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安心したくない5分間
わたしは急いで席を立った。6月に入ってからまだ一度も堀田さんと話せてない。今はExcelなんかやってる場合じゃない。ほんの10分だけ、わたしに時間ください、カスミさん。
「はーい。気をつけてね」
スマホだけ持って、わたしは小走りで廊下に出た。
「本田さーん! 外、まだ降ってるよ」
カスミさんの声が追いかけてきた。そうだ、今日は朝から雨だった。やっば、と大急ぎで執務室に戻って、傘立てから濃い赤地に白い花柄の傘を取る。わたしにしては少し派手なデザインだと友達からは言われるけど、本人は気に入っている。やる気が湧かない雨の日こそ、気が晴れるものを持つべきだと思う。それに、安物のビニール傘と違って少々の強風ではびくともしないくらい頑丈なので、重宝してる。
エレベーターの前に堀田さんはいた。よかった、まだ降りてなかった。
「あ、あの、おつかれさまですっ」
いきなり話しかけられてぎょっとしたのか、クールなはずの堀田さんが一歩後ろに引いた。びっくりさせちゃって悪かったかな。でもその意外なしぐさがかわいかった。
「……おつかれっす」
ぼそりとつぶやいて、堀田さんは軽く頭を下げた。エレベーターが来た。
会社の玄関を出ると、ザーザー降りとまではいかないものの結構な勢いで雨が降っていた。わたしたちはほぼ同時に傘を開いた。いっそのこと、あのまま傘持たずに来ちゃったほうがよかったかな……と一瞬思ったけど、ないと会社に戻る時に困る。
「堀田さん、今日早いですね」
会社の前の交差点で、わたしは横に立つ堀田さんに水を向けた。傘が弾く雨音と、目の前を行き交う自動車のザザーッというタイヤの音が耳につく。
はあ、と堀田さんの口が動いたようだった。周りの音のうるささに反して、堀田さんのボソボソ声は低くて小さい。信号が変わった。地下鉄の駅までは多く見積もっても5、6分の距離しかない。堀田さんと話す時、わたしは必ず緊張する。赤面する。挙動がぎこちなくなる。敢えて話しかけずにいたほうが、ある意味安心だ。でも話しかけるチャンスを逃すたび、わたしはどうしょうもなく悔しくなる。今、せっかく隣を歩いているんだ。黙ってる場合じゃない。
「もしかして、デートですか?」
わたしは思い切って踏み込んでみた。堀田さんの顔が一瞬驚き、くしゃっとなったように見えた。
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