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いらない半径
「今日、好きなバンドのライブなんです」
横断歩道を渡りきると道幅の広い歩道になる。立ち並ぶ街路樹のせいか雨の勢いは弱まり、さっきよりも堀田さんの声が聞き取れるようになった。しかしライブ、しかもバンドとは意外だった。優雅なクラシックのほうが似合っていそうなのに。ひとりで行くのだろうか。いや、あまり詮索しすぎると嫌われる。
「いいですねライブ。なんていうバンドですかー?」
堀田さんはボソッと答えてくれたが、また勢いが戻った雨のせいで全然聞き取れなかった。いつの間にか街路樹は途切れていた。バンドの名前は、たぶん短い。よっぽど訊き返そうかと思ったけど、ただでさえ雨の中の会話は印象がよくない気がしたし、しつこいと思われたくないのでやめた。そうなんですねー、と適当に相槌を打ってしまった。
2つの傘の半径が、わたしは憎かった。こんなことになるなら、いっそ傘なんて置きっぱで出てきちゃえばよかった。そうすれば、もしかしたら……。あの時カスミさんが教えてくれなきゃ……。いや、でもあの人はいい人だから。
沈黙と雨と自動車の走行音が、わたしを焦らせた。あと何歩か進めば地下鉄の入り口が見えてきてしまう。
「あれ、どこまで行くんですか?」
堀田さんがわたしのほうを向いて言った。すでにコンビニを2つ通り過ぎていた。スマホと傘しか持たないわたしを、堀田さんが怪訝に思うのは当然だ。
「ちょっと、あの、本屋に用事あって」
とっさに嘘が出た。そしてすでにその本屋の前まで来ていた。目の前はもう大きな交差点だ。長い横断歩道を渡った向こう側に地下鉄の入り口が見えている。
「あ、本屋そこですね」
じゃあ、と堀田さんは傘の下で軽く頭を下げた。信号が青に変わる。違う、こんな薄っぺらい会話じゃ全然足りない。もっと踏み込まないと。
「あの、堀田さんって、彼女いるんですか」
堀田さんは足を止めてわたしを振り返った。だいぶ単刀直入だな、と自分で思う。でも一番知りたいことだ。
堀田さんが口を開いた。その時、雨足が急に激しさを増した。
「……いっす」
堀田さんは傘の中で軽く会釈して、横断歩道を渡っていった。地下鉄に続く階段に吸い込まれる堀田さんを、わたしは茫然と見送った。
やまない雨が恨めしかった。何て言ったの堀田さん。はっきり訊き返せなかった自分がもどかしい。雨じゃなかったら聞き取れてたな。相合傘でも聞き取れてたな。でも、きっとわたしにとって悪い答えではない。そんな確信があった。だってその時の堀田さんの顔、くしゃっとなってたから。
そんな都合のいい解釈が誤りだったと知ったのは、それから四年後のことだった。恋人の存在などまったく匂わせていなかった堀田さんが突然結婚したという話を、わたしは人づてに聞いた。その時はもう別の派遣先で働いていたけど、その知らせにただただびっくりしてしまって、悔しさも悲しみすらも湧かなかった。だってその相手は、わたしが密かにあこがれていたあのカスミさんだったから。
そう言えば、わたしの歓送会の時に、カスミさんにどんな音楽を聴くのか訊いてみた。返ってきたのはボサノバでもジャズでもなくて、日本のバンドばっかりだった。その日も朝から雨が降っていた。
「こういう日はね、くるりの『ばらの花』が無性に聴きたくなるの」
わたしが知らない曲だった。どんな歌詞なんですか、という質問に、カスミさんは「それ言っちゃうとつまんないでしょ」と笑った。
「ライブとか行くんですか?」
「この仕事してると、なかなかね」
眉を八の字にひそめ、カスミさんは首を振った。
「去年、平日のライブのチケット当たったんだけど、仕事で行けなくなっちゃった」
ちょっと悔しそうに微笑んだあと、カスミさんはぼんやりとつぶやいた。
「あの日も確か、朝から雨だったな」
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