会った。
泡の中にかくれた数字を見つけたみたいだった。量産される泡に埋もれてしまって、誰も救い出せずに教室に浮かんでいた。
私は救い出した。
いや、気が付いた。
人間がその数字を救い出すのは、いとも簡単だったから。
彼に名前を聞かれて、とっさに嘘の名前を口走った。
私は、嘘だとばれないように平然を装った。
今度は私が嘘をつく番。泡に埋もれて、かくれんぼ。
耳も赤くならなかった。唇も震えなかった。
その頃にはもう、私は嘘をつくのが当然の作法だと思っていた。
話をつくろうのは得意。
私の言葉の半分は嘘。
だって本当の私をわかってもらいたいなんて思わないから。
そして、わかってもらえるなんて思うのは、傲慢だと気が付いたから。
何かを押し付け合って、「なんで私の言っていることがわからないのよ」なんて涙ながらに喧嘩をする、そんな友達ならいらないと思った。
私は、いかに自分の意見をつまらないレベルに落とし込むかだけを考える、哀れな高校生になり下がった。
本当に哀れで、かわいそうで、とてもみじめで、そしてどうしようもなくかわらしい。
本当はもっとワクワクすることを考えているのに。
心の中ではいろいろな妄想をする、ファンタジックな少女なの。
でも、私は放課後も教室に残って数学の問題集を解く。
数学が好き。
それも、単純な計算問題が好き。
何も考えず、数字の波に没頭するまでもなく、答えが出せるから。
その、ファンタジーとリアルの間の、生ぬるい高揚がたまらなくいいと思っていた。
私がメイクをしたのは、数学をやるには自分の身だしなみを整えなくてはならないと思うようになったから。
数学と向き合うと、その美しさに耽溺すると同時に、自分のあまりにひどい身なりに絶望するのだ。
一日着まわした制服はヨレて、昼間のお弁当に入っていたのりが付いている。ぼさぼさの前髪、色のない唇、毛穴の開いた頬。
少しでもきれいになりたいと思った。
眉毛が描けるようになるのにだいぶ時間がかかったし、ビューラーに慣れるまで何度瞼をはさんだことかわからない。
それでも私はメイクをした。
制服のブラウスは毎日二枚鞄に入れて、放課後になると私は新しいブラウスに着替えた。トイレで着替えをして、そのままメイクを済ませる。
いつも放課後のトイレの洗面台には、同級生たちの黄色い歓声で溢れていた。不思議だ。この広い校舎の中で、お手洗いが一番騒がしいなんて。先生の前ではお利口に。後輩の前では偉そうに。先輩の前では愛想よく。クラスの中ではそれぞれの役割を演じ切る。
でも洗面台の前はそうじゃないみたい。
みんなで秘密を分け合って、自分らしくいられる時間。
そんな同級生たちと同じ顔をして、私はメイクをした。
これから近くのカフェで他校の男の子とデートをするのと言わんばかりに。
何度も鏡の前で前髪を直したり、口紅を塗りなおしたりして。
どの角度から彼に見つめられたのか、鮮明に説明して自慢しなくてはいけないのだから。
同級生たちのあざけるような視線を、私は常に排除した。
それは嫉妬?それとも憐れみ?
