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「……………いつも思うけど、意外と、雨の音はしないな」
「そう? わたしはもう慣れちゃって。家と畑には降らないしね」
そう言って、「彼女」は窓の外を見た。確かに裏の畑を含めた家の周りは明るく光が差し込んでいる。森から一歩でも外にでれば晴天だからなのだろう。ここだけは、妖精の雨の範疇外なのだ。しかし、ぐるりと家を囲む森は暗く、たえまない雨が降り続いている。変わらぬ景色。止まぬ雨。このぽっかりあいた小さな空間だけが、「彼女」に残された人の世界だった。
「…………あんなこと、俺が言わなければよかったな」
「いつもそれいうね。シオンのせいじゃないよ。もちろん、君を恨んでもいない。それに君が色々持ってきてくれるおかげで、不自由なく暮らせているし」
「…………………」
その言葉に、嘘はないのだ。だからこそ、シオンは恨んでもくれていいのに、と思ってしまうのだ。
「彼女」が、妖精に捕らえられたきっかけを作ったのは、シオンなのだから。
それは、「彼女」が故郷に帰ってしばらく経ってからのことだった。「彼女」が王都を離れてもマメに連絡をとっていたシオンは、「彼女」から、なかなか思うように作りたい薬を作れない、と書かれた手紙を受け取ったのだ。辺鄙な田舎のことである。材料の薬草を手に入れるだけでもひと苦労。さらに貴重な物も多く値段も高い。王都にいた時ほど薬を扱えないと嘆くのは当然でもあった。そして文脈からして「彼女」とて本気でシオンに相談したかったわけでもなかっただろう。けれど、シオンは少しでも「彼女」の助けになれば、とちょうどその頃、商家で探している薬草を用意できないかと「彼女」に調達を打診してみたのだ。
それが、「彼女」が森に入るきっかけであった。
「彼女」は、シオンが頼んだ薬草を探して森に入り、妖精に捕らえれて、そして、二度と外に出られなくなった。
今、「彼女」に会えるのはーー森に入ることが許されているのはーー母親とシオンぐらいなものだ。
父親の薬屋を継ぐために、頼る先もない王都で必死に勉強して一級薬師の資格をとった「彼女」。
地方から出てきた多くの者が資格を取った後は王都での不自由ない生活を選ぶ中、まともな医者もいない故郷のために迷うことなく村に帰った「彼女」。
今とて、おそらくシオンが渡した食料品は、飴玉だけでなくーー最低限を残してーー母親に渡してしまうのだろう。そしてそれは、結局、村の人々に渡るのだ。そしてシオンが「彼女」から薬草を仕入れるようになって以降、「彼女」の畑でとれる薬草が高級品だと知った村長は、「彼女」の母親を使って薬草を仕入れ、それを金銭に変えている。得た金銭はあくまで村の運営資金であって私服を肥やしているわけではないけれど、自分の村の娘がーー貴重な薬師がーー妖精の魔法で森から出られなくなっても、地方の駐屯騎士団への救助要請を取り下げた理由が確かにそこにはあったのだ。
「彼女」が森に囚われる前と今で豊かになった事実を、その犠牲を、彼らは黙殺し続ける。
けれど、きっと「彼女」は、自分を犠牲などと思ってはいないのだろう。
「雨はね。嫌ではないの。だって、あれは、わたしを望んでくれている証だから」
豊かな髪を纏める銀の簪を触って「彼女」が笑う。
この国では、銀の装飾品を贈るのは婚約者がいる証だ。正式に結婚すればそれが金の指輪に変わる。そして、「彼女」の髪を彩るのは、幾つもの宝石が輝く見事な細工の銀の簪で、王都の貴族のご令嬢でも簡単に手に入れられるものではないだろう品である。
この国の文化を知り、人の生活を理解して、一級品の銀細工を贈れる存在。更にーー森に閉じ込めこそすれーーすぐには彼女を攫わず、天寿を約束したというその相手。
そして、彼女を守るために、彼女に害なすものを近づけさせぬよう、命を奪う雨を降らせ続けられる力を持つ強大さ。
門外漢のシオンでもわかる。それは、人にちょっと悪戯をして姿をくらませてしまうような下級の妖精ではけしてないと。
そこまでできる者など、それはまるで妖精のーー。
「シオン?」
ふいに名前を呼ばれ、シオンはハッとする。心配そうな「彼女」になんでもないと首を振った。
「彼女」の名前を呼ぼうとしたけれど、それは音になることなく、なんと言おうとしたのかも分からなくなってしまった。
妖精から贈られた銀の簪を受け取ってしまった「彼女」は、成約の証に自身の名前を捧げたからだ。
もう誰もーー母親でさえーー「彼女」の名前はわからない。
そして「彼女」は、いつかその指に美しい金の指輪をはめて、魂を捧げるのだ。
唯一、「彼女」の名前を呼べる相手へと。
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