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帰れません立つまでは
定時のチャイムが鳴った。
今朝指示されたExcel仕事はとうに終わっていたのに、わたしはいかにも思案気なオーラを出してパソコンに向かっていた。派遣社員のわたしは基本5時までの勤務という契約なので、本当はさっさとあがらなきゃいけない。でも今はその時じゃない。彼が席を立つまでは。
わたしが気になっている堀田さんは隣の隣の島の社員さんで、派遣のわたしとは業務の絡みがまったくなかった。初めて話をしたのは去年の新人歓迎会の二次会で運よく隣の席になった時で、そのあとはごくたまに給湯室で鉢合わせするくらい。話しかけるのはいつもわたしのほうからだった。確か年齢はわたしの1つ下の28。指輪はしていなかった。
細身で長身で色白で眼鏡をかけていて、ぱっと見理知的すぎるその風貌は「冷たい」とか「ロボット」とか「AI」とか影では言われていたけれど、わたしは最初の出勤日に見てしまった。昼休みにほかの社員さんと雑談していた端正な顔が、くしゃっとなる瞬間を。あれから三年経つというのにわたしは堀田さんとの距離を少しも縮められずにいた。
うちの部には、定時であがる社員さんなんてほぼいない。忙しい時期はわたしでも、頼まれて9時10時まで働くことがある。今日、堀田さんは何時までやっていくんだろう。帰る時間がかぶると最高なんだけど。
「本田さーん、お願いしてたExcelどんな感じ?」
話しかけてきた小柄な童顔の女性は、わたしの上司にあたるカスミさん。どこかの南国の民族衣装みたいなゆったりとした服に身を包んで、ボサノバとかジャズとか、とにかくおしゃれで落ち着いた音楽を聴いてそうな雰囲気をまとっている。なんと言うか、童顔なのに大人。実際どんな音楽を聴いてるのかは、知らない。
わたしと2つしか年が違わないこのお姉さんは、社内の空気が張り詰める繁忙期でも柔らかい笑顔を絶やさず、それでいてテキパキと仕事を回していく。指示はいつだって的確で、細やかな気遣いの人だ。ルーティンワークは得意だけど不測の事態が起きるとすぐテンパってしまうわたしは、かわいくてかっこいいカスミさんにちょっと憧れている。
「あ、もうできてます」
「ありがと」
カスミさんがほほ笑む。そしてすぐ眉を八の字にした。
「悪いんだけど、もう1コ作業お願いできる? さっきお客さんから急な修正指示が入っちゃって、明日の朝までに送らなきゃいけなくなったの」
ごめんね、と申し訳なさそうに言うカスミさんは心底困っている様子だった。そんなふうに頼み込まれたら、力になりたいと思ってしまう。幸い今夜は用事を入れてないし、あわよくば堀田さんが帰る時間まで会社にいれたら御の字。お願いされた作業は2時間くらいで終わりそうな量だった。となるとあがれるのは7時半か。さすがに堀田さんまだいるだろうな。わたしより早くあがったとこ見たことないもんな……。
ふとパソコンの画面から視線を外したわたしは、ハッとなった。堀田さんがカバン持って出ていった! もうあがるの? まだ5時半にもなってないよ。ああ、でも今さらカスミさんのお願い断れないし、もう作業に入っちゃったし……。
「カスミさんすいません、ちょっとコンビニ行ってきます!」
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