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Kが瞬きしているとふと、視界の隅にひっかかるものがある。
山科の机の壁に、四切サイズの写真をパネル化したものが掲げてあった。一枚は慣れた身にはそれと分かる甲子園の写真で、一塁側ダックアウト前に整列し、今まさにグラウンドに飛び出そうとするナインが写っていた。
あと一枚は投手だった。
雨の日だろうか。目深に被った帽子のせいで表情は窺えないが、某球団のユニフォームと背番号が見て取れる。ぴんと背筋の伸びた長身は、威風堂々として。
鈍色の世界の中心、
マウンドにすっくと立つ 唯一無二の
某球団の三投手 雨の日の理学部通用口
背の高い男 柳澤投手 雨の、
ピースがはまる。
「お知り合いの投手は、雨男、ですか?」
思わず口に出していた。山科が目を見張る。
確かに一番訊きたかったことだが、突然切り込める話ではなかった。
なかったのだが。
Kはパネルから視線を山科に戻す。端麗な物理学者に、ゆったりと笑いかけてみた。
「俺は高校でもキャプテンで、藤木とは高校時代に対戦して知り合ったんです。そのときに、藤木の幼馴染みの遊撃手とも連絡を取るようになって… 雨の日は、よく電話をしてました。部活が、ないから」
いったん、言葉を切る。口を挟まない山科を窺えば、それで? と無言で促された。Kはもう一度、写真パネルに顔を向けた。
練習試合や大会で顔を合わせて、なんとなく話が弾んだ。同じポジションだったし、野球観というか、ものの見方が面白いと思ったし、たぶん波長が合ったのだ、とKは訥々と語る。
そのうち部活外… 予備校の模試で再会した。
そこからはもう、まさに重力加速度的に。
誰にも言えない。
言えるわけがない。
ライバルチームの参謀だ、ただの知り合いでなければならなかった。
なのに。
もちろん、先発投手をばらすとか、チームの運営を伝えるとか、そういうことはなかったけれど。戦術や戦略の話題は尽きなかったし、藤木の話もしたし、野球以外の他愛のない話もたくさんした。
そして、チームメイトには言えない悩みや愚痴をこぼし、仲間には見せられない弱みも見せた。キャプテンとして、チームの大黒柱であらねばならないことも、彼の前では忘れられた。
だから、たくさんしたのだ、雨の日が来る度に。
彼と言葉を交わすほどに、触れあえば触れあうほどに、背徳感は澱のように凝って、チームメイトの顔を見るたび、ちりちりとドライアイスに素手で触れるような。
それでも、野球が好きだった。
「部活を引退したあとも、誰にも… 話したことはないです。藤木にも」
後ろめたさから藤木本人にもろくに会えなくなったのに、結局、自分たちはどうしようもない選択をした。Kは、マグカップに残った焦げ茶色の液体を見下ろす。
こんな些細な習慣がうつるくらいに。
「本人はもう、野球は辞めてしもうたんですが、こっちの大学に通うてて… いま、一緒に住んでます」
それがなんだ、と云われてしまえばお終いなのだが。
だが、きっと伝わると思った。
きっと。
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