どちらにしても。
こんな醜い私なんかに気を留めてしまうほど、余裕がないのね。
同級生たちはそれぞれのメイクアップをして町へ繰り出していく。
本当にかわいいと思った。
容姿も、その純粋さも。
誰かに性的な対象として評価されたいからお洒落をする。
この感情が私には理解できなかった。
そういった感情をむき出しにするのは恥ずかしいことだとも思っていた。
だからか、そういった感情を堂々と見せびらかして歩く女性を、心のどこかで馬鹿にしていた。
お洒落とは、一時的なもの。可変的なもの。
その儚さを素晴らしいと評価できるほど、子供じゃなかったし大人じゃなかった。
数学の為に施したメイクが、彼を誘惑する引き金を引いてしまった。
数学と静かな時を共にしていた空間に、何も知らない彼は突如入り込んできた。
そして夕方の教室で、彼は私の目を覗き込んでこう言った。
「美しい人だ」と。
夕陽よりもまっすぐな彼の瞳の輝きを、鮮明に覚えている。
血管の浮き出た白い手は私の黒髪をのせて、そのまま絡めとるように頭上へと延びていく。
時折風がカーテンの隙間を潜り抜けて、彼の意識を戻すようだった。
風にため息を混ぜて、彼の意識が現実へと引き戻される度に「あぁなんて儚いの」と私は思う。
赤くはれたような彼の耳たぶをこの手で引き寄せたいという強い衝動にかられた。
だが、私の意識は風にも飛ばされず、ただ泡だけを捕まえていた。
ここはファンタジーか。それともリアルか。
いいやどちらでもない。
狭間で埋もれてしまった泡の世界。
どこにもいけない。どこへでも行ける。
限界と無限に息をひそめていなさいと言われた、ただ絶対的な虚無。
「美しい」
と面と向かって言われたのはそれが初めてで、私の中で確かな高揚感が生まれたのは事実だった。
嬉しいと思ったし、恥ずかしさや、申し訳なさが後からついて回った。
私は数学の為にメイクをしたのに。
彼の為にブラウスを変えたわけじゃない。
メイクの腕前だって同級生に劣っている。
異性の為にお洒落をするのは癪だと思う、生意気な高校生なのに。
事実、私は彼を異性として意識したわけではなかった。
かわいそうな人。でも、ちょっとかわいいかも。
私は久しぶりに笑った。いや、ほほ笑んだ。
微分の楽しさを見つけた時に匹敵するワクワクだった。
梅雨入りがニュースになっておよそ一週間がたった頃、私はとてもいいアイデアを思い付いた。
彼との関係はぎりぎりの状態だった。
テーブルの端に置かれたワイングラスのように繊細で危うい。
言葉にしようと音を立てた瞬間、私はワイングラスの破裂で指を切るだろう。
彼の手が私のスカートへとのびた時はさすがに動揺した。
椅子に座った私のふとももに一瞬でも体温が移った時、悪夢を見ているのかと思ったぐらいだ。
人の体温は温かかった。
そのリアリティが私を現実に引き戻してしまったのだ。
彼は私に魔法をかけるのがとても得意だった。
彼を目の前にすると、頭がぼうっとなって視界がうつろになっていくのが自分でもわかる。
気が付くともうろうとした意識の中で彼と手をつないでいたり、私の爪先を執拗になぞる彼の指を見つめていたりした。
もっと暗かったらいいのにな、と私は度々思った。
でも暗かったらお互いに夢の中だと勘違いして、現実に帰れなくなるに違いない。
私は自分を「美しい」と言った彼を信用できなかった。
現実への帰り方を教えてくれる人には到底見えない。
梅雨のじめじめとした足音は、陰湿な教師のそれによく似ている。
私たちは抑圧されて、ただおびえている。通り過ぎるのを辛抱強く待って、もういいようだと思うとはっと顔をあげる。我慢したぶん、空はきれいに見えるという算段だ。厳格な先生ほど、過大評価されるように。
でもその日の雨は、私にとっては違った。
いつもと変わらない、いや、それ以上のじめじめと不機嫌な雨を選んだ。
朝から重たい雨雲が立ち込め、雷も轟く朝。
通勤電車のこもった空気はこの世の絶望に近い。
スカートはしめり、ブラウスも汗と混じって肌に張り付く。
鞄を泥まみれの車内に置きたくないので、膝に抱えて座った。
前に立ったサラリーマンを上目遣いで一秒だけ見つめる。
彼は一瞬で目をそらしたあと、急いで鞄から新聞紙を出した。
私はまた少しだけ微笑んだ。
放課後のチャイムが待ちきれなかった。
