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少年の名はアーロンと言った。アーロンはこの街を訪れるのは初めてで、ついでにいうと入院も初めてだとリザヴェータに話した。犬はかばんに入れてごまかしたのだという。こっそりと犬を病室に入れることに対しては、悪びれた様子もなく、ただ、俺が入院中こいつは他にいくところがないからねぇとつぶやいた。
少年少女と一匹の犬の、奇妙な入院生活がこうして始まった。
一日に三度の食事を運び、夜の見回りのために看護婦がやってくる。午前に一回、診察のために医者が聴診器を当てる。それ以外の時間は、二人で過ごす。最初はリザヴェータ、と呼んでいた少年も、ともに過ごすうちにリーザと愛称で呼ぶようになった。ほとんどが快活な少年の聞き手だったが、そもそも誰かの話し相手になること事態、新鮮で楽しく感じられた。
アーロンは空のにおいの通りの、とても自由な男の子だった。足を怪我したというのに、病室で逆立ちをして歩き回り、ベッドの上で愛犬と戯れ、かばんから取り出したスケッチブックに落書きをした。逆立ちでも二本の足と同じように澱みなく歩いた。自慢げに見せてくれたスケッチブックは風景画で、絵描きと言っても遜色ないほど綺麗だった。
ブレードという名の犬は飼い主と同じぐらい自由な生き物だった。出会ったころは顔を摺り寄せるだけで済んだが、そのうちにリザヴェータの布団で腹を出して眠り、よく手をなめるようになった。最初は迷惑だから駄目だといさめていた少年も、だんだんと諦めて、
「ブレードは昔からおいしいものときれいなものが好きだからなぁ」
と、このように呑気なひと言を残すようになった。
きれいなもの。何気ない少年の言葉に、リザヴェータは恥かしくなる一方であった。きれいなもの、とは、淫乱な母の面影がのこる私のことだろうか。そうと考えると、結局はとても醜いものと同じ意味なのではないかと、薄暗い思いが募ってしまうのであった。
おなじ部屋で過ごすうちに、彼らについてのいくつかの点にリザヴェータは気付いた。アーロンは、レーズンが入ったパンとチョコレートが好きだ。ブレードは犬の癖に、パンに挟まった玉ねぎを食べてもぴんぴんしている。そしてアーロンとブレードは犬と人間という生物上ちがう間柄なのに、意思の疎通ができているようだった。
少年と、少女と、いてはいけない筈の一匹の犬。
眠る前、アーロンはよく、星についての話をリザヴェータに聞かせた。彼は星についてよく知っていた。そういえばとリザヴェータは思い出す。彼がやってくる前の晩、ひとつの星が流れると、べつの星々が次々とあとを追っていったのだった。
「かぜうたい座は、秋の夜に平原で休んでいた旅人が、うたった旋律のかたちをしている」
「くろねこ座は夏のはじめの、ほんのわずかな期間でしか見ることが出来ない」
「ほんのわずかな期間ってどのぐらい?」
「夏至が終わった頃だけ」
とび魚座でいっとう輝くのはアクアマリンの色彩を持つ。
夏と冬では、見える星座も輝きも違う。
冬の方が空気が澄んでいるから、星自体は美しく見える。
彼が語る星の物語は、リザヴェータが持っていた認識を覆すものだった。リザヴェータにとって、星というものは、死んだ人間がなりかわるものでも、美しい物語を思い起こさせるようなものではない。ただ、夜になれば変わらずに輝くもの。日が落ちたらかわりに現れるもの。すなわち、窓から常に見える日常そのものであった。
アーロンには日常から生まれたべつの風景が見えるのだろう。星のかたちから連想される物語。彼が独自で紡いだものではないだろうが、星について語るときは、非常にいきいきと輝いているのであった。
彼は星が好きなんだ。
それはきっと、彼が空のにおいを纏っているからだとリザヴェータは感じていた。
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