接吻

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 創立から百年を超えるこの大学で、理学部○号館はかなりの古株だ。恐らくまた何処かで雨漏りが発生しているだろう。不運な研究室の雑事を思うと、ちょっと気の毒になる。Kは小さく溜息を吐いた。  無論、他人に同情している場合ではない。  そぞろ卒論をまとめ始めるこの時期、そういえば過去に一部同様の手法を使った学位論文か修士論文があったはず、と指導教官に言われたまでは良かったが、それがまた。パブリッシュさている論文ならもちろん苦労はしないが、ただの学生の卒論・修論だとそうもいかない。しかもまだ電子化・標準化が整っていない時代のものとなれば、すなわち、検索は人力に頼るしかない。  そうして、Kは○号館一階端、▲号館と隣接した部分の書庫に一日籠もっている。ほとんど書庫というより物置の中から、それらしきファイルを探して半日。湿気のせいでカビ臭い書架や段ボールに辟易し、ドアを開け放ってひと息吐いた。  資料の地層のうち、そろそろ目的の層に近付いてはいるはずだ。地殻変動がないことを祈りつつ、また新たな段ボールを、  …うん?  足音が近付いて来る。ずいぶんと急いでいるようだ。湿った廊下に籠もったスタッカートが響く。Kがロッカーや試薬棚の隙間から窺えば、物理科の方から誰かが降りてくるようだ。  普通の学生・教職員なら、メインストリートに面した西口や食堂や購買に近い南口を使う。こちら側は倉庫や機械室ばかりなので、人影もほとんど無い。不思議に思って見ていると、傘を携えた男性がひとり通っていく。  Kは目を見張った。  その人には見覚えがあった。
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