だがすぐにトイレに行くようなことはせず、私は図書館に向かった。
私は、丹念に本棚一つ一つを確認した。
背の高い天井まである本棚の湿った木目をなぞりながら。
雨の日の図書館はありがたいことに人気も少ない。
中間テストが終わった後だからか、図書館の閲覧室で勉強している生徒は一人しかいなかった。司書の先生からも、その生徒からも見えない位置で、私はやっと足を止めた。
長旅の末、私は百科事典の「い~か」と「き~こ」の隙間を見つけた。
全部全部計算済み。
頭の中で何回もシュミレーションをして、彼の言葉、行動、表情の一つ一つを再現した。
これは完璧なプラン。余白のない解答。
だいぶ人気も減った頃、私は鞄を持ってトイレの個室に入った。
新しくて広い個室。誰も来ないと確信できたのは、トイレの電気が落ちた頃。
そうなって初めて私はブラウスの細いリボンをしゅるりと解いた。
続いてブラウスのボタンを上から一つずつ丁寧に。
胸の鼓動が、少しづつ高鳴っていくのを感じる。
ブラウスを脱ぎ、私は花の刺繍の入った真っ赤なブラジャーのホックを外した。
プチっと音がして胸が少し弾む。
カップに手を添わせそっと肩紐を外す。
ブラを鞄に突っ込み、代わりに汗拭きシートを取り出した。
そのままスカートと靴下も脱ぐと、私は全身をその濡れたシートで拭いた。
ほんのりシャンプーの香り。
それは本物によく似た、嘘の香りだった。
私は教室で、いつものように彼を待った。
どきどきと高ぶっていた鼓動は、この時には静かになっていた。
緊張が、自信に代わったのだ。
うまくいかないはずがない、と。
彼は教室に入ってくると、少しだけ立ち止まって、私の胸元を見た。
分かりやすい人。
彼はそのまま視線をあげ、困ったように微笑んだ。
彼がそのままこちらに歩いて来るのを手で制して、
「私の下着は図書館のどこかにかくしちゃった」
私の声は教室の中でいびつに反響した。
彼と私しかその言葉を浴びる人間はいない。
窓の隙間から、言葉は滑り落ちていった。
「しょうがないな」
彼は優しく微笑んで、一度教室を出た。
暫くして彼が戻ってきた時、彼の上着のポケットは大きく膨らみ、その顔には満ち足りた狂気が宿っていた。
「隙間を見つけた?」
私は組んでいた足をほどいて、ゆっくりと立ち上がる。
彼のなめるような視線が全身に絡みつく。
雨よりもジメジメとした視線。太陽よりも熱い視線。
「外へ行きませんか?」
私たちは、校舎の裏口からそっと外へ出た。
外は森。
みだらな二人は傘を持たずに進んだ。
雨が顔をうつ。
せっかくビューラーであげたまつげを濡らした。
アイラインがにじむので目をこすれない。
私は彼の背中に顔を押し付けた。
あれから何年も経った。
今でも、雨が降ると思い出したように化粧をする。
アイシャドウは濃く重ね、リップラインはオーバーに。
胸元まである髪は丁寧に巻いて、オイルをなじませる。
クローゼットの前に立って、とっておきの一着を探し出しすと、外へ向かう。
雨は寂しがり屋の少女のように。
あの時と違うのは、これが五月雨ではなく秋雨であること。
肌にまとわりつく少しの冷気が気持ちいい。風と雨が織り込んだ空気をまとうのはこの上ないお洒落だ。
傘をさすなんて無粋。
空と地面の隙間を埋める雨を、受け止めなくては。
時間をかけてお洒落をして、化粧も服もヘアスタイルも一瞬で台無しにする。
それがどれほど楽しい遊びか、わかる人にはわかるだろう。
もうシャボン玉の香りなんてしなかった。
私の中で、少女だった時代はとうに過ぎ去ったのだ。あれから何度も「美しい人」と言われ、そのたびに私は微笑んでごまかした。
嬉しくなんてない。
悲しくなる。メイクをして、いい服を着て、時間をかけて髪を整えたら解決するような「美しい」という言葉の原理に。
それは本当の美しさを知らないから、そう言うのよ。
本当に美しいものは隙間で揺れ動くものだし、とても中途半端で一瞬で崩れ落ちてしまうもの。
雨がすべてを消し去っていく。
雨よ、やんでくれるな。
私の隙間の泡を洗い流して、隠れていた恥ずかしがり屋を見つけ出させて。
ほら、そこにいるんでしょう。
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